11章
一節
カモメ亭の酒場は賑やかだった。
剣を背負った冒険者たちや、仕事帰りの商人たちの談笑が、石壁の店内に心地よく反響している。
「ジュース3つ、お待たせしました!」
気のいい店主が運んできたのは、色とりどりの果実酒……ではなく、フルーツシロップの炭酸割りだった。
「お酒じゃないのが、ちょっとだけ残念ですね。」
と、リアラがくすっと笑う。けれど、彼女の頬はほんのり上気している。
それはきっと、試合の興奮と、仲間たちと味わう安堵の温もりのせいだ。
「えー、でもあたしこれ好きだよ。甘くてしゅわしゅわしててさ! ふふっ、なんか……勝った気がする!」
タダンカがジュースのグラスを高く掲げて、勝ち誇ったように言う。
「……いや、実際に勝ったんだよ。あの闘技場で。」
俺が言うと、タダンカはへへっと笑って、リアラの方をちらりと見た。
「でも、一番すごかったのはリアラさんだよ。あの……扇風機の魔法? あれ、なんだったの?」
「えっ……えっ、あれは……!」
リアラが困ったように顔を赤らめる。
「わ、忘れてください、あんなのはっ。い、勢いで、つい……!」
「やー、でも観客めっちゃ沸いてたよ? あれ、ちゃんと名前つけた方がいいって!」
「な、名前……ですか?」
「うん!《聖風招来陣・改》とか、《烈風ミキサー斬り》とか!」
「どちらも、ちょっと物騒すぎませんか……!?」
三人の笑い声が、酒場の隅っこで小さく弾ける。
まわりの客たちは皆、勝手に盛り上がっていて、誰もこちらの会話には興味を示さない。 でも、それが、いい。こういう普通の夜が、たまらなく愛しい。
「じゃあ、改めて……。」
リアラが、おずおずとグラスを持ち上げた。 タダンカもにんまりと笑って、俺を見上げる。
「マスター。……乾杯、しよっか。」
「……うん。じゃあ。」
三人で、静かにグラスを合わせた。
カチン。
ジュースの泡が、小さくはじける音。 誰もが酔うことなく、心だけがふわりと温かくなる音だった。
「……ふぅー、なんか一気に気が抜けちゃった。」
タダンカが椅子の背にもたれかかりながら、大きく伸びをする。
「ちょっとだけ、夜風にあたってくるね。……ほら、こういう日は気が抜けて、逆に寝つけなさそうでさ。」
「……大丈夫ですか? 冷えますよ?」
リアラが少し心配そうに首をかしげる。
「へーきへーき。あたし、暑がりだし。んじゃ、あたしがいない間に、いちゃいちゃしちゃダメだからねー?」
そう言って、ぴょんと椅子を降りたタダンカは、手を振りながら店の入り口へと向かっていった。
俺とリアラは、顔を見合わせて苦笑いする。
彼女の背中が扉の向こうに消えていく頃には、また店内に心地よいざわめきが戻っていた。
第二節
夜の海風はひんやりとしていて、昼間の熱気をゆるやかに運び去っていた。
カモメ亭の軒先、タダンカはひとり、小さく伸びをする。
「……ふぅ。さすがに今日は、ちょっと動きすぎたかも。」
夜空にはいくつもの星がまたたいていたが、彼女の視線はそれを追わず、斜め前の薄暗がりを捉えていた。
隣の宿屋の陰、柱の影に気配があった。
「……アンタさぁ。夜風に当たるには、ちょっと隠れすぎじゃない?」
唐突にそう声をかけると、影がぴくりと揺れる。
やがてそこから姿を現したのは、ボロボロのローブを羽織った、小柄な少女。
「……タダンカ……さん……?」
かつての魔導士とは似ても似つかない姿だった。
頬には痣、唇は切れ、目は赤く腫れている。まるで捨てられた仔犬のようだ。
「マスターに……魔法が使えないなら、意味がないって……言われて…………あのあと、何度やっても……魔法、出なくて……ずっと、練習してたのに……。」
絞り出すように、リィナが話す。
その足元がふらつき、ついには壁にもたれるようにしゃがみ込んでしまった。
「……試合のあと、魔法が……戻らなくて。マスター、しびれ切らしたみたいで……“力が戻るまで帰ってくるな”って……部屋には、荷物だけ置いて、どっか行っちゃって……。」
最後は嗚咽混じりの声になった。
拳を握りしめながら、リィナはぽつりと呟く。
「こんなの……こんなの、捨てられたのと同じじゃない……!」
その言葉に、タダンカは何も言わず、そっと腰のポーチに手を伸ばした。
取り出したのは、小さな紙に包まれたまんじゅう。
試合のあと、リアラが人数分買っておいてくれた、あまい保存菓子。
「……食べなよ。腹、減ってるでしょ。」
まんじゅうを差し出すと、リィナは戸惑いながらも、おずおずと手を伸ばす。
その手は、かすかに震えていた。
「……私、どうしたら……?」
その問いに、タダンカはふっと肩をすくめて答えた。
「さぁ? どうにかなるかもしれないし、ならないかもしれない。でもさ、そのまんじゅうが美味しかったら、とりあえず今日一日ぶんは勝ち、ってことで良くない?」
その軽さに、ほんのわずかだけ、リィナの表情がほぐれる。
夜の街角。
少女二人のあいだを、しんとした潮風が通り抜けていく。
そしてほんの一瞬、そこに灯ったのは、救いのような、あたたかい沈黙だった。
第三節
カモメ亭の扉が、静かに軋む音を立てて閉まった。
タダンカの背中が店内に消え、夜の静けさが再び戻ってくる。
リィナは、宿屋の壁にもたれながら、膝を抱えてしゃがんでいた。
手のひらには、先ほど渡された小さなまんじゅう。
まだ、ほんのりと温かい。
包み紙をそっと開き、ためらいがちに指先でつまむ。
唇に運び、ちいさくひとくち。
もぐ……もぐ。
「……甘い……。」
呟いた声は、まるで夢を見るようなものだった。
じんわりと広がる優しい甘さ。
それは空腹を満たすだけではない、心の奥に染み込んでくるような味だった。
けれど、その時だった。
リィナの眉がぴくりと動く。
「……あれ?」
まんじゅうの中に、何かが絡んでいた。
細い繊維のような……淡く光る、銀色の毛髪。
「……髪……?」
戸惑いながらもそれを摘み取った瞬間、胸の内に、何かがふわりと湧き上がるのを感じた。
魔力。
失われたはずの、力の感覚。
あの試合のあと何をしても戻らなかった、懐かしい光脈。それが今、たしかに彼女の身体に流れている。
「……っ!」
リィナは思わず、自分の手を見つめる。
微かに指先から、灯がともるような感覚。
魔法が、戻ってきた。
「ど、どうして……?」
唇が、震えながら言葉を探す。
けれど答えは出てこない。
ただ、まんじゅうに混じっていた、あの“髪の毛”。
思い出すのは、タダンカが試合で見せた“奪う力”。
そしてそれを、まるで今度は“返す”ように、自分へと差し出したかのような。
あれは偶然じゃない!
リィナの瞳に、また涙が浮かぶ。
でも、さっきまでとは違う涙だった。
「……ありがとう、タダンカさん……。」
震える声で、けれどしっかりと、そう呟く。
リィナは立ち上がった。
膝は少し震えていたが、足取りは確かだった。
ポーチの紐を結び直し、肩を正す。
戻らなきゃ。私のマスターのところへ。もう一度、ちゃんと……。
夜風の中、そう思い立ったリィナの姿が、ゆっくりと動き出す。
誰もいない街路に、たったひとつの足音だけが響いていた。
それは、もう一度始まる、小さな再出発の音だった。
四節
次の日の朝、俺たちは闘技場の石造りの正門前にいた。
眩しいほどに晴れた空の下、昨日の勝利が、まだ身体のどこかに残っている気がする。
タダンカとリアラ。
二人の降臨者は、ついにシルバーランクへと昇格していた。
そして俺の手元には、報酬金5000ゴールドが入った袋がずっしりと重い。 実感は、いまもまだ、少し薄い。
「はい、タダンカ。これ、3000ゴールド。」
「おっ、マジ? うわぁ……お金って、ホントにずっしり重いんだねぇ!」
目を輝かせながら受け取った彼女の手には、旅支度の小さな袋がひとつだけ。
「本当に、行くんだね?スカブの村に。」
俺がそう訊ねると、タダンカはくるっと振り返った。
「うん! あたし、やりたいこと見つけちゃったから。」
自信に満ちた笑顔。
それは、降臨者としてではなく、この世界に生きる“ひとりの女の子”の顔だった。
「……ほらさ、あの村で食べた干し肉とパン、すっごく美味しかったでしょ?あれ、自分でも作ってみたいなって思ったの。」
「それは……料理人に、なるってことですか?」
リアラが驚いたように目を瞬かせる。
「そうそう!ね、面白そうでしょ?」
その言葉に、俺とリアラは、少しだけ言葉を失った。
でも、それはきっと、いいことだ。
自分の“やりたいこと”を見つけて、この世界で歩き出そうとする誰かを、止める理由なんてない。
俺は小さく息を吐いて、召喚器に手を添える。
「……タダンカ、解放します。」
すぐそばにいたタダンカの身体に、淡く優しい光が差し込んだ。
その輪郭がゆっくりとほどけていくように、降臨者としての彼女が静かに解放されていく。
けれどタダンカは、一歩も退かない。 まっすぐに俺の目を見て、いつもの笑顔で言った。
「ありがと。あたし、元気にやるよ。じゃあね!」
そのまま、ふんどしをひらひらさせながら、駆け出していく。
スカブの村へと続く城門の向こう。
それは、彼女にとって新たな“冒険のはじまり”だった。
しばらくして。
城門からの帰り道、俺とリアラはゆっくりと並んで歩いていた。
潮の香りが混じる風が、街路の石畳を吹き抜ける。
隣を歩くリアラが、ふと、やわらかく微笑んだ。
「……マスター、次はどこへ向かいます?」
その問いに、すぐに答えは浮かばなかった。
けれど、隣にリアラがいる。
それだけで、不思議と足は前へ向いていた。
行き先は、これから決めればいい。
この世界には、まだ知らない道が無数にある。
俺たちは、並んで歩き続ける。
それが、今の答えだった。
ノクティヴェイル 第一巻、完




