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夜明け

***


「僕の白雪に触れるなあァアア!!」


 美作のおぞましい絶叫でハッと我に返る。

 黄色の目が燃えている。

 記憶の逍遥は、実際には一瞬のことだったのだろうか。人面の怪鳥は今まさに鋭い鉤爪で巽に飛び掛かろうとしていた。


()ね」


 言葉が、自然と私の口をついて出てきた。

 美作の体が後ろに吹っ飛んだ。

 水だ。橋下を流れる川の水が大蛇の尾のように形を成し、怪鳥を薙ぎ払ったのだ。


 吹っ飛ばされた怪鳥はふらつきながらも翼を羽ばたかせて飛翔した。そして、頭上からこちらに向かって火の玉を吐く。しかし、再び水の尾が一蹴しただけで、火はじゅっと音を立てて消えた。水流の蛇は、もはや私の体の一部のように、意のままだった。


「この男こそ私を殺す(つるぎ)。私の()()()。私を殺すまで、この男は殺させない……!」


 私は想像する。大蛇の(あぎと)が小鳥を嚙み殺すさまを。

 そしてその通り、川の水は怒涛の勢いで天高く吹き上がり、大口を開けるように二股に分かれて、炎の翼を持つ人面鳥に噛みついた。

 まず左の脚を食い破り、続けて右脚、そして燃える右の翼、左の翼――巨大な水蛇は人面鳥の首元に噛みついたまま、橋めがけて急降下した。


 鉄橋全体が揺れるほどの衝撃とともに、瀑布の如き盛大な水しぶきが上がる。

 橋の上をあふれる水の勢いだけで体が持っていかれそうになり、私は巽が手にしていた仕込み刀を支えに水の流れに耐えた。

 そうして、橋の上には大量の水と、四肢をもがれ動かなくなった美作が残った。

 私は巽の体をそっと横たえ、美作に近づいた。


「……ああ、やっと戻ってきてくれた。酷いじゃないか、僕を置いていってしまうなんて。ずっと探してたんだ」


 黄色く燃えていた右目も今はただの暗黒の穴に戻っている。あやめの顔に見えていた火傷も今は肩ごと食い破られ、見る影もない。


「ねえ、これからはずっと僕だけを見ていてよ。僕のかあさま、僕だけの沙雪(さゆき)かあさま」


 濁りのないその左目に、私の姿は映っていない。

 代用品としての愛――ああ、たしかにこれは不愉快だ。

 今になってあやめの気持ちが少しわかる気がした。こんなものに私たちは縛られ、そして縋っていたのか。

 怒りとも悲しみともつかないものに突き動かされるまま、私は右手に携えていた仕込み刀を振り上げた。

 しかし、その手を降り下ろすことはできなかった。


「どうして……」


 私の手を巽が後ろから掴んでいた。


「一度で祓いきれんほどの妄執か……俺としたことが無様を晒した」


 彼の胸元は真っ赤に染まっているが、ぽっかり空いていたはずの穴は今やすっかり塞がっていた。

 私の視線に気づいてか巽が言う。


「お前が死なない限り、俺は死なん。神との約束というのはそういうもの。もはや一種の呪いだ」


 巽が私の手から刀を奪い、そして代わりに降り下ろした。

 心臓を一突き。

 美作は「うっ」と小さく呻き声を上げ、口の端から血を流して息絶えた。


「麻ノ宮子爵家の次男、麻ノ宮錬次郎。生まれつき目に障害があったことで家族からは冷遇されて育ち、二十歳の時、本来招集のかかっていた兄に代わり出征。陸軍に所属して死線をくぐり、半身に火傷を負う。帰国後は実家に帰るも、母親の沙雪に拒絶されたことで逆上。家に火を放ち、家族全員を焼死させたあとで、行方をくらます。あとのことは……お前の方が詳しいだろう」


 美作の亡骸を見下ろしながら、巽はその略歴を淡々と述べた。おおよそは美作自身から聞かされていた通りだが、戦争後に家族を――母親を殺していたというのは初耳だった。


「どうしてそれを?」


「探偵だからな。複雑怪奇な事件の裏に潜む魔を見つけて祓う……そういう仕事だ。自分が祓う対象のことは一通り調べるさ」


 そう言うと巽はしゃがみこんで、美作の右の眼窩に手を突っ込んだ。

 気色悪さと不謹慎さに言葉を失う私をよそに、彼は美作の中からきらりと光る白い鱗のようなものを取り出した。


「思うに、これがこの男を狂わした」


「この鱗が……?」


 巽は鱗を鼻に当てて言った。


「魔性のにおいだ。元々、美作という男には化人の素養があった。自分の境遇への絶望という虚無を抱え、戦争で数多の死に接して、その無念を取り込み、さらに家族を手にかけ、彼らの怨念も取り込んでいる。そこに、決定的な呪物を与えることで、この男は化人に変じた」


「呪物を与えるって……誰かが美作を化け物にしたと?」


「たぶんな。俺がこの鱗を見るのは初めてじゃない。先日の、教会堂縊死事件や警察官電殺事件の犯人も、体内からこの鱗が見つかっている。そしてこの鱗は、お前のものだろう、白雪」


 桜の花びらより少し大きな鱗はたしかに、私の肌にある鱗に似ている気もした。けれど、私は知らない。事件のことも、私の鱗にそんな奇妙な力があることも。


「正確に言えば、()()()のお前の鱗だ。今のお前からはまるでにおいがしない」


 もしかして――と思い、私は巽が摘まんでいる鱗に鼻を近づける。頭痛を誘う、あの甘ったるい、嫌な臭いだ。私は露骨に顔をしかめた。


「俺が殺し続けた甲斐あってか、お前はとうとう魔性から解放されたらしい。けれど、何者かがかつてのお前の残骸を使って、よからぬ企みに使っている。そんなところか」


「はあ」


「なんだその気の抜けた返事は。記憶は戻ったのだろう」


「たしかに、私とあなたの間に何があったかは見えました。でも、全てじゃありませんし、やっぱり実感がわかないというか、どうにも他人事(ひとごと)という感じで……」


 巽が殺されたと思った時は、まるで自分があの蛇神になったように激しく心揺さぶられ、当たり前のように人外の力を操ったが、今ではすべてが夢のよう。

 私はやはりただの見世物小屋の蛇女で、いにしえの蛇神とは別人のように思えた。


「他人事……」


 巽は肩を落とした。そのさまは頭からずぶ濡れなのも相まって、どこか雨に打たれた野良犬を彷彿とさせた。


 私は、ふと気になって後ろを振り返った。下町の空はいつの間にか穏やかな藍色に戻っている。かすかに白い煙も立っているが、火の手はどこにも見当たらなかった。


「これからどうしよう……」


 ホッとしたと同時に、そんな不安が思わず口をついて出た。

 美作は私に最低限の衣食住を保証してくれていた。しかし、今後はそのいずれも失うことになるだろう。美作やあやめなしで、一座を維持できるとは思い難い。

 明日からは、それこそ裸踊りで日銭を稼ぐしかないだろうか。


 あの蛇神を私だと思えない理由がここにある。

 私は「地べたを這ってでも、やっぱり生きていたい」のだ。

 蛇神の方は、目の前の男に殺されたがっていた気がするが、私はそんなのまっぴらだった。


「俺のところに来ればいい」


「え?」


 思わず、巽のほうを振り向く。


「助手一人雇うぐらいの余裕はある。というか、お前には俺の近くにいてもらわねば困る」


「どういうことです?」


「俺はお前を殺す者だ。だから、お前が死なない限り、俺も死なない。だが逆に言えば、お前が死ねば、俺も死ぬ。つまり、お前に勝手に野垂れ死にされると、俺が非常に困る。少なくともこの鱗の件が片付くまで、俺は死ぬ気などない」


「それはまた難儀ですね」


「まったくだ。それで、お前の返事は?」


 私はほんの少しだけ迷った。探偵助手の自分というのがまるで想像できなかったからだ。


 でも、目の前の青年の手を取るのは悪くない選択のような気がした。


 この男となら私は生きていける――いつかの予感とは正反対の予感だ。根拠のない、ただの破れかぶれといえばそうなのだけど。

 それでも、私は答えた。


「喜んで、巽さん」


 さも当然というように巽はふっと鼻を鳴らした。


「いい返事だ。ただ俺のことは巽じゃなくて朱芳と呼べ。生まれ変わるたびに苗字なんざコロコロ変わる。他の奴ならともかく、お前にそっちで呼ばれるのは奇妙な感じだ」


 私はうなずいた。私自身、巽より朱芳のほうがしっくりくる。ただ、疑問も生まれる。


「たしかに苗字は選べないものですが……それは名前も同じでは? 前世の記憶があるとはいえ、子供の名前は親が決めるもの。まさか生まれたときから『自分の名前はスオウだ』とでも主張しているわけじゃあるまいし……」


「主張しているが、何か問題でも?」


「……冗談ですよね?」


「本当だ。泣くより先に名乗りができる子は、たいがい神童として大切にされる。それに、千年近く断続的に生まれ変わっていると、目を覚ますたびに、全てが目まぐるしく変わってしまう。その中で移ろわぬものは貴重だ。できる限り、この名前は変えたくない」


「妙なこだわりですね」


「お前も同じだろう。何度出会ってもお前は『白雪』だ。記憶喪失のお前がなぜ、その名前を名乗っている?」


 私は六歳で美作に出会うまで名前がなかった。それで美作に名前を聞かれた時、なんとなく思いついた名前を口にしたのだ。『白雪』と。

 その名を聞いた時、美作の目が不思議に輝いたのを私は覚えている。

 今思えば、美作は母に似た名前の少女に何か縁を感じたのだろうか。


「私の鱗、雪みたいに真っ白ですから。安直な思いつきですよ」


「安直で悪かったな」


 なぜ朱芳が不機嫌そうにするのか最初私にはわからなかった。

 しかし、ふと思い出した。大昔、私には名前などなかった。神はただの神。自然現象と同じで、固有の名前など特に持たないのが普通だ。でも、それでは呼びにくいと勝手に名前を付けた子供がいたのだ。


「帰るぞ、白雪」


「はい。ご自宅はどちらに?」


猟國(りょうごく)だ」


 朱芳が歩き出した。私はその背中を追おうとして、足を止めた。

 そして羽織っていた血まみれの黒い銘仙を脱いで、美作の体にそっとかけた。


「さようなら」


 私は歩き出した。

 橋の向こうは少しずつ空が白んでいた。

 明烏(あけがらす)が鳴くのを聞いた。

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