探偵事務所の蛇娘
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胸のあたりが落ち着かないのは、この臭いのせいか。それとも、最悪な未来を想像してしまうからか。
私は深く息を吸いこんでから、意を決して目の前の扉を開けた。
「白雪ちゃん! よかった! 無事だったんだねえ」
そこにはベッドに横になるイヴァンとそのすぐ横の椅子にちょこんと座る雲居がいた。
「それはこっちのセリフ。二人とも生きててよかった……」
「ああ、うちはちょっと煙を吸っただけ。イヴァンはご覧の通り右腕に火傷を負っちまったけど。動かす分には問題ないんだって。まったく心配させやがって、この!」
雲居が短い腕でイヴァンを小突いた。イヴァンは照れ臭そうに笑ってる。
朱芳のもとに身を寄せてしばらく、彼が二人の入院してる診療所を調べて教えてくれた。二人の詳しい容態まではわからず、ここに来るまで気を揉んでいたが、さいわい杞憂だったらしい。
「あの時見たモンは何だったんだろうね。うちはまだよくわかんないよ。警察は、座長とその愛人が痴話喧嘩した挙句、座長が愛人に火をつけて、てめえも焼身自殺だとかなんとか……」
雲居は首をひねっていた。新聞でも似たような報道だ。火災については、下宿の建物は燃えてしまったが、延焼する前に消防団が駆けつけて、最悪の事態は免れていた。
現場検証すればわかることだろうが、不自然なことだらけの事件だ。しかし、それはただのよくある三文記事程度の事件として処理された。朱芳曰く、こういう事件にはお役所でも専門の対応部署があるのだとか。
「ま、一座の要が二人ともいなくなったんじゃ、マミヰ座は解散だね。でも、あんたは新しい雇い先が見つかったんだろ?」
「うん……」
「そんな申し訳なさそうな顔しなさんな。実はうちとイヴァンは、外国に行って一旗揚げようかなんて話しててさ」
「外国?」
「イヴァンのおかげで船に乗るツテが見つかりそうなんだ。蜘蛛女と巨人、言葉なんて通じなくても見てわかるでしょ? 大ウケ間違いなしだ」
雲居は屈託なく笑った。ほとほと彼女の強さには感心させられる。きっと海の向こうだろうと、彼女ならやっていけそうだ。
「他の奴らも無事だし、みんな自分なりの生き方ってのを心得てる。正直、うちの心配は白雪ちゃんぐらいだ。だから、今日の様子次第じゃ、強引にでも、うちと一緒に海外巡業コースかなと思ってたんだけど……」
「けど?」
「その必要はなさそうだ。今のあんたはちゃんと自分の足で歩いているみたいだから」
「……うん」
私は見舞いの品を置くと、二人にお別れの挨拶をして病室をあとにした。
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事務所に戻るなり、朱芳が呆れたような顔をした。
「まさか、その顔でここまで歩いてきたのか? 今生の別れじゃあるまいし……」
「デリカシーって言葉知ってます?」
「ともかく、そろそろ依頼人の来る時間だ。顔を洗って、茶の用意をしといてくれ」
「はいはい」
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しばらくして来訪者を告げるノック音が聞こえた。私は駆け寄って、ドアを開けた。
「はい、こちら巽探偵事務所でございます。所長の巽はすでに中で待っております。私は助手の白雪。どうぞ、お見知りおきを」
【了】