2章
第二章 一節
……チュン……チュン……。
窓の外で鳴く、見知らぬ鳥の声で目が覚めた。
ロマーリアの朝は静かだ。
どこか潮の香りがする風が、二階の小さな部屋にひんやりと吹き込む。
木製の天井。少し軋むベッド。肌触りの良い、ちゃんと洗濯された毛布。宿屋《カモメ亭》。素泊まり一泊30ゴールド、7泊前払い150ゴールド。食費込みなら220ゴールドだ。
安くはないが、大都市の個室部屋にしては手頃な部類らしい。
「……あ、起きていらっしゃいましたか、マスター。」
寝間着姿のリアラが、小さく笑って振り向いた。
髪を結っていたリボンは外れ、やわらかく肩にかかっている。顔は……少し疲れてる。昨夜、戦ったばかりなのだから無理もない。
彼女の右足には、包帯が巻かれていた。
「……ごめんなさい。せっかく勝てるかもって試合だったのに、私、あんなふうに足をくじいてしまって……。」
「いや、あれは……もう爆発してたし、靴が。誰も読めないですよ、あんなの。」
思い出して、少し笑う。あの《サンダル》はあまりにも理不尽だった。
「ふふ……。でも、これでもう、ゴールドも残り……。」
そう言って、リアラがそっと差し出した革袋。中には、小さな金貨がちょっとだけ。
「10枚……ちょうど、です。私たちの全財産ですね。」
《カモメ亭》の前払い、朝食と夕食付き7日分。つまり、あと2日は屋根とご飯がある。
けれど、それ以降の保証は、何もない。
リアラの微笑みが、ちょっとだけ、寂しそうに見えた。
「……足、痛みますか?」
「いえ、魔法でだいぶ抑えましたし、少し腫れているだけです。歩くのは……ちょっと、びっこ引いちゃいますけど、大丈夫です。」
「そうですか。……無理はしないでください。ほんとに、ありがとうございました。俺のために、あんな派手な相手と戦ってくれて。」
リアラは、ほろっとした表情になって、ゆっくりと頷いた。
「……やっぱり、マスターはやさしいですね。そうやって、いつもちゃんと“ありがとう”って言ってくださるから……。」
その声は、どこか温かくて、けれど同時に、何かの痛みを伴った優しい響き。
「……俺、何もできなかったですよ。」
「そんなこと、ありませんよ。マスターがいてくださったから、私は……最後まで頑張れたんです。」
俺は視線をわずかにそらしながら、ひと呼吸おいた。
「……ふ、普通のことをしたまでです。」
リアラが、小さな笑みを浮かべる。
「うふふっ。……でも、うれしいです。」
ほんの少しだけ、部屋の空気があたたかくなった気がした。
……けれど、心の奥に沈んでいるのは、やっぱり現実の重さだ。
足をかばいながら座っているリアラを見て、俺は思う。
何か方法はないか。このままじゃ、どちらかが無理して、また倒れてしまう。
俺は立ち上がった。
「……ちょっと、酒場の方、覗いてみます。なにか情報があるかもしれないですから」
「お待ちください、マスター。……私も、行きます。」
傷ついた足にそっと手を添えながら、リアラはゆっくりと立ち上がった。
痛みを押し殺すような小さな吐息。それでも、その瞳は、しっかりと前を向いている。
「リアラさん……無理は、しないでください。」
「大丈夫です。お話を聞くだけなら……私でも、きっと、お役に立てますから。」
静かな決意に、俺はそれ以上の言葉を見つけられなかった。
第二章 二節
朝の陽が石畳をゆっくり染めながら、宿屋の一階──通りに面した小さな酒場にも、温かな光が差し込み始めていた。
木の椅子に腰かけた俺とリアラは、ひとつの卓を挟んで並んでいる。
彼女の足首はまだ腫れており、テーブルの下でそっと伸ばされた足には、包帯が巻かれていた。
「……何か、いい話が転がってないかな。」
つぶやいた俺に、リアラは静かに微笑んだ。
「こうして座って、情報を探そうとしてくださることだけで、私は安心します。」
「そんなこと言われると照れますよ。」
目の端でふと、カウンター付近の話し声が耳に入った。
「スカブの村、今年は香草が当たり年らしいぜ。香りが強くてな、薬師も欲しがってるって話だ。」
中年の男、昼間から少しばかり酒が入っている。
「ああ、あのヴィーガン(菜食主義者)の村か。でもよ、ロマーリア街道って最近モンスター出てんだろ?荷馬車がやられたって聞いたぜ。」
隣にいるのも似たような雰囲気。同業だろうか?
隣のテーブルでは、若い冒険者たちが朝食をつまみながら、眉をひそめていた。
「護衛も高ぇし、命かけてまで香草運ぶ奴なんていねぇっての。」
その会話を聞きながら、俺はそっとリアラに身を寄せる。
「ねえ、スカブの村って、どんなところですか?」
「ロマーリアの北に位置する山あいの村です。肥えた土壌で香草や豆類がよく育ちますし、季節によっては薬草も取れるそうです。住んでいる方々は、菜食主義という生き方を選ばれ、温厚な方が多くいると聞きます。」
思った通り、彼女はロマーリアの地理に詳しかった。
「……もしも。その村に誰も行きたがらないなら、俺たちが行ってみるのはどうでしょうか?」
「……!」
リアラは目を瞬かせて、それからほんのりと笑った。
「素敵な発想だと思います、マスター。とても、温かいです。」
「はい。でも、こういう稼ぎ方って、変かな。俺、戦いとかには全然自信ないですし……。」
「いえ、変ではありません。むしろ、私にとっては新鮮で嬉しい発想です。これまでは少し、体を動かす現場が多かったものですから……。」
彼女の視線が、ふとテーブルの下、包帯の足元へと流れる。
それは「語らない」過去を遠巻きににじませるような、沈黙の仕草だった。
けれど俺は、それ以上を訊くことはしなかった。
「じゃあ、まず準備を整えないとですね。装備とか、道具とか……。」
「それでしたら、マスター。闘技場からの保証金、まだお受け取りではありませんよね?」
「え、保証金?」
「はい。ブロンズ級の参加者には、支援金として100ゴールドほどが支給されるんです。」
「えっ、それ……貰えるんですか?」
「はい。転生者ご本人が、窓口で申請する必要がありますが……。」
「……よし、行ってみようかな。」
思わず立ち上がろうとした俺に、リアラが急いで手を伸ばす。
「お待ちください。受付は午前中であれば比較的空いています。焦らず、ゆっくり……朝食を少し落ち着かせてからでも遅くありません。」
「……そっか。ありがとうございます。」
彼女の声はいつもより少し柔らかく、そして何より、「頼られる喜び」が滲んでいた。
俺はもう一度椅子に腰を下ろし、気がつけば空になっていた水差しを彼女と見つめながら、小さく笑った。
第二章 三節
闘技場の窓口で、俺は召喚器を提示し、保証金の申請を済ませた。
何の演出もない、ただの事務手続き。
だが、手渡された革袋の重みは、確かな実感だった。
宿に戻ると、リアラが椅子から立ち上がりかけて、「おかえりなさい」と小さく頭を下げた。
「100ゴールド、無事もらえました。」
「よかった……。これで、旅の支度が整いますね」
少し腫れの引いた足を庇いながら、彼女はゆっくりと微笑んだ。
翌朝。
リアラの足の調子が回復したことを確認し、二人で市場へ向かった。
保存食、麻の袋、予備の水袋、最低限の装備。
水袋以外はどれも安物ばかりだが、旅に出る実感が胸の奥にじんわりと灯る。
旅自体はこれが初めてではない。
ロマーリアに訪れる前のテーロスィア大陸でも、リアラと共に星空の下でいくつもの夜を迎え、世界樹の加護を離れた“もしもの先”に踏み込む旅をしてきた。
「スカブの村までは、街道沿いに北へ。途中に“オーヴの井戸”があります。水の補給ができると思います。」
リアラは道中の簡単な地図を手描きで示しながら、落ち着いた声でそう説明してくれた。
その横顔には、回復とともに、少しずつではあるが、いつもの穏やかさが戻ってきている。
昼過ぎ。
俺たちは宿を引き払うため、荷物をまとめて階下へ降りた。
「……もう出ていくのかい? 足、大丈夫なのかね?」
宿の主人はそう言ってリアラの包帯をちらりと見て、ほんの少し眉をひそめた。
「はい。もう、痛みもほとんどありません。ご心配をおかけしました。」
リアラが丁寧に頭を下げると、主人は「ならいいさ」と言いながら、預かっていた料金帳を取り出した。
「ほら。残り1泊分、返しておくよ。7日分で払って、今日が六泊目だったろ?」
差し出された小袋には、約20ゴールドが入っていた。
思わぬ親切に、リアラと俺は顔を見合わせて、小さく頭を下げた。
街の北門を前に、俺は一度だけ足を止めた。
大都市の中には、世界樹の加護がある。
日常を脅かす様々な驚異から守られている、安全な空間がある。
けれど、この門を出れば、それはない。
リアラがもし倒れたら、場合によってはそのまま死んでしまうことだってある。
死体をきちんと回収し、復活させなければ、彼女は“本当に”いなくなる。
そして俺が死ねば、その瞬間に終わる。
この世界で、俺という存在は跡形もなく消える。
「……怖くないんですか?」
ふと、リアラがそっと尋ねた。
「……はい。怖いです。でも、それでも行きたい。行くって決めたから。」
リアラはその答えに、言葉を返さなかった。
ただ一歩、俺のすぐ後ろに寄り添い、静かに目を閉じた。
白と青の神官服の裾が風に揺れ、彼女はそっと祈るように一礼する。
こうして、俺たちは再び旅に出た。




