傷だらけの巨鯨 世界ヘビー級王者 ジェス・ウィラード(1881-1968)
ジェス・ウィラードというと長らくジヤック・デンプシーの引き立て役のような地位に甘んじてきたが、
技術的解析が進むにつれ、ただのでくの坊などではなく、なかなかの試合巧者であることがわかったのは喜ばしいことである。そもそも”世界最強の男”の称号であり、当時としては天文学的な試合報酬が約束されたチャンピオンの座にただ身体がでかいだけの男が君臨できるはずなどないのだ。
二十一世紀に入ってヴィタリ・クリチコという身長二メートルを超える巨人が世界チャンピオンになるまで、長らく最も長身のヘビー級チャンピオンの座にあったのが、カンサス州ポタワトミー郡出身の『ポタワトミーの巨人』ことジェス・ウィラードで、その身長は一九九センチだった。
ウィラードがボクシングを始めたのは二十八歳と遅く、それまではカウボーイとして生計を立てていた。お人良しで人と争うのが嫌いな性格だったため、自分の並外れた巨躯とパワーを生かす術に気づくまでには時間がかかったが、二十九歳という高齢でプロデビューしながら、わずか四年のキャリアで世界チャンピオンになったことを考えれば、単なる運だけではなくそれなりの素質があったということだろう。
不器用で動きものろいが、力だけは並外れていたウィラードのデビュー戦(一九一一年二月十五日)は、三ラウンドにダウンを奪う上々の立ち上がりだったにもかかわらず、十ラウンドに失格負けという締まらないものだった。これはクリンチを振りほどこうとした際に、勢い余って相手をキャンバスに叩きつけてしまい反則を取られたからである。
執拗なクリンチを振りほどこうとして、相手を投げ飛ばしてしまうこと自体はそれほど珍しいことではないが、通常ならば減点がいいところである。しかし、ウィラードの場合、これで試合が終わっているところをみると、相手の打ち所が悪くファイト再開に応じられなかったのだろう。
ウィラードのボクシングスタイルは、ぎこちないとか意気地がないといった批判的な目で見られることが多かった。それにしてはKO率が高いのは、彼が典型的なカウンターパンチャーだったからである。
動作が鈍く小さな的を追いかけるのが苦手だったことから、先に相手から攻撃させる戦法を取ったところ、これが結構うまくいったため、一見消極的とも見えるこのスタイルが定番となった。
相手の連打に晒されて棒立ちになってしまい、「うすのろ」と罵声を浴びることもあったが、尋常ではないくらいタフだったので、大抵のパンチを喰らっても実はほとんどこたえていなかった。
逆にウィラードにしてみれば、射程距離に入りさえすればしめたもので、巨体から繰り出すロングジャブはまるで電信柱を叩きつけられたかのように重く、それだけでも相手をKOしてしまう威力があった。そのうえ、自分から相手を追い回す必要もないため、スタミナも温存することができた。しかし、彼の「打たせてから打つ」スタイルは、鈍重な動きと相まってなかなか評価してもらえなかった。
デビューから八ヶ月後のジョー・コックス戦では、二回りも小さな相手から散々打ちまくられて五ラウンドに試合放棄するという汚点を残しているが、この試合をまとめたジミー・ブロンソン(レフェリー兼マネージャー)は無様な試合をしたウィラードを見限り、マネージャーの依頼を拒否している。ボクサーを見る目には定評があったブロンソンほどの目利きでさえも、ウィラードの実力を見誤ったのである。
お世辞にも巧いとは言えないボクシングながら、ずば抜けたタフネスと強打を持った“巨人”は強豪ガンボート・スミスに判定負けした以外は、ほとんどの相手をKOで葬り、中には一九一三年に戦ったジョン・ヤングのように右アッパー一発で昇天させた例もある。
ボクシングでのリング禍というと、大抵は脳内出血か脳挫傷によるものだが、ヤングの場合は首の骨がへし折られていたというから恐るべき衝撃度である。連打によるダメージの蓄積はレフェリーストップやタオルの投入で防ぐことができても、一撃必殺のパンチがもたらす悲劇だけは避けようがない。
スピードは遅くとも体重が乗ったウィラードのパンチが急所を直撃すればどうなるかを見せつけられたヤング戦以降の対戦相手は、腰が引けてしまいまともに打ち合うことができなかった。
当時の名のある白人ボクサーをあらかた片付けてしまったウィラードに、ようやくビッグチャンスが巡ってきた。ジャック・ジョンソンとの世界ヘビー級タイトルマッチである。
一九一〇年にカムバックした無敗の元ヘビー級チャンピオン、ジム・ジェフリーズがジョンソンに返り討ちに遭ってからというもの、ヘビー級はジョンソンの独壇場で、まともにジョンソンに太刀打ち出来るボクサーがいな白人たちのフラストレーションは募る一方だった。
そこで彼らは「ホワイト・ヘビーウェイト・チャンピオン」という急場凌ぎのヒーローを担ぎ上げようと画策した。
当時の白人ヘビー級の四強と言えば、ガンボート・スミス、アル・パルザー、ルーサー・マカーティー、ジェス・ウィラードで、一九一二年の時点では、実力ならスミス、人気ならマカーティーというところだった。
一九一三年一月一日に行われたホワイト・ヘビーウェイト王座決定戦では、二十歳の新鋭マカーティーがパルザーを十八ラウンドKOして初代王座に就いたが、実力的には上を行くスミスやウィラードがないがしろにされたのは、長身で男前のマカーティーの方が人気があり、商品価値が高かったからだ。
ウィラードは前年八月十九日にマカーティーを一方的に打ち据えながら、KO決着以外は無判定というルールのため、記録の上ではノーコンテストとなっており、もし王座決定戦に出場していれば、おそらくマカーティーに勝ち目はなかったと思われる。
しかし、このような茶番にファンが納得するはずはない。五月二十日にはマカーティーへの挑戦者決定戦という名目でスミス対ウィラード戦が実現した。
この一戦はウィラードにとって初の二十回戦ということで、序盤はリードしながら中盤をセーブしたのが失敗だった。終盤に猛スパートをかけ、左ストレートでスミスに片膝をつかせるほど追い込んだものの、巧みなクリンチワークで逃げ切られてしまったのだ。
記者や観客の中にもスミスの消極策を批難し、悪くてもドローという意見も少なくなかったが、古傷の耳を狙われ、大量に出血したこともジャッジするうえでの印象を悪くしたのかもしれない。
一方、この日の勝利によって七月四日にマカーティーに挑戦することが決定したスミスだが、何と四日後に行われたアーサー・ペルキーとの初防衛戦で一ラウンドにKOされたマカーティーが急死したため、全ては白紙に戻ってしまった。
マカーティーの死の原因は、試合前日の落馬で脳に損傷を受けたままリングに上がったことによるもので、スター作りを急ぎすぎた白人たちは、皮肉にも自らの手でホワイトホープを葬った格好になった。
しかも間の悪いことに、スミスまでが翌一九一四年にフランスきっての人気ボクサー、ジョルジュ・カルパンティエに反則負けという不本意な形で連勝をストップされてからというもの、めっきり負けが込み始め、スター戦線から脱落してしまった。こうして次々と若きホープが姿を消してゆく中、スミス戦の際どい判定負け以来、地道に勝利を重ねてきた三十三歳の大男にビッグチャンスが転がり込んできたのである。
一九一五年四月五日、アメリカ本国ではライセンスが停止されているジョンソンはキューバの首都ハバナで防衛戦を行うことになった。
十年間無敵のジョンソンもすでに三十七歳、長年にわたる海外での放浪生活のため練習不足は否めなかった。したがって早めに勝負に出てくる可能性が高い。そこでウィラードは自分からは極力仕掛けず、持久戦に持ち込むことにした。
「ガルベストンの巨人」と謳われたジョンソンも、「マン・マウンテン(人の山)」と呼ばれるウィラードの前では、大人にじゃれつく子供のように見えた。ボディはいくら打っても効かず、顔面へのパンチは伸び上がるようにして打たなければ届かない。
七ラウンドには顔中傷だらけで血まみれになったウィラードにとどめを刺そうとたたみかけるが、パンチの雨に棒立ちになってもまるで神経が遮断されているかにように一向にダウンする気配を見せない。それどころか、クリンチのたびに巨体からのしかかられ、それを振りほどくだけでもかなりのスタミナの消耗を強いられた。
ハバナの灼熱の太陽の下、攻めながらも疲労困憊となったジョンソンは、二十ラウンドを境ににわかに動きが鈍り始めた。そして運命の二十六ラウンド、まだ余力を残すウィラードがロングレンジから右ストレートを振りぬくと、顎を打ち抜かれて仰向けにひっくり返ったジョンソンにはもう立ち上がるだけの体力は残っていなかった。
劇的なKO勝利でおよそ七年ぶりに世界ヘビー級タイトルを白人の手に取り戻したウィラードは、これまでののろま扱いはどこへやら、一夜にして全米のヒーローとなった。
この試合、ボクシングの実力ではジョンソンが上なのは明らかだったが、四十五ラウンド制という長丁場であることに加えて、炎天下という劣悪なコンディションが、ウィラードに大きなアドバンテージをもたらしたことは間違いない。
フルラウンド闘えるようペース配分ができるウィラードは、体力を温存しつつ無理せず蟻地獄のような消耗戦に持ち込もうとしたのに対し、過去に二十ラウンドを超える試合経験がないジョンソンは簡単にKOできると過信していたのだろう、まんまとその罠にはまり、未知のラウンドに入って力尽きたのだ。
もちろん、両者の力量差からして八百長ではないかという説が一時マスコミを賑わせたこともあった。それは、国外追放中のジョンソンがアメリカに戻ることを条件にウィラードに勝ちを譲るという裏取引があったことを当のジョンソンが暴露したからである。
当時のジョンソンが金銭的に困窮していたことから、ガセネタと見る向きが多かったものの、ジョンソンの全盛期を知るファンからすると、それを完全否定するほどウィラードが優れたボクサーだったとは言い切れないものがあり、二人が亡くなった後も八百長説は一種の都市伝説となっていた。
この論争にようやくピリオドが打たれたのは、当時のフィルムが発見されて試合経過がつぶさにチェックされたことによるもので、現在ではウィラードがジョンソンをKOしたことは純然たる事実として、また稀に見る番狂わせとしてボクシング史上の名勝負の一つに数えられている。
一九一六年三月二十五日にMSGで行われたウィラードの初防衛戦は、テックス・リカードのプロモートによるものである。数々のボクシング興行を成功させ大プロモーターへの道を歩みつつあるリカードにとっては、ニューヨークでのデビューを飾る重要な一戦だった。
挑戦者のフランク・モランはかつてパリでジャック・ジョンソンと二十ラウンド戦ったことのある(結果は判定負け)タフな強打者だが、ウィラードのロングジャブをかい潜れず、十ラウンド無判定に終わっている。これはあらかじめKO決着以外は無判定という取り決めによるもので、明らかにチャンピオンが有利なルールである。
モランも白人の人気ボクサーだが、白人にとっては鼻持ちにならないジョンソンをKOした国民的英雄のウィラードとでは知名度においては比較にならない。リカードとしては名前だけでも大きな興行が打てるウィラードを負けさせるわけにはゆかなかったのだろう。加えてボクシング人気を盛り上げるためにも、英雄であるウィラードには長く頂点に留まってもらう必要があった。
ウィラードは鈍重ではあっても打たれ強く、リーチを生かしたアウトボクシングに徹すれば攻略するのはやっかいなボクサーである。したがって少々のハードパンチャー相手でもKOされる危険性はほとんどないため、この条件ならばいけると踏んだに違いない。不利を承知で試合を承諾したモランの方も二万三千ドルのファイトマネーを蹴るほど愚かではなかった。
試合はリカードが心配するほどのことはなかった。ウィラードは途中で右手人差し指を痛めたためナックアウトすることは諦めたが、終始攻勢を続け、ニュースペーパーディシジョンでもチャンピオンの勝利と出ていた。
この試合で四万七千ドルのファイトマネーを得たウィラードは、人気にさらに拍車がかかり、ボードビルショーやサーカスからの出演以来が殺到した。中でもサーカス巡業は三年間で十万ドルという破格の契約だった。一九一九年には初主演映画『運命の果し合い』が日本でも封切られたが、これは現役世界チャンピオンがプログラムピクチャーに登場した最初の例である。
初防衛戦の後はエキジビションでお茶を濁しながら、まるで芸能人のように振る舞い、豪奢な生活に溺れてきたウィラードにもやがてそのツケを払う日がやって来た。
なかなか防衛戦に応じようとしないウィラードに、十万ドルのファイトマネーを提示してようやく重い腰を上げさせたのが、他ならぬテックス・リカードだった。
対戦相手のジャック・デンプシーは、猛獣のように獰猛なファイトぶりで売り出し中の危険なチャレンジャーだったが、ウィラードよりも十センチ以上小柄で体重も三十キロ近く軽かったせいか、完全に見くびっていた。
試合会場となるトレドでキャンプインした時も、市内に豪邸を借り、高級車でトレーニングに向かう姿は成金そのもので、スパーリングも昔なじみの仲間との馴れ合いのようなものに過ぎなかった。
一九一九年七月四日、ベイビューパークアリーナに集まった七万人の観客は、王者と挑戦者がリング上で並んだ時、思わず失笑を漏らした。両者の体格が大人と子供のように違っていたからである。
トレーニング中にニアミスした時も、デンプシーを小僧呼ばわりしてからかっていたウィラードは一ラウンド序盤は余裕しゃくしゃくで、左右のフックを振り回して肉薄するデンプシーをロングレンジからのジャブと右ストレートであしらっていた。
デンプシーは踏み込みが速くパンチも鋭かったが、アップライトのウィラードが左腕を前に出していると、その長い腕が邪魔になって拳が顔面に届かずいらだっていた。
ところが一分過ぎ、低い体勢からのデンプシーの右が胸板を直撃し、一瞬前傾になったウィラードの顎を返しの左が鋭く打ち抜くと、これまでダウン経験のないタフな巨人がたまらず腰から崩れ落ちた。
すでにこの時、ウィラードの顎骨は砕けていたのだが、驚くべきタフネスで立ち上がるたびにデンプシーの情け容赦ない強打でキャンバスに崩れ落ち、リング上はまるで公開私刑さながらとなった。
ウィラードは一ラウンドだけで七度ものダウンを喫したが、それでも試合を諦めなかったため、次第にいきり立ってきたデンプシーのパンチも雑になり、二、三ラウンドはダウンを追加することができなかった。
懐の深いウィラードの下がりながらのショートアッパーを警戒して踏み込みが浅くなったことも要因の一つだが、もしウィラードがデンプシーを舐めずに最初から右ガードを上げて左ジャブと右アッパーを多用していれば、デンプシーの単調な攻撃では突破口を開くのは容易ではなかっただろう。
加えて体力的に余裕があれば、ウィラードの長い腕をからめて上からのしかかるようなクリンチは、三十キロも軽いデンプシーがふりほどこうとするたびに確実にスタミナを奪っていったに違いない。
それでも四ラウンド開始前にチャンピオンサイドから棄権が申し入れられ、後に「トレドの惨劇」として語り継がれることになる凄惨なタイトルマッチはようやく幕を下ろした。
ウィラードは顎の他に肋骨も骨折していたため、グローブをつけた人間の拳でここまで相手にダメージを与えることができるのか懐疑的な意見も多く、後にデンプシーと喧嘩別れしたマネージャーのドク・カーンズが悔し紛れに「デンプシーはバンテージを巻いていた拳を石膏で固めていた」というデマを流したことで、デンプシーの悪役のイメージがさらに誇張されたのは気の毒だった。
デンプシー戦の後のウィラードはと言えば、エキジビションを幾つかこなしただけのセミリタイア状態だったが、一九二三年五月十二日、テクス・リカードのプロモートで本格的なカムバック戦に臨むこととなった。
対戦相手は「赤褐色のブルドッグ」の異名を取る二十二歳の新鋭、フロイド・ジョンソンだった。三〇勝二敗(二十一KO)六引分のジョンソンは、一ラウンドKO勝ちを八度も記録しているデンプシーばりのラッシャータイプで、体型もほぼ同じである。
すでに四十一歳のウィラードではスピードで勝負にならず、トレドの惨劇の二の舞と思われていたが、落ち目になっても白人にヘビー級王座を取り戻した英雄の人気は相変わらずで、試合会場のヤンキースタジアムは六万三千人の観客が押し寄せる大盛況となった。
しかも驚くべきことに、この老雄は若き強打者の攻撃に耐え抜いたばかりか、十一ラウンドにナックアウト勝ちしたのだ。この見事なカムバック劇で、ウィラードは全米スポーツ界の話題を再び独り占めにした。
商魂たくましいリカードは、再燃したウィラード人気を当て込んで、デンプシーとの対戦が決まっているルイス・アンヘル・フィルポ(アルゼンチン)の世界前哨戦として、ウィラードとの巨人対決をマッチメークした。キャッチコピーはずばり「バトル・オブ・ザ・ジャイアンツ(巨人の戦い)」である。
さすがに奇跡はそう何度も起こるものではない。上り坂のフィルポの豪腕ラッシュをしのぐだけで手一杯のウィラードは滅多打ちにされ、ロープ際で片膝をついたままカウントアウトされてしまったが、この二ヶ月後にデンプシーをリング下にまで叩き出したフィルポの強打を持ってしても、この巨人からは一度たりとも完全なナックダウンを奪うことは出来なかった。
ようやくリングに見切りをつけたウィラードは、ボードビルに出演したり、映画の端役として顔を出したりして糊口をしのいでいたが、人付き合いが下手だったこともあって、程なく忘れ去られた存在になり、財政的にも窮し始めた。
やむなくブロードウェイにレストランを開店したばかりのデンプシーを訪ねてみると、「ジャック・デンプシー・スペシャルラベル」という新銘柄のウィスキーの宣伝に使ってくれるという。
ウィラードがウィスキーの宣伝係をやるというので、新聞記者やカメラマンがこぞって店に押し寄せ、一応客寄せの役割は果たしたが、ある日のこと、バーテンからジャック・デンプシー・スペシャル・ラベルを飲むかどうか尋ねられたウィラードは、近くにデンプシーがいることに気づかず、「ジャック・デンプシー・スペシャルラベル?そんなものが飲めるか!」とやってしまった。もちろんお役御免である。
ウィラードはジョンソン戦の八百長疑惑も含め、長らくタフさだけが取り得の愚鈍なボクサーとして過小評価されていたが、フィルム収集家が長年かけて集めた古い試合フィルムをつぶさに検討してみたところ、実はクレバーな試合巧者だったことが判明した。
マスコミから専門家による再評価の話を伝えられたのはウィラードの最晩年だったが、死の直前までかくしゃくとしていた元チャンプは、「ようやくわかったか。四十五年もかかったが、まあいいや」と豪快に笑い飛ばしたという。
近年はAIの恩恵でモノクロ画像のカラー処理や画像の修復もかなりの精度でできるようになったため、粗い画像でしか残っていない19世紀末の試合フィルムの検証が進めば、オールドグレートたちの評価も変わってくると思われる。




