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輪廻の恋人  作者: 56号
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第九話 言葉なき約束

それは、風の強い朝だった。

阪急神戸線のダイヤが乱れ、三宮駅はざわめきの渦に包まれていた。

車両遅延のアナウンスに重なるように、構内テレビから「天皇陛下 容態急変」の速報が流れ、周囲の空気がわずかに張り詰めた。


佳奈はその朝も、病院へ向かう途中だった。

前夜の当直を終え、数時間の仮眠を経て、再び出勤の準備をしていた。


まるで時間が前に進まないような朝だった。

街は通常営業のふりをしながら、どこか呼吸が浅い。


彼女は例のカフェ、『Rue de la Lune』の前まで来ていた。

ラテを買って行こうかどうか、ほんの一瞬迷って、ドアに手をかける。


店内には、いなかった。

三上佑樹の姿は、もうそこにはなかった。



「佑樹、今日来てないのかしら」


店主が小さく呟くのを聞いて、佳奈は心臓がわずかに沈むのを感じた。


「佑樹さんって……あの、倉庫で働いてる?」


「うん、港の。ここに来ると、よく本読んでてね。静かな子だけど、たまに手紙を残してくれるのよ。言葉がすごく丁寧で」


「……そうですか」


佳奈は笑って答えたが、胸の奥で何かが静かに泡立っていた。


会えないかもしれない。

もう、あの眼差しに出会えないかもしれない。


それなのに、なぜか“終わっていない”という感覚だけが、彼女の中に確かにあった。


――また会える。

それだけが、なぜか強く信じられる。


その夜、佳奈は夢を見た。


港。満開の桜。

古い木造の茶店の奥で、誰かが自分を待っている。


「……佳奈」


その声が聞こえたとき、彼女は目を覚ました。


窓の外には、まだ春の兆しも見えぬ冷たい月がかかっていた。



数日後。


天皇崩御の報せが、正式に全国に伝えられた。

昭和は、終わりを告げようとしていた。


病院には報道陣が詰めかけ、対応に追われる合間を縫って、佳奈はある紙袋を見つけた。

院内休憩所のテーブルの上、まるで自分宛かのようにぽつんと置かれた茶色の紙包み。

中には、ミルクジャムの入った小さなマフィンと、一枚の白い紙が入っていた。


──


《また朝の風景が見たくなったら、この場所で》


地図が添えられていた。

それは、港湾地区の外れ、荷下ろし場の一角にある小さな桟橋だった。



日曜日の朝。

佳奈は迷いながらも、その場所へ向かった。


港の風は冷たかった。

桟橋のそばには古びたベンチがひとつ。

そしてその端に、コーヒーカップを手にした彼がいた。


三上佑樹。


風に髪を揺らしながら、こちらを見て、ようやく笑った。


「……おはようございます」


「……おはようございます」


それが、ふたりの初めての会話だった。


何を話せばいいかわからない。

けれど、話さなければならないとも思わなかった。


「ここ、佳奈さんが好きそうな風景だと思って」


「なんで、私の名前……」


「あなたが、ラテにマフィンを頼む時、店員が名前で呼んでた。……僕の方は、三上佑樹。もう知ってるかもしれないけど」


佳奈はふっと笑った。


「……やっと、お互い名乗れたね」


佑樹は、頷いた。

そして、懐から小さな紙片を取り出して手渡した。


それは、一枚の白黒写真だった。


遠い昔の古びた桜の木の下、微笑む少女と、影のように佇む若い侍。

二人は並んで写ってはいない。

けれど、目線の先には互いがいた。


「……これ、どこで?」


「親父の遺品の中にあったんだ。写ってる人のことはわからない。でも、なんとなく……知ってる気がして」


佳奈は写真を見つめ、しばらく黙っていた。


「私も……最近、夢を見るの。古い桜の木の下で、誰かを待ってる夢。顔ははっきり見えない。でも、ずっと……待ってるの」


佑樹は、静かに頷いた。


「俺も……ずっと探してた気がする。何をかは、分からなかったけど」


桟橋の上、風が海面を滑っていく。

冷たい冬の風なのに、不思議と心は穏やかだった。


「ねえ、佑樹さん」


「うん?」


「もし、私たちが……ずっと前にも、どこかで会ってたとしたら」


「……そうだとしたら?」


「またこうして会えたの、奇跡じゃない?」


佑樹は笑った。


「うん、きっと。これは奇跡だと思う」


佳奈も、微笑んだ。


それ以上、何も語らなかった。

けれど、二人のあいだにはもう、永遠に忘れられない約束が生まれていた。


言葉ではなく、記憶でもなく。

ただ、再び交わった魂が、そこにあった。


そして、春の訪れとともに――

湯島の桜も、また花を咲かせるだろう。


その木の下で、彼らが再び“始める”日を、静かに待ちながら。

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