第1章|2014年 ― 音楽から始まった距離
この物語は、
「正しい選択」を描くために書かれたものではありません。
誰にも言えなかった感情、
壊さなかったからこそ失ったもの、
そして、静かに終わらせるという勇気についての物語です。
すべては、音楽の話から始まった。
2014年、私はONE OK ROCKのファンが集まるグループLINEを管理していた。
仕事の合間にスマホを開くと、いつも通知が絶えず溢れていた。
スタンプや感想が絶え間なく流れ、賑やかな輪は一日中途切れなかった。
メンバーの中で、ユキは目立たない存在だった。
発言は少なく、短い感想をそっと置くだけ。
誰かを否定せず、無理に盛り上げもしない。
賑やかな輪の端で、静かに存在しているような印象だった。
当時のユキは、夫と娘を何より大切にしていた。
家庭を壊すつもりなど一度もなかった。
ただ、音楽の話をする場所が、日常の雑音から離れた静かな居場所になっていただけだ。
私も同じだった。
既婚者同士の軽い趣味の会話。
それ以上の意味は、探す必要がなかった。
変化は、ある夜の個別メッセージから始まった。
「さっきの曲、私も好きです」
たったそれだけの短い一文。
理由も前置きもなく、シンプルだった。
私は軽く返す。音楽の話を続けただけ。
けれど、その言葉は妙に胸に残った。
ユキの返信は、いつも少し間があった。
すぐには返さない。その沈黙が、私は心地よかった。
待たされているのではなく、言葉を選んでくれているような気がした。
夜、家族が寝静まったあと。
朝、出勤前の数分。
ユキから届く短い一文は、日常の隙間にそっと収まった。
家庭の話は出ない。
仕事の愚痴もほとんどない。
触れないことが、暗黙の了解のようだった。
ユキは、この頃、私と深い関係になる未来など考えていなかった。
ただ、同じ音楽を好きな誰かと話す時間が、静かに嬉しかっただけ。
私たちは、お互いに「越えてはいけない線」を知っている大人だと思っていた。
管理者とメンバーという関係性が、距離を守ってくれていると信じていた。
だが、やり取りは少しずつ変わっていった。
音楽の話は減り、日常の断片が混じるようになる。
天気、眠気、仕事の忙しさ。
どれも無害な話題だったからこそ、危うさもあった。
ユキは多くを語らない。
その代わり、相手の言葉をよく覚えていた。
以前私が何気なく言ったライブの話を、数週間後にさりげなく拾い上げる。
その記憶力は、感情ではなく、誠実さの表れのように見えた。
私は、管理している立場に、無意識に安心していた。
まだ恋ではない。欲望もない。
少なくとも、そう信じていた。
しかし、通知の震えひとつで胸が反応するようになった頃、気づき始めた。
これは、ただの会話ではない。
ユキは慎重だった。
距離を測り、言葉を選び、決して踏み込みすぎない。
その態度が、私には信頼の証に見えた。
だが実際には、それは彼女なりの防衛だった。
家庭を壊すつもりなどないからこそ、慎重だったのだ。
2014年の私たちは、まだ会ったこともなかった。
ただ、言葉を交わしていただけだった。
けれど、その言葉が、後になって引き返せなくなるほどの重さを持つことを、この時の私は知らなかった。
そして10月の終わり、ついに私たちは「会う」という選択をした。
軽い気持ちのはずだった。
コーヒーでも、と。
それだけのはずだった。
ユキは家を出るとき、娘の「いってらっしゃい」を聞きながら、胸の奥に小さな罪悪感を覚えた。
それでも、会うことをやめようとは思わなかった。
あきらに会うことが、家庭を壊すことだとは思っていなかった。
だが、その一歩が、十年のすべてを変えてしまうことになる。
愛は、必ずしも声を上げて終わるとは限りません。
黙ったまま、誰かを守るために終わることもある。
この物語の彼女は、
何も奪わず、何も求めず、
それでも確かに、深く愛していました。




