13章
一節
翌日。
波止場の朝は、青かった。
ロマーリア港に注ぐ朝の光は、どこか神殿の光柱にも似て、静かな潮騒と、甲板を叩くロープの音が、その光景に命を与えていた。
空にはカモメが低く旋回し、風に乗って漂ってくるのは、少し塩気のある冷たい空気。
それでも港は活気に満ちていた。荷を下ろす船員たちの声、魚市場のざわめき、
そして、今日の航海に乗り込む旅人たちの足取り。
「すごい……ほんとうに、船だらけですね。」
リアラが小声で呟くように言いながら、きらきらとした目で港を見渡していた。
眼前には、大小さまざまな船が、ずらりと並んで停泊している。
旅商人の船もあれば、王侯貴族の小型帆船、食料輸送の大型貨物、そしてそのなかには白く輝く、大きな蒸気船の姿もあった。
「……あれですね、きっと。」
俺は手にした紙を見ながら、そう呟いた。
"豪華魔導蒸気船・マイクロンビア号 乗船券1等客室"。
「……“マイクロ”ってついてますけど、“ビア号”って響きがなんか高級そうですし、やっぱあの一番大きいやつ、ですよね!」
「たぶん、そう……ですよねっ。……わたくしたち、ほんとうに乗るんですね……!」
リアラが手を胸にあてて、なんだか緊張したように微笑んだ。
福引きの夜からすぐ次の朝。
俺たちは、すっかりこの“旅行気分”に心を持っていかれていた。
「でも……これ、見てください、マスター。」
リアラがマイクロンビア号の紹介パンフレットを開きながら、指差す。
そこに描かれていたイラストと、俺たちが目をつけていた巨大蒸気船の外観は……微妙に、いや、かなり違っていた。
「……え? あれ……あの隣の……?」
俺が声をひそめて指を差したのは、さっきから“巨大なやつ”の横に停泊している、やや小さめの白銀の船だった。
「マイクロンビア号……って、こっち?」
「みたいです……ね……。」
パンフレットには、『魔導空間拡張技術により、小型でエコな豪華空間を実現!』と、元気な書体で説明が添えられていた。
「……マイクロって、そういう意味だったんですね……。」
「はい……コンパクト……というか……魔法のちからで、たぶん……その、なんとかなるんです……。」
がっくりと肩を落とす俺の横で、リアラは一生懸命フォローしようとしていた。
まぁ、仕方ない。
「……でも、リアラさんが嬉しそうなら、それでいいかな。」
「えっ……?」
「いや、なんでもないです。」
ふたりで顔を見合わせて、小さく笑った、そのとき。
港の向こうから、澄んだ鐘の音が響いた。
『マイクロンビア号、ご乗船のお客様は、五番桟橋へお進みください。』
その声に、港の一角が動き出す。
俺たちは、召喚器を片手に、改めてチケットを確認した。
たった一本の福引から始まった旅が、いま、始まろうとしている。
第十三章二節
港の鐘が、二度、三度と鳴る。
ロマーリアの波止場。五番桟橋へと向かう石畳の道は、朝の潮風に吹かれながら、次第に旅人たちの熱気で満ち始めていた。
その先には白銀と蒼の塗装が美しい、蒸気船「マイクロンビア号」が、静かに停泊していた。
その外見は、先ほど見た超大型船に比べれば、たしかにひとまわり小さい。
だが、間近で見ればその威容は圧巻だった。
真鍮のパイプが脈動し、帆の代わりに魔導式のクリスタル翼が左右に展開している。
舷側には、金で刻まれた紋章“M”の文字をかたどった、波と鍵のシンボル。
艦体からは、どこか魔法的な圧を感じる。
それはただの装飾ではなく、空間を拡張し、時間すら緩やかにする魔導圧縮術式の放射だ。
「……うわ……すごい……。」
リアラが、呆けたように見上げている。
船体の五階部分に設けられた乗船口へと続くスロープでは、すでに数組の旅人たちが順番に受付を済ませていた。
「さぁ、俺たちも行きましょうか。」
「はいっ……!」
二人で肩を並べ、受付ゲートへ進む。
そこには、まるでホテルのフロントのような帳場が用意されていた。
光る魔導パネルの前に立つと、係の女性が優雅に微笑む。
「いらっしゃいませ、ようこそマイクロンビア号へ。召喚器をご提示いただけますか?」
「は、はい。これです。」
俺が時計型の召喚器を差し出すと、女性はそれをすっと読み取り機にかざし、即座に確認した。
「確認いたしました。お客様は一等室【ナナシ様・リアラ様】、五階より専用通路をお通りください。荷物は係員が運びます。ようこそ、特別な五日間へ。」
同時に、俺の手元には小さな魔導キー型のタグが渡される。それが、船内すべてのエリアにアクセス可能な“空間通行符”だった。
「……まるで、ホテルのチェックインみたいですね。」
「はい……船というより……一つの“都市”みたいな……。」
リアラの言葉に、俺も頷く。
乗船スロープを登ると、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、三層吹き抜けの、巨大なガラス天井エントランスホール。
大理石の床と、宙に浮かぶ燭台、噴水と楽団、そして赤絨毯が導く“別世界”だった。
圧縮空間が拡がるこの内部は、まさに魔法の結晶。
「……わぁ……っ!」
リアラが、思わず小さく息を漏らす。
そこは確かに、名前に“マイクロ”と冠されてはいたが、この空間のどこにも、小ささなどは存在していなかった。
「すげぇな……」
俺も思わず呟いていた。
「こ、ここ、本当に船の中……なんですよね?」
「うん……俺も、ちょっと信じられないくらいです。」
リアラはその場でくるりと一回転して、空中にふわりと揺れる照明を見上げた。
階段を登っていくと、上階は色とりどりの絵画と精緻なオブジェが並ぶギャラリーエリアになっていた。写実的な風景画、踊る女性たちのブロンズ像、そして動く魔法の肖像画まで。
どれも、見ているだけで時が経つのを忘れてしまいそうだった。
「この絵……ロマーリアの夕暮れ、でしょうか?」
「たぶん。……ほら、港の灯りが、あのときと同じ。」
思わず立ち止まりながらも、再び螺旋階段を上がると、ついに指定された二人の部屋にたどり着いた。
ドアが開くと、そこには広めのツインベッドと、小さなサロン、そして窓から海が見えるバルコニーがあった。ベッドの上にはすでに荷物が届いており、手紙のような案内状が置かれている。
この船は、今日を含めて五日の旅程。
明日は一日、船の上でゆったりと過ごす。明後日は、ラピスラズリ大陸の街に寄港し、小さな冒険が待っている。
荷物の確認を終えた俺たちは、そのまま魔力で動くエレベーターに乗り込み、十四階にあるバイキング会場へと向かった。
エレベーターの扉が静かに開くと、そこはきらびやかなホール。
香ばしい匂いと、食器の触れ合う音が、空腹をやさしく刺激する。
「マスター……!」
リアラが、嬉しそうに俺の手を引いた。
その先にあった扉が、音もなく開かれる。
そして広がったのは、夢のような光景だった。
天井まで届くガラスの窓から、海に沈みゆく夕陽が金と藍のグラデーションを描き、室内のシャンデリアが柔らかな光でそれを引き立てている。
数十メートルはある長いテーブルには、彩り豊かな料理の数々が並び、香ばしい香りとともに湯気がゆらめいていた。焼きたてのパン、真珠貝のスープ、飴色に焼き上げた肉、花のように盛られた果物。
そして、手をかざすだけで温度調整できる魔法の皿が、料理を完璧な状態に保っている。
「すごい……! これ、全部、好きなだけ食べていいんですよね……っ?」
リアラは、ぱあっと顔を輝かせ、まるで遊園地にはじめて来た子どものように、両手を胸の前で握りしめた。
「……ええ、もちろんです。むしろ、食べないと損ですよ」
「ま、マスターっ……!わたくし、少しだけ……失礼しますっ!」
そう言うが早いか、リアラは小走りで料理の並ぶテーブルへ向かっていった。
その背中からは、はしゃぐような楽しさが溢れている。
食器を手に、あっちに行っては「わあっ」、こっちに行っては「これも……!」と目を輝かせ、彼女はまるで夢の中を歩いているようだった。
「……リアラさん、好きなだけ取っていいんですよ。」
声をかけると、リアラはにこっとこちらを見て、うんうんと勢いよく頷いた。
「はいっ!でも、どれからにするか迷っちゃって……!」
彼女はトングを握る手をひょいと上げ、照れ笑いを浮かべる。
「こんなにたくさんの中から選べるなんて、贅沢ですね……マスターと一緒じゃなきゃ、来られなかったと思います。」
その言葉に、俺は少し照れながらも頷いた。
料理を手に取り、海の見える窓際の席に腰を下ろすと、波の音が遠くに聞こえてくる。窓越しに、空が群青から漆黒へと移り変わりつつある。
「いただきます。」
「いただきますっ!」
最初の一口目。
リアラが口にしたのは、焼きたてのハーブパンだった。
ぱくっ!
「んっ……!あ……!」
目を丸くして、リアラがそのまま身を乗り出すようにして言った。
「……美味しい……!こんなパン、初めてですっ!」
彼女は、にこにこと笑いながら、次々と料理に手を伸ばす。
ナイフとフォークの音が静かに響く船内で、リアラは何度も「美味しいっ」「これも好きです!」と、子どものように声を弾ませていた。
その姿を見て、俺は思う。
この旅は、ただの贅沢や観光じゃない。
彼女に、もっと「楽しいこと」「嬉しいこと」を知ってもらうための旅なんだ。
「マスター、次は……あの、お肉……半分こ、しませんか?」
「もちろん。……その代わり、あの貝のスープ、俺にもちょっと分けてください。」
「ふふっ、はいっ!」
船の窓の外では、夜の海に点々と浮かぶ光がきらめき、まるで星を閉じ込めたように、その輝きは二人の胸の奥にまで、そっと届いていた。




