19章
一節
スタジアムに到着したのは、 正午よりも1時間以上前だった。
午後の準決勝には、まだ余裕がある。
試合前の控え室は広く、思ったより快適で、空調もばっちり効いている。
けれども、対戦相手の情報はまだ発表されておらず、アナウンサーも会場入りしていない。
そんな微妙な“待ち時間”の空白。
そこで待つ選手の中の一人の女性の頭の中は、ささやかながらも深刻な問題で埋め尽くされていた。
「……あの……すみません。わたし、ちょっと……。」
リアラが、ほんのり赤らんだ頬で小さく手を挙げる。
「リアラさん、どうしたんですか?」
「……その、トイレに……朝とか、昨日の夜、宿で……ちょっと食べすぎたかも、で……。」
ああ、なるほど。
それだけのことだ、というのに、なぜだろう。空気が一瞬ピンと張り詰めた。
「……スタジアムの中、トイレないんですか?」
俺は素朴な疑問を投げかけた。
「はい、どうも控室を含めたスタジアムの内部にはないみたいなんです……。出た所にならあるらしいのですが。」
リアラが申し訳なさそうに答えた。
「ミチ、ケウゼキ。」
オトウトの声にピタリと沈黙が落ちる。
先ほどの“珍獣喧嘩付きクイズ地獄”が、メンバーの脳裏をよぎったらしい。
「いまなら、まだ並べば間に合う時間ですかね?」
俺は、少し見回してから、一番色々知ってそうなレスカーに 疑問を投げてみた。
「リアラさん、それって……我慢できない感じですか?」
レスカーが遠慮気味に聞いた。
リアラはそっと目を伏せ、数秒の沈黙ののち、かすかに首を横に振った。
「なるほど……」
レスカーが腕を組んで真剣にうなずく。
だが、そこへ、場の空気も読まずに元気いっぱいの脳筋が、満面の笑顔と共に叫んだ。
「なーんだ、ウンコかー!!」
バチンッ!
ズガァァァアァァン!!
言い終わるよりも早くリアラの手の中に現れた雷の扇が閃き、バッカの全身が炭焼き状態となって天井からぶら下がる。
「し、試合までには、戻ってこいよ……。」
炭化したバッカがゴホゴホとむせながら吐き出すように喋る中、俺とリアラはスタジアムの外に向かって歩き出した。
十九章 二節
「次の挑戦者、どうぞー!」
リアーユ山の守り手、ヤギに似たキール族達の一人が、俺たちに手を振った。
手洗いを終えたリアラと合流してから、実に30分以上。
「お待たせしました」なんて可愛らしい時間ではなかった。
というのも、スタジアムの入口のひとつが事故か何かで封鎖されていて、「使用中」の札がぶら下がっていたのだ。
そのせいで、列の進みは牛歩。
完全に渋滞中である。
「……さっきより進みが悪いですね。」
などとリアラは苦笑いしていたが、その手にはしっかりとホットドッグ3本。
バイリンガ・キマイラ対策はバッチリだ。
そして、ようやく。
俺たちは再び、あの“試練の間”へと足を踏み入れた……のだが。
「……あれ?」
そこは、前回の石畳の部屋とはまるで違っていた。
赤い絨毯が敷き詰められ、漆喰の壁には数々の絵画が掛けられている。
まるで貴族の美術館の一室か、はたまた高級なサロンのような上品さが漂っていた。
「入る度に、部屋も変わるんですね……。」
リアラがぽつりと呟き、俺もこくりと頷く。
そして、その時。
「ごきげんよう、挑戦者の皆さま。」
ふわりと、ベルのような優雅な声が空間に響いた。
振り返ると、壁に飾られた一枚の絵画、その中の女性が、まるで生きているかのように微笑んでいたのだ。
豊かな巻き髪に、濃い薔薇色のドレス。
小さな帽子を傾けて、どこか懐かしい雰囲気を漂わせるその貴婦人は、静かに名乗った。
「わたくし、ローズと申しますの。こちらの部屋の、ささやかな管理人でございます。」
そして、白い手袋の指先がすっと絵の中で動くと、小さなテーブルとティーセットが、目の前に音も立てずに現れた。
「まずは緊張をほどくために、一杯いかが?温かいお茶と、焼きたてのローズクッキーをご用意いたしましたの。」
紅茶の香りと、甘いバターの匂いが鼻をくすぐる。 完全に試練というより、上品なティータイムの始まりである。
「……これ、ほんとに試練……ですよね?」
リアラが、目をぱちくりさせながら俺の袖を引いた。
十九章 三節
絵の中の貴婦人、ローズの出してくれるお茶は本当に美味しかった。
「どうぞ。まだまだ、おかわりはございますわ。」
ローズは壁の中の絵画の一部……のはずなのに、カップもソーサーも普通に持ってるし、テーブルのクッキーもごく自然に補充されている。
美術館風の室内には、なんとも言えない上品な香りが満ちていた。
「ありがとうございます……! あっ、このジャム入りの焼き菓子、すっごくおいしい……!」
リアラはぽわっと頬を染め、嬉しそうに笑った。
「お口に合いましたなら何よりですわ。こちらは先日、旧友からいただいたレシピで……。」
どこをどう切り取っても優雅で、落ち着いた空気に、俺たちはすっかりリラックスしていた。
「ローズさんって……なんというか、落ち着いた雰囲気で癒されますね。」
俺のその言葉に、リアラも微笑みながら頷く。
「はい。すごく経験が豊富で、お話も面白いです!」
……ぴたり、と空気が変わった。
「…………経験……?」
ローズの声が、絵の中から漏れる。
低く、静かに。
だが明らかに、別の色を帯びていた。
「えっ……? あの、私、何か……?」
リアラが戸惑いながら、カップを持つ手を止める。
俺もなんだか嫌な予感がして、そっと口を閉ざす。
だが、やってしまった。
「そろそろ出発しないと、準決勝に行き遅れますし……」
俺のその一言を聞いた瞬間、ローズの目から何か優しいものが削げ落ちたような気がした。
「……“行き遅れる”……?」
バリンッ!!
絵の中でティーカップが割れる音が響く。
「い・き・お・く・れ・ですってェェ!?誰が!?このワタクシが!?聞き捨てなりませんわよその発言!」
ローズの髪がぐるんと逆巻き、背景がバラ園から雷雲へと変化した。
「若いからって調子に乗らないことね!?どうせ十八歳でしょ!?青春がなによ青春がァ!!」
「ちょっと待ってくださいローズさん!言葉の綾で、深い意味は……。」
俺が弁解しようとした時にはもう遅い。
「だまらっしゃい!!!」
瞬きを挟む隙もなく、気品に満ちた貴婦人の顔が、魔王のごとき鬼神の形相へと豹変した。
もはや優雅なティータイムなど跡形もない。
壁の絵から飛び出しそうな勢いで、ローズは絶叫しながら高笑いを響かせる。
クイズ?何それ、おいしいの?
今ここにあるのは、ただ一つ。
魂ごと灰にするヒステリックな審判、である。
十九章四節
「このワタクシがッ! 行き遅れェェェ!?!?」
絵画の中から身を乗り出しながら、ローズが烈火のごとく叫んだ。
もはや顔が紅茶の色に近づいていた。ストレートではない。
完全に煮詰まったミルクティーである。
「失礼な男!無神経な若者ッ!そして! なんですって!? “経験が豊富”ですってェェ!?!?」
「えっ……あっ、あの、すみません、あれは、その、えっと。」
リアラがカップを持ったまま半泣きで謝罪しようとするも、ローズの怒涛の追撃が止まらない。
「“年上の女性には落ち着きがあって癒されます~”ですって!? わかってないわね!! 女はね! 若くたって落ち着いてるのよ!? 落ち着いてるだけじゃダメなのよォ!?!?」
「違いますローズさん、それは誤解で!」
俺も必死に取り繕うが、絵の中の淑女はもう、耳を貸す気など皆無だった。
「この者達にッ! クイズを受ける資格はないと判断しますッ!!」
ローズの声が轟き、壁にかかっていた絵画が一斉に震え出す。
「な、え、地震!?」
「リアラさん、下がって!」
絵の額縁から薔薇のツルが生え、床からは椅子が突き上がり、ティーセットが空を飛び始めた。
あっ、これクイズどころじゃない。
「二人まとめて、一昨日来やがれぇぇぇぇえぇぇ!!」
ローズの顔が絵の中でアップになったかと思うと。
ドカァァァァァン!!!
次の瞬間、部屋が炸裂した。
壁が吹き飛び、紅茶の嵐が渦巻き、クッキーが弾丸のように飛び交う。
俺とリアラは、まるで漫画のように部屋の扉から入り口に向かって吹っ飛ばされ、スタジアム入り口前、クイズ待ちの列の最後尾へ着地した。
どんよりとした空気の中、列の先頭ではキール族が涼しい顔で当たり前の様に次のグループに入り口から入るよう促していた。
「……やっちゃいましたね。」
リアラが、そっと肩を落とす。
「……まぁ……午後の試合にはまだ……間に合う、か……」
俺たちは、再び無言で列の最後尾に並び直したのだった。




