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魔性変生

***


「どうしたのよ? そんな汗だくで」


「う、ううん、何でもない」


 下宿に帰ると、雲居が怪訝な顔で私を見た。探偵を名乗る男に刃物で斬り殺されそうになったのだと正直に言うべきだろうか。私は迷った。けれど、結局私は口を噤んだ。

 誰かに話してしまえば、さっきの出来事が現実だったと確定してしまう気がした。このまま私の中だけに秘めて、そのまま忘れてしまえば、全てはなかったことになる。なぜだかそんな風に思えたのだ。


 夢の男――巽朱芳。


 私は彼をずっと待っていたはず。でも、やはりあれは会ってはいけなかった。あれは、私の破滅であり、終止符そのものだ。

 掌の中でくしゃくしゃになった名刺を私はさりげなく着物の袂にしまった。


「お土産は?」


 雲居に言われて私はクッキー缶を差し出す。雲居の隣にいるイヴァンが彼女に代わって缶の蓋を開ける。中身は数枚割れていただけで、綺麗なものだった。


「そっちのお土産は?」


「座長があつらえてくれたの」


 私はそう言って畳紙に包まれた着物を雲居に見せた。


「おお、いいじゃん。ハイカラってやつだ。座長、ああ見えて目利きは良いんだよなあ。うちもそろそろ新しいおべべの一つでもねだろっかな」


 ルビーみたいなドレンチェリーの載った絞りクッキーを頬張りながら雲居が言った。その隣で、イヴァンもニコニコ笑顔でザラメのまぶされたクッキーを大切そうに齧っている。


 ああ、さっきまでの出来事が嘘みたいだ。全部、嘘。このままごとみたいな平和な時間だけが私の本当。多少の理不尽があろうと、衣食住があり、ときどき甘いお菓子と綺麗な着物も買ってもらえる――これ以上を望むのは欲深というものだ。


「うちらだけで食べちゃったら、あとで何言われるかわかんないし、みんなを呼んでこようか」


「じゃあ、私が……」


 そう言った矢先、勝手口に通じる戸が開き、あやめが姿を見せた。


「ああ、あやめ姉さん、ちょうどお呼びしようと思ってたんです。お土産にお菓子買ってきましたよ」


 あやめはクッキー缶の方をちらりと見て、そして今度は私の手元の着物に目を向けた。


「もしかして美作の贈り物かい?」


「ええ」


 私がうなずくなり、あやめは私の手から着物をはたき落とした。


「え?」


「いいご身分だね。近頃、あの人はすっかりあんたに首ったけだ。もしかして、あの人に股でも開いたのかい?」


「そんなわけ……」


 反論する前に、あやめが私の肩を小突いて突き飛ばした。美作ほどではないが、()の力に敵うわけなく、私はよろめき畳に手をついた。


「なんだいその目は。蛇睨みってか? 気色の悪い異形の娘が。ちょっと若いってだけでチヤホヤされやがって!」


 あやめが私のカツラを乱暴に引っ張り、そのまま引きずり倒す。カツラは外れ、赤いリボンがほどけた。さらに追い打ちをかけるように、あやめは私の背中や肩を容赦なく蹴った。

 私はこらえるように体を丸めてうずくまったが、鈍い痛みと衝撃は一向に止まなかった。

 きっと、この暴力の源泉は怒りなのだろう。しかし、わからない。何がそこまであやめを掻き立てるのか。


 あやめは男だが、元々別の芝居一座の女形で、それが美作と合流し、今は内縁の妻のようなもの。深い関係にあることもそれとなく察せられた。そして、美作から私の比じゃないほどの着物や宝石を買い与えられている。私が着ているものは大概、あやめのおさがりで、丈を詰めなくては引きずるものばかり。美作にとっての優先順位は明確のはずだ。


「アンタが来てから、アタシはアンタの代わりに落ちたんだ! アンタに手を出せないから、代わりがアタシなんだ! この屈辱がわかるか!?」


 あやめの足先が、ひと際鋭く私の鳩尾をえぐった。私はとうとう堪えきれず、こみ上げてきたものを畳にぶちまけてしまう。


「それに、アンタだけだよ、この一座で体を売らされていないやつは!」


「もうやめて! あねさん! イヴァン止めて!」


 あやめと雲居の言い争う声が、どこか遠くに聞こえる。


「そのガキがアタシに逆らえるわけないだろう? アタシに傷をつけてごらん。また火箸でケツをぶっ刺してやる。仇の露スケを置いてやってる恩を忘れたとは言わせないよ!」


 さめざめと泣いている雲居のことも枕のように軽く蹴とばし、あやめは畳に広がっていた銘仙の着物に手を伸ばした。


「蛇女にゃ勿体ない代物だ」


 そう吐き捨てて、あやめは黒い着物に袖を通す。


「やっぱアンタの丈じゃアタシにはちょいとつんつるてんだね。後で裾直ししようか。いや、新しいものをこさえるように頼めばいいだけか。あたしは罌粟の花がいいね。あやめ草はよしとくれ。もう何枚もあるんだから。あはははは」


 紅をさした唇を大きく開き、けたたましい笑い声をあげながら、あやめは室内をくるりくるりと舞った。黒い裾を翻し、踊り狂う彼は美しかった。

 私たちは所詮見世物。花の盛りを過ぎれば、捨て去られるだけ。でも黙って萎びるぐらいなら、むしろすすんで魔性に堕ちてやろうとするあやめの心意気は、禍々しくも清々しくすらあった。


 しかし、あやめの足が急に止まった。美作が帰ってきたのだ。そして、あやめが何かを言う前に、美作がその頭を鷲掴みにした。


 それから、私が見たものはおよそこの世の光景とは思えないものだった。


 まず、あやめの頭を掴む美作の手が燃えだした。あやめは悲鳴を上げ身悶えるが、美作は決して手を離さない。脂の焼ける嫌な臭いがしたかと思うと、まるであやめの内側から火が熾ったかのように、彼女の眼窩からや口から火がこぼれ始め、瞬く間に顔中が炎に包まれた。


 やがて美作が手を離すと、首から上だけが黒焦げの、人間だった何かが力なく畳にくずおれた。

 黒焦げの頭からは煙が立ち昇っているが、不思議なことに炎はどこにも残っていなかった。美作の右手も、包帯にくるまれたままだ。


 もしかして、これは壮大な奇術で、あやめと美作は共謀して私たちを驚かせているんじゃないだろうか。さっきまで火を噴いていた黒い眼窩と視線を交わしながら、私はぼんやりとそんな風に考えた。雲居もイヴァンも、部屋の隅で私と同じように呆然とするばかりだった。

 美作はあやめの着ていた黒い着物を脱がすと、私に近づいてきた。


「ああ、可哀そうに」


 そう言ってハンカチで汚れた私の口もとを拭うと、着物を私の肩にかけた。


「もう大丈夫だ。もう誰にも触らせない、傷つけさせない。僕の、僕だけの白雪」


 着物越しに美作が私の肩を抱く。そして頬ずりする。その体温は、ぞっとするほど熱い。そして、その体からは悪酔いを誘うような嫌な臭いがはっきりと感じられた。

 ふと、腐乱しきった水蜜桃が頭に思い浮かんだ。ジュクジュクに崩れた果肉に蟻が集っているような、あれの臭いだ。


「あ、悪魔……怪物!」


 雲居が発作のように叫んだ。私は、直感的に『いけない』と思った。美作は雲居の方を振り向いて、ゆっくりと彼女の方に近づいて行った。その手は再び燃えている。


「僕は、怪物じゃない!」


 美作が雲居を掴む前に、イヴァンが美作の前に立ちはだかり、その手を阻んだ。イヴァンの方が図体は大きいし、遥かに怪力だ。しかし、美作は今、イヴァンととっくみ合って一歩も引けを取らない。それどころか、イヴァンの腕が燃え始め、美作の手からも火がぼたぼたとこぼれる。そして畳を焦がしていく。


「逃げて! 白雪!」


 なんとか体を起こした雲居が私に向かって叫んだ。


「雲居は!?」


「うちはいい! あんただけでも!」


「でも!」


「さっさと行け! みんなお陀仏なんてごめんだよ!」


 その言葉に私は弾かれたように駆け出した。すでに室内には煙が充満していた。手探りで戸口を見つけて、外に出る。靴を引っかけている余裕なんてない。


(来て!)


 軒下にいるだろう不知火と陽炎に念じる。闇の中で地を這う気配が二匹。素早く私の脚に絡みつき、巻き付いた。


「白雪……!」


 煙の向こうから私を呼ぶ低く唸るような声。私は日暮れの街を駆けだした。

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