26章
一節
リアラの案内で辿り着いた宿は、街の外れ、崖の上に立つ小さな建物だった。
海風に揺れる看板には「潮騒亭」の文字。表札こそ素朴だけど、扉を開けた瞬間、ほんのりとした檜の香りと温かな灯りに迎えられる。
宿の受付に促され、俺たちは一階奥のレストスペースを抜けて、二階の部屋へと通された。
「……わ、なんか、すごい。」
ぽつりと漏らしたのは俺だった。
海を望む広めの窓、清潔な木床、ふかふかそうなベッドが二つ並んでくっついていて、ベッドの脇には子供用の小さい簡易ベッドまで用意されている。
「こんな宿、普通の冒険者じゃ……って、え? 一泊50ゴールド?」
ドア横の札を見て、思わず声が出た。
冒険者の相場なら、一泊10ゴールドで泊まれる10人部屋程度の雑魚寝の安宿もあるし、そこそこの宿なら30ゴールドで充分お釣りが来る。リアラがこれを選ぶなんて、ちょっと意外だった。
「……す、すみません。あの、少し高いとは思ったのですが……。」
リアラが申し訳なさそうに、胸の前で手を組んで頭を下げる。
「女の子。しかも、まだ幼い子を連れていると考えて、なるべく静かで……安全そうな場所を、と思いまして。」
「……あ。」
言われて、はっとする。
……そりゃ、そうだ。
少女の過去の“持ち主”である、あの男が宿泊するような宿に俺達も宿泊していたら……。
「リアラさん……ありがとう、助かります。あの大会優勝してくれたおかげで、金ならまだありますし。」
笑ってそう言うと、リアラも小さく安堵したように笑ってくれた。
と、その時だった。
ぐぅ~~……。
不意に鳴り響く、小さな音。
……誰の腹の音かは、言うまでもなかった。
瞬間、少女がびくんと肩を震わせ、ぱっと顔を伏せる。
「……っ、ご、ごめんなさい……。」
「……ああ。」
そうだった。思い出した。
あの男から引き取る前まで、女の子は丸一日、いや、もしかしたらそれ以上、何も食べさせてもらえてなかったはずだ。
虐待みたいな扱いの中で、食事もろくに与えられていなかった。
そんなこと、忘れるはずないのに。
俺も、リアラも、はっとして彼女に目を向けた。
「……よし。レストランに行こう。」
言いながら、俺は手を差し出す。
少女は戸惑いながら、ちらりとリアラを見る。
リアラが微笑んで小さくうなずくと、ようやくおずおずとその小さな手が伸びてきた。
俺の手に、冷たい指がそっと触れる。
ぎゅっと握り返したあと、俺たちは三人で階段を下りた。
宿の一階奥。
海を臨むレストランの扉を開けると、香ばしいパンの香りと、スープの湯気がふわっと広がった。
第26章 二節
テーブルに腰を下ろして、ひと息ついたそのとき。
「お待たせしました。こちら、当館名物の焼きたてパンです。」
小柄な給仕が、木の籠に入ったパンを三人分、ぽんぽんとテーブルに置いていった。
湯気が立つ。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「……おいしそう。」
思わずこぼれたのは、俺じゃなかった。
対面に座った少女。
彼女が、じぃっとパンを見つめていた。
控えめな瞳が、パンに吸い寄せられるように揺れてる。
その様子に、リアラがふっと優しく微笑んだ。
「どうぞ。遠慮しないで、召し上がって?」
目の前に、そっとパンを差し出す。
少女は一瞬だけリアラの顔を見て、それからおそるおそる両手でパンを受け取った。
小さな手が、パンをぎゅっと抱えるようにして。
次の瞬間。
もぐっ。
かじった。
……もう、必死だった。
口の周りにパンくずをつけながら、むしゃむしゃと夢中で食べている。お行儀なんて、気にする余裕はない。
たぶん、それだけ空腹だったんだろう。
俺とリアラは、言葉もなくそれを見守っていた。
しばらくして、厨房のほうから食器の音がして、次の料理が運ばれてくる。
「おまたせしました。本日のお食事です。」
並べられたのは、あつあつの野菜スープに焼き魚、香草をまぶしたじゃがいも。俺たち大人向けのメニューと、彩りのいい子ども用のワンプレートだった。
「……うわ、けっこう豪華ですね。」
「ええ。これで宿泊費込み、と思えば……お得です。」
そんなやりとりをしながら、三人分のトレイをそれぞれ手に取る。
少女の前には、かわいらしく盛られたプレート。
「ほら。これも、食べられるかしら?」
「……はい。」
うなずいて、小さなスプーンで慎重にすくって口に運ぶ。
パンよりずっとゆっくりとしたペースだったけど、スープをひと口飲んだ瞬間、ぽつりと声がこぼれた。
「……あったかい。」
きっとこんな食事など夢のまた夢だったのだろう。
しばらく静かに見守ったあと、俺は頃合いを見て口を開いた。
「そういえば……名前、まだ聞いてなかったね。」
「……え?」
少女がきょとんと顔を上げる。口の端にソースがついたまま。
「よかったら……教えてくれるかな。君の、名前。」
少しの間。
「……リディエル、です。」
小さな声で、でもちゃんとはっきりと言った。
「リディエルちゃん。かわいい名前ですね。」
リアラが笑顔でそう返すと、リディエルはほんのすこしだけ頬を赤くして、うつむいたが、名前を呼ばれた事は嬉しそうだった。
それからまた三人で食事を続けていたが、プレートが空になったころ、リディエルが大きなあくびをひとつ、ふわっとこぼした。
「あ……。」
すぐに、両手で口を押さえる。
その姿が妙に可愛らしくて、俺とリアラは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「ふふ……もう、無理させちゃいましたね。」
「じゃあ、部屋戻りますか。ゆっくり休みましょう。」
リディエルは、素直にこくんと頷いた。
そうして俺たちは、食事を終えた温かい空気のまま、静かに立ち上がる。
外では波の音が、優しく響いていた。
三節
リディエルと名乗った少女を近くで見ても、やはり年相応の小さな子どもだった。
青白い肌に、風にふわりと膨らむはずの淡い青の髪は、無作為に絡まり、服もひどく汚れていた。
あんなの、絶対にこの世界に呼び出したままの姿なんかじゃない。
俺は少しだけ迷ってから、リアラの方を見た。
「……リアラさん、すみません。もしよかったら、リディエルの入浴をお願いできますか?」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。お任せください。女の子の身支度は……得意ですから。」
畏まるように胸に手を当てて、リアラは立ち上がった。
それを見て、リディエルもおずおずと立ち上がる。リアラがそっと手を差し出すと、戸惑いながらも、その手を取った。
それからしばらくして。
「お待たせしました、マスター!」
風呂場から戻ってきたリアラの声に振り向くと、そこにはさっきとはまるで別人のような少女がいた。
整えられた淡青色の髪。まだ少し湿っているのか、光を受けて柔らかく揺れている。
そんなリディエルが着用しているローブの端々に目をやると、少し袖が短くなっていたり、丈が足りていなかったり。
サイズの違和感が明白だった。
「……どうですか?。とても可愛らしい方ですよ。」
リアラがそっと背中を押すと、リディエルは小さくうなずき、もじもじと俺の方を見た。
口にこそ出さないが、満腹と清潔さに包まれて、どこかホッとした表情を浮かべている。
彼女はゆっくりとあくびをひとつ。
先程の食事の場とは違い、慌てて隠すこともなく、安心したような仕草だった。
そのまま、子ども用にセットしておいたベッドへ、ぽふん、と体を投げ出す。
「ふふっ……。」
リアラがそっと毛布をかけながら、小さく微笑んだ。
「……それにしても、マスター。本当に、頑張られましたね。腕相撲大会での姿……とても、かっこよかったです。」
「い、いえ……そんな。色々な幸運が重なっただけです。そもそも、勝ってないし。」
照れくさくて思わず頭をかいた。
まさか、こんな風に褒められるなんて思ってなかったから、顔が少し熱くなる。
と、そのとき。
「……ママ。」
ベッドから、ぽつりと小さな寝言が聞こえた。
ふたりして、顔を見合わせる。
そこにあったのは、ほんの一言。
でもそれは、言葉以上に重かった。
リアラがそっと目を伏せ、リディエルの髪を優しく撫でた。
そして俺は、何も言わず、静かに灯りを落とした。




