第6章|2025年4月〜6月 ― 咽頭浮腫・緊急手術・入院
2025年の春、ユキの沈黙は質を変えていた。
以前の沈黙は安心だった。
今の沈黙は、どこか遠く、心の奥に隔たりを感じさせるものになっていた。
LINEの返事は短く、既読までの時間も延びた。
それでもユキは、一度も別れを考えていなかった。
十年間、ただの一度も。
あきらを失う未来は、想像できなかった。
しかし、その未来は、ある日突然やってきた。
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4月某日 ― 異変
朝、ユキは喉に違和感を覚えた。
腫れているような、熱を持っているような、言葉にできない不快感。
昼過ぎには呼吸が浅くなり、夕方には息を吸うたびに喉が狭まり、空気が入らなくなった。
夫が異変に気づき、救急車を呼んだ。
サイレンの音が遠ざかる意識の中、ユキは思った。
——まだ死ねない。
——娘がいる。
——あきらにも、何も言えていない。
その瞬間でさえ、
別れようとは思っていなかった。
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緊急搬送・咽頭浮腫
病院に着いたとき、ユキはほとんど呼吸ができていなかった。
医師たちの声が飛び交う。
「咽頭浮腫、急速に悪化しています!」
「気道が塞がる、急げ!」
「気管切開の準備!」
視界が白く滲む。
酸素が足りない。
世界が遠ざかる。
最後に聞こえたのは、娘の泣き声だった。
そして、意識が途切れた。
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気管切開・生死の境
ユキは生死の境をさまよった。
喉に穴を開け、人工呼吸器につながれ、
声も出せず、身動きもできない。
ICUの天井は白く、時間の感覚は曖昧だった。
夫が来た。
娘が来た。
泣きながら手を握ってくれた。
その温度が、ユキの心を揺らした。
——私は、この子の母親だ。
——この人の妻だ。
——十年間、何をしてきたんだろう。
その瞬間、
ユキは初めて“別れ”を考えた。
十年の間、一度も考えたことがなかったのに。
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ICUの夜、初めての決断
声が出ない。
喉が痛む。
呼吸器の音だけが規則的に響く。
ユキは、あきらとの日々を思い返した。
元町で作った指輪。
右手の中指にそっとはめた銀の輪。
十年の重み。
そして、あきらの優しさ。
笑い方。
声。
触れ方。
そのすべてが、胸を締めつけた。
——私は、あきらを愛している。
——でも、もう続けられない。
家族の顔を見たとき、
その思いは確信に変わった。
ユキは、
あきらを失う未来を初めて受け入れた。
それは愛が冷めたからではない。
愛しているからこそ、終わらせなければいけないと思った。
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退院後の決意
数週間後、ユキは退院した。
声はまだかすれ、喉には傷跡が残っていた。
あきらに会うことはできなかった。
会えば、決意が揺らぐ。
十年の重みが、また心を引き戻す。
だからユキは、
嘘をつくことにした。
「もう冷めたの」
本当は冷めていない。
むしろ、十年でいちばん強く愛していた。
でも、そう言うしかなかった。
あきらを傷つけるためではなく、
あきらを守るためでもなく、
ただ、自分の人生を立て直すために。
娘のために。
夫のために。
そして、自分のために。
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6月末 ― あきらへの連絡
6月の終わり、ユキは震える指でメッセージを送った。
『もう、終わりにしよう。冷めたの』
送信ボタンを押した瞬間、
胸の奥が裂けるように痛んだ。
十年の愛が、
たった一行の嘘で終わった。
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同じ6月末 ― あきらの家庭の崩壊
その同じ日の夜。
あきらのスマホに、妻からのメッセージが届いた。
『息子を連れて出ます。
あとは弁護士と話してください』
玄関の扉が閉まる音が、
部屋に響いた。
あきらは、
十年の愛と、十年の家庭を、同じ日に失った。
圧倒的な孤独が、
静かに、確実に、彼を包んだ。
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ふたりの孤独
ユキは家族の中で、
あきらを思い出しながら泣いた。
あきらは空っぽの部屋で、
ユキの「冷めた」という嘘を信じるしかなかった。
ふたりは同じ日に、
まったく違う形で、
同じ孤独に落ちていった。
十年の愛は、
生と死の境で、静かに終わりを迎えた。




