探偵参上
***
二日連続で最悪な寝覚めだった。はたかれた頬も縛り上げられた腕も、鈍く痛い。しかし、いつの間にか縄の戒めは解かれていた。
「白雪ちゃん、お腹すいたでしょ。おあがんな」
大男のイヴァンに抱きかかえられながら、雲居がやって来た。イヴァンのもう片方の手には湯漬けの茶碗があった。
「それ食べたらお着換えだよ。座長さんが呼んでる」
「どこに連れてかれるの?」
「さあ? でもあの様子じゃ、昨日のこと相当反省してるみたい。ありゃ、仲直りに甘いモンでもご馳走する気だね。今日は公演もないし、ゆっくり羽根伸ばしちゃいなって」
「ご機嫌取りするぐらいなら、最初から殴らないでほしいんだけど」
「そんな真っ当な人なら、端からこんな没義道商売はやらないでしょ。まあ、うちらにもお土産だけは忘れないでね」
雲居はウインクしてみせた。私だけが文字通り甘い思いをするのは気が引けるのだが、雲居もイヴァンも、日の高いうちはあまり外に出たがらない。
この一座の面々は私も含めて、市井を練り歩くには少し目立ち過ぎた。
それでも私は着るものと被るものでどうとでもなる。私は袴着の下に立て襟のシャツを着て、肌を隠し、白髪もカツラの中に収めた。長い黒髪を赤いリボンでまとめると、そこそこ女学生のような風情にはなる。夏にしては少々厚着ではあるが。
古ぼけた手鏡で見た限り、昨晩殴られたところは痣にはなっていなかった。
私が下宿を出ると、いつからそこにいたのか戸口に美作が影のように佇んでいた。
***
美作に連れられてきたのは、弐本橋の呉服屋で、そこでは店員が美作を見るなり、奥から着物を取り出してきた。
「お仕立て済みです。いかがでしょう」
店員の手にあったのは、黒地に赤い花の散らされた今流行りの銘仙の着物だった。
「どうだ?」
美作が私に訊く。私は戸惑いながらも答えた。
「……とっても可愛いです」
それは偽らざる感想だった。赤い花は菊に似て多弁で、見るからに豪奢だが、花の形が毬のように丸みを帯びていて、菊ほど抹香臭くない。黒地というのも洒脱で粋だ。
「良かった」
美作の包帯に覆われていない左の目元にしわが寄る。
「お前のように目立つ顔立ちだと、ダリアぐらい派手な方が引き立つ」
「ええ、ええ。お嬢様にぴったりでございます。念のため、上から合わさせていただきますね」
店員が私に着物を羽織らせる。服の上からではあるが、袖や裾の丈はぴったりだった。
店員は手際よく着物を畳紙に包んで私に手渡した。もう代金は支払い済みらしく、そのまま店を出た。そして、その足で吟坐のパーラーに向かった。
***
「ご注文は?」
「アイスコーヒーと紅茶とプリンで」
「かしこまりました」
美作は堂々としていた。店内でも脱帽しないミイラ男に奇特な目を向ける人も少なくないが、あまりに堂々としているので、次第に誰も気にしなくなる。先ほどの呉服屋での態度といい、美作はこういった場所での振る舞いに心得があった。
一座のみんなの間では美作が良家の出ではないかという噂がまことしやかに流れていて、私はそれがたぶん本当だということも知っている。ある時、美作本人から聞いたのだ。
あれも夏の日だったか、いつかとは逆に美作がうなされているのを見かけて、私は恐る恐る声をかけた。すると美作は何を間違えたのか、私を見上げて「かあさま」と口にした。私が怪訝な顔をしていると、「ああ、そうか」と呟いて、訊いてもいないのにぽつぽつ身の上話をしてきた。
自分の実家が裕福であること、しかし、生まれつき右目がなくて、母親に気味悪がられ、離れで婆やと暮らしていたこと。兄の代わりに戦争に出て、そこで半身が焼ける大怪我をしたこと。親にその姿を見せることが憚られ、帰国後そのまま出奔したこと。それが十五年前という話だ。
そこから何の因果か美作は見世物興行を初めて、各地を巡業していた。
そして十年前、ある地方の田舎寺で育てられていた蛇娘の存在を聞きつけ、買い取った。それが私だ。
赤子の私は寺に捨てられていたらしい。生まれたばかりなのに白髪で、皮膚の一部に鱗があって、おまけに蛇たち――『伊吹』と『不知火』――に囲まれていた赤子を、見つけた村人たちは気味悪がり、殺すことすら忌避して、死なない程度に世話していたのだという。
「美味しいか?」
「……はい」
色とりどりのフルーツとクリームの載ったプリンは間違いなく美味しい。しかし、美作の前だと、柔らかいプリンも妙に喉に引っかかる感じだ。
美作の手がやおら私の顔に伸びてくる。私は反射的に肩をびくりと震わせる。
「慌てなくても誰も取りやしない」
美作は私の唇を指で拭った。そしてその指先をハンカチで拭った。
今こうして向かい合う私たちは、周囲からどう見えているのか。
(たとえば……お国のために立派に戦った傷痍軍人とその娘さん?)
私たちの間にあるのは疑似的な親子愛か、それとも、もっと歪んだ何かか。私は空いた椅子の上に置いてある買ったばかりの着物に視線を落とした。
私の着物は今日着ているのも含めてあやめのおさがりばかりで、どれもブカブカだ。けれど、この新しい着物は寸分違わずピッタリだった。
私は最後に残しておいたシロップ漬けのサクランボを口に含み、種を紙ナプキンに出した。
***
帰りの電車は私ひとりだった。美作とは吟坐で別れた。今日も今日とて例の医者の所に赴くらしい。
医者帰りの美作からは決まって妙な臭いがする。甘ったるくて、それでいて鼻や目をツンとさすような苦い刺激臭も含まれている。アルコールか、何かの薬品だろうか。あまり近づかれると悪酔いしそうになる。
だから嫌なのだが、美作の体調のことでもあるので、行くなとも言えない。
私は着物やらパーラーで買ったクッキー缶やらを両手に抱えて、駅を降りた。下宿までは少し歩く。
朝草も寺や六区のあたりは人でごった返すが、鞍前方面に南下すると幾分落ち着く。小さな路地に入ると、時間によってはまるで人がいない。
背の低いボロ屋が黒々と影をなす路地裏。私には見慣れた景色だった。しかし、狭い道の真ん中に、思いがけないシルエットを見かけて私は足を止めた。
炎天下の濃縮されたような影の中で、杖を携えている背の高い何者か。その横顔は定かではない。ただの住民かもしれないし、すれ違いかもしれない。
しかし、私はどうしてだか彼が何者かすぐにピンときた。
男がこちらを向く。間違いない。昨日も見た。そしてずっと夢に見てきた、あの男だ。
御影石のように冷たくも神秘的な光をはらんだ双眸が私を射抜く。夜行性の獣が獲物を見つけたときのように瞳孔が開いたように見えた。
「見つけたぞ、白雪。ここで会ったが百年目。いや、千年目だな」
芝居がかった台詞を、男はひどく真面目な調子で言った。
私は興奮で声が上ずりそうになるのを抑えながら、かねてからの疑問を口にした。
「あなたは、どちら様?」
「それは今生での名という意味か? なら、よく聞け。俺はタツミスオウ、歳は二十五。タツミ探偵事務所の所長だ」
「……探偵? 所長?」
全く想像していなかった答えに、私は混乱した。私は探偵につけ狙われるようなことをしただろうか? それとも、調べられているのは美作の方か?
とっ散らかった頭の中で必死に心当たりを探す私に、男は近づき、そしてベストのポケットから名刺を取り出し私に差し出した。
『巽 朱芳』――珍しい字面だ。なんとなく、巽の方が名前っぽい響きでもある。
「探偵といっても、犬猫探しや不倫の証拠を抑えるようなのは、専門外だ。あと普通の殺人事件も。俺の専門は、魔性が絡む事件だ。たとえば、最近巷を騒がせている連続女性放火事件とかな。つまり、名前は変われど、俺の生業は昔から何も変わっていない。お前もよく知っての通りだ」
巽は長身だが、美作に比べれば細身だった。だが狼か山犬か、獲物に狙いを定める獣のように研ぎ澄まされた気迫は、彼が滔々と語る謎めいた話と相まって、美作とは別種の威圧感を私に与えた。
「おっしゃる意味がわかりませんが……」
「今の俺は何者かと、お前が訊いたから答えただけだ。今日は探偵の巽として来たわけじゃない。朱芳として、約束を果たしに来た。つまり、俺はお前を殺しに来た。お前の魔性が帝都を呑み込む前に、俺がお前を呑み込まねばならん」
そう言いながら、巽はごく自然な所作で、手にしているステッキをくるりと一回転させて、その先端を私に向けた。それは仕込み刀だった。目にもとまらぬ速さで鞘は抜かれ、鋭い切っ先が私の首元に突き付けられる。
予感は的中した。夢の中で私を殺し続けた青年が、うつつに現れたのであれば、それは正真正銘の死神としてであろう、と。
しかし、予感が当たったからといって、受け入れられるかは全く別の話だ。私の体は私の意志を無視して震えはじめる。腕の中のクッキー缶がせわしない音を立てている。
「……まさかお前、本当に覚えてないのか? 俺のことも、約束のことも、まさか自分自身のことも?」
決意にみなぎっていた巽の目の光が揺らいだ。太い眉は右側だけ持ちあがり、眉間には深い皺が刻まれている。
「私、自身?」
「そういう演技か? いや、でももし本当なら俺は何も知らない少女を殺すことになる。流石にそれは……だとして、このままじゃ帝都は大惨事だぞ」
巽は何かぶつくさ言いながら杖をおろした。その刃が完全に下を向いたのを見るや、私は踵を返して全力で走った。
「おい、白雪!」
巽が後ろから叫ぶ。いつ背中から斬りつけられるか、私は大通りに出るまで生きた心地がしなかった。しかし、結局私は無傷で表通りに辿り着いた。
振り返っても男の姿はなかったが、それから交番の前まで何度も後ろを振り返り、多少遠回りでも確実に人通りのある大きな通りを選んで、私はなんとか下宿に帰った。