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世界樹の記憶《リアラ》  作者: 鈴木 厳流彩


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14章

一節


 部屋に戻ると、リアラはベッドに倒れ込むようにして、うつ伏せになった。


 「……うぅ……お腹……幸せ……ですけど……くるしいです……っ。」


 枕に顔をうずめながら、リアラは手足をぴくぴく動かしていた。

 たまらず笑ってしまいそうになるが、俺も似たような状態だったので声は出なかった。


 やがて、ぐう……と静かな寝息が聞こえる。


 「……うふふ……次は……あのスープ……マスターと……半分こ……です……。」


 夢の中でもまだ食べているらしいリアラに、そっと毛布をかける。

 彼女の髪が、船のゆるやかな揺れに合わせて、淡く揺れていた。


 この旅が、ずっとこんな風に、笑顔であふれたものでありますように。


 そう願いながら、俺も灯りを落とし、深く静かな夜に身をゆだねた。


二節


 そして、二日目の朝。


 海にきらめく陽射しと、爽やかな潮風に誘われて、俺たちは朝食を軽く済ませたあと、14階のデッキへと向かった。


 甲板の奥には、魔力で水温が調整された広々とした真水のプールがある。

 波の揺らぎは穏やかで、まるで透明な鏡見ているかのようだった。


 「準備、できましたっ!」


 リアラが水着姿で振り返る。

 肩を出したスポーティーな白と青の水着が、彼女の肌の透明感を引き立てていた。


 「マスター……見ててくださいね!」


 そう言って、リアラは軽やかに水面を蹴った。


 ちゃぱん、と小さく音を立てて水に沈む。


 次の瞬間、水中に淡い気泡が広がり、彼女の体が、弾かれるように走り出した。


 その泳ぎは、まるで魚のようだった。


 空気噴射の魔法で背中に生じる小さな推進気流が、彼女の動きを加速させる。

 足の先から指の先まで、ひとつの軌道に沿って滑るように流れるその姿は、水という名の絹をまとう舞い手のようにも見えた。


 きらめく太陽の光が水面を踊り、その反射が水中に差し込むと、リアラの白い肌が光を受けて、青く透けて見える。


 「……すごい……。」


 思わず声が漏れる。

 それは単なる泳ぎではない。美しい“魔法”だった。


 右へ、左へ、水面すれすれに体を翻し、回転しながら推進する。

 小さく息継ぎをするときの表情もどこか楽しげで、笑っていた。


 ぐるり、と一回転してから、一気に加速し、プールの反対側へ。


 泳ぎきった彼女は、そのまま水面に浮かび、ゆったりと仰向けになって大きく息をついた。

 空と、海と、そして水面がひとつにつながって見える。


 「はぁ……っ、気持ちいい……!」


 水音とともに、リアラはプールの縁に手をかけ、軽く跳ねるようにして上がってくる。


 陽に濡れた水着が肌に張りつき、肩から背中へ流れる水滴が、ひとすじの光の筋となって滑り落ちた。


 「マスター……どうでしたかっ?」


 濡れた髪を手で軽くかきあげながら、リアラは笑う。


 少し息を弾ませたその顔は、どこまでも無邪気で、けれど、眩しいほどに美しかった。




三節




 プールの端でタオルを受け取り、水気を軽く払ったリアラが、髪を結い直そうと顔を上げたその瞬間。


 「うひょーっ!すげーな、あんた!」


 甲板に響き渡るほどの大声に、リアラがびくんと肩をすくめた。

 次の瞬間、陽に灼けた筋肉質の大男が、タオル片手に駆け寄ってくる。額には汗、でも目はまるで子どものように輝いていた。


 「な、なぁ、なぁなぁ!さっきの泳ぎ、どこで習ったんだ?」


 「えっ……あの……。」

 リアラはとっさに後ずさりし、ちらりと俺の方を見る。


 俺が隣に立つと、その男は「あっ」と声を上げて手を挙げた。


 「わり、彼氏もいたのか!いや、違う違う、そーいうつもりで声かけたんじゃねぇんだ、マジで!」


 彼の声は大きいが、不思議と威圧感はなかった。むしろ、全力の善意をぶつけてくる犬みたいな雰囲気で、どこか憎めない。


 「オレさ、ここのアクアバウトチームの一員でバッカっていうんだけどよ。あんたの泳ぎ、マジで見惚れた。空気を噴射してあんな動きできる奴、初めて見たぜ!」


 彼はにかっと笑って、親指でプールサイドの奥を指差した。

 そこには、バイキング会場の脇にある、ゆったりしたテーブル席が並んでいる。


 「よかったらさ、着替えたあと、三人で一緒に飯でもどうよ?話も聞きてぇし、オレの仲間にも紹介したいんだ!」


 リアラは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべたが、俺の方を見て、小さく笑った。


 「……マスター、いいですか?」


 「ええ、せっかくですし、行ってみましょうか。」


 「はいっ!」


 リアラはタオルを持ち直すと、ぺこりと丁寧に頭を下げた。


 「それでは、着替えてまいります。すぐに参りますので……お席、お待たせしませんっ。」


 「おお、いいっていいって、ゆっくりな! いや〜、いい風だな今日は!」


 バッカはまるで太陽そのもののような笑顔で、両手を腰に当てて空を仰いでいた。


 その背中に手を振って、リアラは更衣室へと向かう。

 褒められたこと、そして見知らぬ人との会話ができたこと、そのすべてが嬉しいらしく、足取りはどこか弾んで見えた。

 



四節




 一等室の客も多く利用する、バイキング会場の脇にあるゆったりとしたテーブル席。少し落ち着いた雰囲気のテーブルに、俺とバッカは腰を下ろしていた。

 外には広がる海が見え、午後の日差しが静かに波を照らしている。



 そこへ、給仕の女性がやって来る。

 淡い水色の制服に身を包んだその給仕は、銀の盆に載せたティーセットを音もなく置き、軽く会釈して静かに立ち去った。


 「おお……こりゃまた、ずいぶん洒落たもんだな。」


 バッカが紅茶の香りに目を丸くする。

 細い磁器のカップからは、ほのかに白桃とバニラを混ぜたような香りが立ちのぼり、テーブルの中央には、色とりどりの小さなケーキや焼き菓子が並べられていた。


 そこへ着替えを済ませたリアラが戻ってくる。


 「……お待たせしましたっ!」


 彼女は汗も拭き終えているようで、少しだけ髪が濡れてはいたが、白い日傘の光に頬が美しく照らされていた。

 その視線がテーブルの菓子皿に向かい、ぱっと目を輝かせる。


 「……すごい、こんなに……!」


 どうやらリアラの“欲しいものを我慢する”モードが発動したようだった。

 彼女は遠慮がちに隅の方から小さなケーキとクッキーを皿に取ると、きちんと姿勢を正し、マナーを守るようにして席に着く。……が、視線はちらちらと次のお菓子に向いていた。


 ほんと、わかりやすい。


 その可愛らしさに、思わず微笑みそうになった瞬間、バッカが軽く咳払いをして口を開いた。


 「自己紹介、遅れてすまなかったな。改めて、俺はバッカ。アクアバウトのチーム、おおらかな海に所属してる。」


 「アクア……バウト?」


 リアラがクッキーをつまみかけた手を止め、首をかしげる。俺も同じように聞いたことがない単語に眉を寄せた。


 「ああ、やっぱ知らねぇか。ラピスラズリ大陸じゃ大人気のスポーツでな。水中でやる球技だ。だけど、ただの球技じゃねぇ。『水中格闘球技』って呼ばれてるくらいで、パスもシュートも魔法もあり、ぶつかり合いもOK。ボールを持ってる奴には、攻撃もルール上認められてる。」


 「格闘球技、ですか……。」


 リアラが興味深そうに身を乗り出す。……そして、無意識にケーキに手を伸ばしていた。

 ぱく、と音もなく頬張ったその瞬間、目がきゅっと細くなる。


 「……美味しいです……! それで、その競技には……どれくらいの人が出場するんですか?」


 「ははっ、いい質問だ。大会の規模はラピスラズリ全土、もっと言えばノクティヴェイル全域から参加者が集まる。年に一度だけの大きな祭典でな。プロチームはもちろん、名のあるチームからの推薦があれば、どんなチームでも参加権を得られる。」


 彼の語り口は軽快で、それでいてどこか誇らしげだった。

 そしてカップを片手に、にやりと笑って続ける。


 「でよ、さっきの泳ぎ……すげぇ感動したんだ。スピードも、バランスも、魔法の使い方も。ただ速ぇだけじゃなくて、美しかった。……あんな泳ぎ方、見たことねぇ。」


 リアラの手が止まる。

 次の一口に行こうとした瞬間だっただけに、口が半開きになってしまっている。


 「……え、えっと、それは……そんな、大したことじゃ……。」


 頬を赤らめながら、リアラが目を泳がせる。


 「謙遜すんなって。なぁ、もし他のチームに誘われてないなら、俺たちの『おおらかな海』に、入ってくれねぇか?」


 バッカの瞳は真剣だった。

 からかいや冷やかしではなく、真っすぐに、まるで一流のスカウトのような眼差しでリアラを見つめていた。


 「大会の日程は、明後日が予選で、その二日後が決勝トーナメント……ってわけだ。ちょうどラピスラズリ大陸に寄港するのが明日だから、予選は降りた次の日だな。」


 そう言って、バッカが紅茶を一口すする。

 とても穏やかに聞こえるその言葉の裏に、俺たちにとっての大問題が隠れていた。


 「えっ……ということは……。」

 「……ええ。明日、街に降りて、そのまま次の日が出場ってことになりますね。」


 つまり、今日でクルーズの夢のような日々が、終わる。


 「……うぅ……。」

 リアラが肩を落とし、皿の上のケーキを見つめながら、ちょこんと指で皿の端をなぞる。


 「わ、わたし……クルーズでの食事……あと四日も……楽しみに……してたのに……っ。」

 「……俺も、です。」


 断腸の思いとはまさにこのこと。

 テーブルにはまだ温かい紅茶と、芳醇な香りのミルフィーユ。明日にはこれが、選手用の高タンパク飯に置き換わるかもしれないという現実。


 「えっと……それじゃあ、今回は……申し訳ありませんが、遠慮させていただきますっ。」


 リアラが、そっと両手を合わせて断る。俺も頭を下げた。


 「へへ、気にすんなって。……って、あれ?」


 バッカが首を傾げた。


 「お前ら、ラピスラズリで降りるんじゃなかったのか?」


 「……いえ、ロマーリア往復です。」


 「マジか!一等客室だったから、てっきりラピスラズリの港町の富豪か何かかと……ははっ、そりゃ俺の勘違いだったな。けどよ、どうせ一回は上陸するんだし、ちょいと出て、ちょいと戦って戻ってくりゃいいさ。」


 「ちょいと出て、ちょいと戦って、って……。」


 リアラがぎこちなく笑った。


 「けど、なんで今になってメンバー募集なんですか?」


 俺の問いに、バッカが「それがな」と頭をかいた。


 「ああ、それな……うちのメンバーの一人、ちょっとな、骨折しちまってよ。」


 「えっ、それは……!」


 リアラが心配そうに身を乗り出す。


 「回復魔法、使えば治るのでは……?」


 「いや、それがな……骨はくっついたんだけど、本人が……『もう無理!アクアバウト怖い!』って泣きながら辞退しちまってな。」


 「こ、怖い……。」


 リアラの笑顔が、ほんの少しひきつった。

 さっきの“格闘球技”というワードが頭の中で再生されたらしい。


 「いやー、しゃーねぇな、あいつは子どもも小さいし、心配もあるんだろうよ。」


 「……お子さんが?」


 その話題に、リアラの顔がふっと和らいだ。


 「そういえば、俺にもいるんだよ。うちのルー・ジェラがなぁ、もう優しくて、しっかりしてて、最高の嫁さんでな。飯もうめぇし、俺のこといつも笑って見てくれて……。」


 バッカの目が、とろけそうに細くなる。


 「奥さんと仲が良いんですね。」


 「すてき……。」


 バッカののろけ話に、俺もリアラも自然と顔がほころんでいく。


 「でな、子どももいるんだ。一人目が生まれて、二人目ができて、それから三人目に恵まれてな。」


 「わぁ、賑やかですね……!」


 リアラはそっと目を伏せ、紅茶のカップに指を添えた。嬉しそうな微笑みの奥に、ほんのわずかな憧れがにじんでいた。


 「そんで四人目、そして……つい先週! 五人目が誕生だ!お前らもそろそろどうだ?子供はいいぞ。」


 その瞬間。


 ガンッッッ!!

 

 「そんなに産んだら死んじゃいます!!」


 リアラが赤面し叫びながらテーブルを叩いた。


 それに呼応するかのように、ビシィィン、と高級ティーカップが割れる音が響く。

 それは音よりもむしろ、船内の気品ある空気にとっての大破壊だった。


 「えっ。」


 「……。」


 「マ、マスターっ……わ、わたしっ……っっっっっ。」


 両手で口を押さえ、真っ赤になって震えるリアラ。

 隣で俺も硬直していた。いや、割ったのは俺じゃないけど……!


 「え、えと。船の保障金制度って……入ってましたっけ?」


 「……入ってない……です……。」


 涙目で震えながら、リアラが崩れ落ちるように椅子に座り直す。

 テーブルの上の菓子皿が微妙に傾いて、クッキーが一枚、ぽとんと落ちた。


 バッカは頭をかきながら、にっと笑って言った。


 「じゃあ、こりゃもう決まりだな!」


 そして、気づけば次のセリフは、プールサイド全体に響いていた。


 「おい、レスカー!オトウト!新しいチームメンバー、決まったぞォォ!!」





五節




 「おい、レスカー! オトウト! 新しいチームメンバー、決まったぞォォ!!」


 バッカの野太い声が響き渡る。

 プールサイドの給仕や観光客が何事かと振り向くなか……。


 「きゃ、きゃあぁあぁっ!? な、なにを言って……! そ、そんな、わたしっ、まだ何も……!」


 リアラがあわてて立ち上がるが、顔は真っ赤、手はばたばた、言葉もほとんど破裂音でしかない。


 そうこうしている間にも、バッカのテーブルの後方から立ち上がる、二つの影。


 「マアナエキ、ユッピル、バッカ、セザウ……。」


 そのうちの一人が口にしたのは、低く、異国語の響き。

 長身痩躯の褐色肌、編み込みの髪を後ろに束ねたその青年の肩には、《おおらかな海》のエンブレムが入った水着。


 そして、隣に立つもう一人。


 「ふふ、お騒がせしてしまって申し訳ありません。チーム《おおらかな海》へようこそ。私はレスカー。そしてこちらがオトウトです。」


 すらりとしたスタイルの女性が、優雅に頭を下げる。

 濡れた髪が肩にかかる水着姿……なのだが、なぜか全く艶かしさはなく、まるで普段着のような自然さだった。


 「いやー、さすがに五人目の話は早すぎたか~。」


 バッカが茶目っ気たっぷりに頬をかくと、リアラは震える声で言った。


 「ま……まさか……お子さんが……五人……もいらっしゃるなんて……! そ、それを聞いて……なんだか……なんだか、想像してしまって……。」


 「想像って、なにを?」


 「…………な、なんでもないですっ!!」


 バッと座り直し、テーブルに向かって深く頭を下げるリアラ。

 割れたカップの破片がひとつ、ころんと転がる。


 その様子に、レスカーがそっと膝をついてティーセットを片付けはじめた。


 「どうぞ、お任せください。この件はわたくしが責任を持って、あとで船の方に事情を説明しておきますから。」


 「えっ、で、でもっ……!」


 「代わりに、参加、してくださるんですよね?」


 にこっ。


 レスカーの笑顔は、極めて丁寧で優しい……が、なぜか背後に冷たい圧力を感じるような気がして、俺は思わず「はい」と言いそうになった。


 「い、いや……ちょっと待ってください、まだ参加すると決まったわけでは。」


 「おぉっと、マスター。」


 バッカがぐいっと身を乗り出してくる。


 「保障金制度、入ってねぇんだよな?」


 「……ぐっ……。」


 「高級ティーカップ一式。2人分、4000ゴールドってとこか?」


 「せ……よ、4000……!?」


 リアラの顔がさらに蒼くなる。

 彼女はちら、と俺を見る。目が言っている。「……わたし、どうしましょう……!」、と。


 その瞬間、バッカが少しだけ視線を伏せ、穏やかな声で言った。


 「……あんたが旅の客人、いや、転生者だってのは、見りゃわかる。無理を言うつもりはねぇよ。こういう催しに、転生者が加わるのは、昔から難しい決まりになってるからな。」


 「……はい……。」


 俺は小さく頷いた。

 この世界では“外の者”、つまり転生者には、いくつかの制限がある。特に、公式の競技や試合に参加するには、許可が必要な事が多かった。


 「だけど、リアラさんはちがう。彼女は世界樹に“認められている”人だ。つまり、試合に出ることはできる。だから。」


 バッカは真っすぐにリアラを見て、言った。


 「お願いだ。リアラさん、あんたの泳ぎがどうしても必要なんだ。助けてくれねぇか?」


 「……え……?」


 リアラが、まばたきをする。

 その声音が真剣で、冗談ではないことが伝わってきたからだ。


 すると隣にいたレスカーが、ふわりと笑って身をかがめる。


 「どうぞ、急な出場の件は私が責任を持って、あとで係の方にお話ししておきます。安心なさってください。」


 「あ、いえ、そう言うことで悩んでいるのでは……。」


 「頑張りましょう。もし優勝すれば、賞金で新しいティーカップも買えますよ?」


 ぽん。


 今度は肩に手を置いた。まるで、もう逃がさないぞ、という風に。


 「ちょ、ちょっと待ってください……まだ参加するとは……。」


 しどろもどろになるリアラ。割れたティーカップと奥にあるバイキング会場を視線がひたすら行き来している。


 「見学からで構わねぇよ!」


 バッカが朗らかに笑った。


 「うちのチーム、全員そうだったからな!」


 「……見学じゃ、ないですよね……それ……。」


 リアラがぽつりと呟き、俺はため息まじりに額を押さえる。


 「わ、わたくし、泳ぎは好きですけど……その、戦うのは……その……。」


 「大丈夫だ。相手に近寄らせなければ、殴られることもねぇ。つまり、勝てば無傷!」


 「理屈が……極端すぎますっ!」


 リアラが椅子の背にもたれて力なく崩れ、俺は再びため息をついた。


 こうして、俺たちは“見学予定”という名のもと、リアラだけが《おおらかな海》の新たな一員として数えられることになってしまったのだった。



六節



 波の音は、耳を澄ませばわかる程度に遠く、静かだった。

 夜風が柔らかく吹き抜ける展望デッキは、乗客たちも部屋に引き上げたのか、今はほとんど誰もいない。


 俺は手すりにもたれながら、空を見上げていた。

 星が……思ったより多い。


 「……あの。」


 背後から小さな声がして、振り向く。

 そこに立っていたのは、パジャマのような薄手の羽織に身を包んだリアラだった。


 「……あの……、その、マスター。ええと……。」


 何か言おうとして、言葉に詰まっている。


 「リアラさん、座ります?」


 「あっ、は、はいっ!」


 彼女は慌てて手すりの隣に腰を下ろすと、目を伏せたまま、ぺこりと頭を下げた。


 「ご、ごめんなさい……。わたくし、ほんとうに、あの時……。」


 「ああ、ティーカップのことですか?」


 「そ、それもそうですが……! 叫んでしまったことも……その……“五人目”という単語を聞いたときに、なぜか頭がぐるぐるして、うっかり、つい、すごく、ものすごく、恥ずかしいことを。」


 リアラは耳まで真っ赤だった。


 「いや……なんかもう、リアラさんらしいというか。」


 「らしくないですっ! わたし、普段はもっと落ち着いて、い、いたかったんです……。」


 「……でも、楽しかったですよ。あの会話も。」


 ぽつりとつぶやいた俺の言葉に、リアラが驚いたように顔を上げる。


 「え……。」


 「だって、豪華客船ですよ。たぶん、俺たちが今後この先の旅で、一番“セレブ”な時間になると思うんです。だったら、ちょっとくらい笑える思い出があっても、いいじゃないですか。」


 「……マスター……。」


 「それに、リアラさんがティーカップ割ったあと、もう空気が完全にアクアバウトだったし。」


 「うっ……やっぱり……!!」


 リアラがまた顔を覆った。


 「わたしのせいで……まさか、あの、見学者登録という名の仮契約を交わされることになるなんて……。」


 「まぁ、旅の行き先に困ってた俺たちが、豪華客船のデッキで見つけた先が“水中格闘球技”ってのも、運命かもしれませんね……。」


 「お、お気楽すぎますっ、マスターっ!」


 「……でも、リアラさんが楽しそうだったから。泳ぐの、好きなんですよね?」


 その言葉に、リアラがふっと目を細める。


 「……はい。とても。水の中って、不思議と……落ち着くんです。まるで、誰かの腕の中にいるみたいで……。」


 言ったあと、はっとするリアラ。


 「い、今のは変な意味じゃなくて! わたし、そういう……その……!」


 「変じゃないですよ。」


 リアラがきょとんとした顔でこちらを見つめた。


 「……なんか、俺も……水の中って、好きになれそうです。」


 風がまた、ふわりと吹き抜ける。

 ふたりとも、黙って夜の波音を聞いていた。


 静かで、優しい夜だった。





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