5.教会で
水でも飲んで帰ろう。
訓練場を出た私は、喉の渇きを癒やすため、城の敷地内にある教会へと足を向けた。教会なら水ぐらいタダで飲ませてくれるだろう。施しの場だもんね。
異世界に召喚された時、最初に目にしたのが、この場所だった。そして、そこで出会ったのがウェインと――。
「あれ、聖女様?」
緩く響く声に、思わず足を止める。
祭壇の前に立つ、一人の青年。
月光を思わせる銀髪が、燭台の炎に照らされて揺れる。切れ長の翡翠の瞳は、どこか気怠げに細められていた。
サイラス。この国の神官と名乗り、私の魔力を測定した人。
「君があまりにも美しいから、月の妖精かと思ったよ」
耳に入ったセリフが理解できず、フリーズしてしまった。
え、サイラスだよね? 何だこいつは。出会った日と同じ祭服姿ではあるけれど、態度があまりにも違いすぎる。
「私のこと覚えてたんだ?」
「もちろん。一度出会った子猫ちゃんは忘れない主義さ」
サイラスはにこりと笑う。気楽そうなその態度に、私はつい肩の力を抜いた。
「聖女から猫になってるし」
言葉のチョイスが昭和のチャラ男みたいだ。昭和にチャラ男がいたのか知らないけど。
「ずっと心配してたんだ。むっさい騎士連中にいじめられてないかって」
「私はそんなに弱くない」
サイラスが口笛を吹く。軽い。軽すぎる。見た目とのギャップよ。
「で? こんな時間に教会なんて、何の用だい?」
「あ、水でも飲もうかと思って」
「なんだ、俺に会いに来てくれたんじゃないのか」
「お水をください」
サイラスは私をじっと見つめた後、ふっと微笑んだ。
そして、そばのテーブルに置かれた銀の水差しを手に取ると、カップに水を注いで差し出してくれる。
「ほら、お疲れさん。加護の水だ。特別に俺の愛を込めたよ」
「普通の水でいいです」
カップを受け取る。思った以上に喉が乾いていたのか、一気に飲み干してしまった。
「気持ちのいい飲みっぷりだね」
すっと、サイラスの手が伸びてくる。気付けば、布を巻かれた私の指先に触れていた。
「ケガしたの?」
「お触り禁止でーす」
やばい、軽い口調がうつった。
「最初はどうなることかと思ったけど、ちゃんと居場所を見つけたんだね」
抗議したのに手を引くことなく続ける。図々しいな、こいつ。
「他に行くところもないし、まあ、仕方なく?」
「いいじゃん。――でも、もし困ったら俺のところにおいで」
「出家しろと?」
ここは教会だ。
「いいね。剣もいいけど、シスターの衣装も似合いそうだ」
サイラスは小さく笑う。
「何を考えてるのか知らないけど、私は私のやるべきことをするだけよ」
「いいね、そういうとこ」
サイラスは軽く肩をすくめると、祭壇の方へ視線を向けた。
「ま、無理はするなよ」
「わかった」
「おや、素直じゃないか。可愛いねぇ」
くすっと笑う彼に、思わず眉を寄せる。
「冗談、冗談。……また会おう、シュリ」
そう言って、サイラスは祭壇へと戻っていった。
変な神官。心の中でぼやきつつ、私は教会を後にした。
***
夜の城は静寂に包まれていた。騎士団の宿舎にある自室へ戻る途中。
蝋燭の灯りがゆらめく廊下を歩く。
「はぁ……眠い」
早く寝よ……。
そう思った瞬間――。
殺気!? 体が反射的に動いた。寸前で床を転がり、次の瞬間――何かが私の首を掻っ切るはずだった。
――今、殺されかけた!?
「チッ……避けるとはな」
男の声が響いた。闇に紛れるように黒ずくめの男たちが現れる。
五人……いや、六人、全員が短剣を手にし、容赦なくこちらへ向かってくる。
「聖女……いや、偽物の聖女にはここで消えてもらう」
「は? 偽物って……っていうか、普通に殺す気じゃん!?」
冗談じゃない。私はすぐさま身を翻し、壁際へ跳ぶ。
「逃がすな!」
男たちが一斉に飛びかかる。
まずい、ここは狭いし、武器もない。素早く辺りを見回す。長いもの、長いもの……。
私は蝋燭に炎が灯る燭台を手に取った。取っ手がついてるけど台座にはそこそこの長さがある。
「これでいっか」
男たちが一瞬、動きを止めた。
次の瞬間――私は燭台を振るい、一番近くの男の喉元に叩き込む。燭台の衝撃で蝋燭の火がかすかに揺れ、やがて消えた。
「ガッ……!!」
男が吹っ飛ぶ。
やばい、軽い。力が入りすぎたかも。
本気でやればこんなものか。相手が武器を持っていようと、関係ない。やっぱり私、強いわ。
「なっ、なんだ、こいつ……!!」
「いいから囲め!!」
四方から刃が迫る。
だが、それより速く動くのは――私の方だ。
くるりと体を捻り、男の腕を掴む。関節をキめ、短剣を奪い取ると、そのまま柄で別の男のこめかみを強打。
「グ……ッ!!」
「次!」
回し蹴りで別の男を吹っ飛ばし、最後の一人の足元を掃う。
数秒。
それだけで、全員が床に転がっていた。
「はぁ……やれやれ」
私は短剣を手にしたまま、一人の男の襟首を掴み上げる。
「誰の指示?」
「く……殺せば……新しい聖女が……」
「誰が言ったの?」
男は歯を食いしばったまま答えない。
――ギィィ。
廊下の奥、闇の中から重い扉が開く音がした。
「お前たち――何をしている」
その声を聞いた瞬間、男たちの顔色が変わる。
そして、私も息を呑んだ。
「ウェイン……?」
廊下の向こうから、騎士団長ウェインが現れた。鋭い金色の眼光が男たちを射抜く。
「シュリ、何があった!?」
私は短剣を放り投げ、ため息をついた。
「私のファンが詰めかけた――かな?」
「……ほう」
ウェインは倒れた男たちを、無表情で順に見下ろした。
「お前たち、覚悟はできているな?」
「チッ……!!」
男たちが一斉に動き出した――が、
ズバッ!
一閃。鋼が光る。
「……っ!」
男たちは動きを止めた。
ウェインの剣が、ほんの一瞬で彼らの前髪を斬り落としていた。
「このまま始末されるか、話すか……選べ」
男たちは一瞬で青ざめ、震えながら答えた。
「……アリアスタ様の、命令……」
私は息を飲んだ。
女王ですって……!? あのババア、やりやがったな!
「なるほどな」
ウェインは無表情のまま剣を納め、私に視線を向ける。
「無事か?」
「余裕」
即答すると、ウェインはため息をついた。
「お前、本当に聖女なのか?」
「いや、それはもう……どうでもよくない?」
「ああ、まあ、そうだな」
呆れたように頭をかくウェインの目には、どこか安堵の色が浮かんでいた。
先ほどの殺気立った空気はすっかり消え、静寂が廊下に広がる。いつの間にか襲撃者たちは姿を消していた。
「よく無事だったな」
「まあね。剣の師匠にも「避けるのは得意だな」って言われてたし」
「さすがだな」
ウェインは小さく笑った。
いかつい見た目に反して、意外にもよく笑う人だ。苦笑だったりすることが多い――いや、ほとんど苦笑だけど。それでも、笑ってくれるのは嬉しい。
「お前……本当にすごいな」
「え?」
不意に、ウェインが私の頭に手を乗せた。
「こんな状況で無事なのも、その腕前も度胸も、大したものだ」
低く落ち着いた声が、私を賞賛する。こんな手放しで褒められるなんて。
えっ、ちょっと待って、これ……なんか、すごくドキドキするんですけど!?
思わず固まる。
「もっと鍛えてやるからな」
あ、はい、そっちね。分かってた。分かってたよ。
――でも、心臓の音がうるさい。
冷静になれ、私。これはただの労い。別に特別な意味は……。