第九話 言葉なき約束
それは、風の強い朝だった。
阪急神戸線のダイヤが乱れ、三宮駅はざわめきの渦に包まれていた。
車両遅延のアナウンスに重なるように、構内テレビから「天皇陛下 容態急変」の速報が流れ、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
佳奈はその朝も、病院へ向かう途中だった。
前夜の当直を終え、数時間の仮眠を経て、再び出勤の準備をしていた。
まるで時間が前に進まないような朝だった。
街は通常営業のふりをしながら、どこか呼吸が浅い。
彼女は例のカフェ、『Rue de la Lune』の前まで来ていた。
ラテを買って行こうかどうか、ほんの一瞬迷って、ドアに手をかける。
店内には、いなかった。
三上佑樹の姿は、もうそこにはなかった。
*
「佑樹、今日来てないのかしら」
店主が小さく呟くのを聞いて、佳奈は心臓がわずかに沈むのを感じた。
「佑樹さんって……あの、倉庫で働いてる?」
「うん、港の。ここに来ると、よく本読んでてね。静かな子だけど、たまに手紙を残してくれるのよ。言葉がすごく丁寧で」
「……そうですか」
佳奈は笑って答えたが、胸の奥で何かが静かに泡立っていた。
会えないかもしれない。
もう、あの眼差しに出会えないかもしれない。
それなのに、なぜか“終わっていない”という感覚だけが、彼女の中に確かにあった。
――また会える。
それだけが、なぜか強く信じられる。
その夜、佳奈は夢を見た。
港。満開の桜。
古い木造の茶店の奥で、誰かが自分を待っている。
「……佳奈」
その声が聞こえたとき、彼女は目を覚ました。
窓の外には、まだ春の兆しも見えぬ冷たい月がかかっていた。
*
数日後。
天皇崩御の報せが、正式に全国に伝えられた。
昭和は、終わりを告げようとしていた。
病院には報道陣が詰めかけ、対応に追われる合間を縫って、佳奈はある紙袋を見つけた。
院内休憩所のテーブルの上、まるで自分宛かのようにぽつんと置かれた茶色の紙包み。
中には、ミルクジャムの入った小さなマフィンと、一枚の白い紙が入っていた。
──
《また朝の風景が見たくなったら、この場所で》
地図が添えられていた。
それは、港湾地区の外れ、荷下ろし場の一角にある小さな桟橋だった。
*
日曜日の朝。
佳奈は迷いながらも、その場所へ向かった。
港の風は冷たかった。
桟橋のそばには古びたベンチがひとつ。
そしてその端に、コーヒーカップを手にした彼がいた。
三上佑樹。
風に髪を揺らしながら、こちらを見て、ようやく笑った。
「……おはようございます」
「……おはようございます」
それが、ふたりの初めての会話だった。
何を話せばいいかわからない。
けれど、話さなければならないとも思わなかった。
「ここ、佳奈さんが好きそうな風景だと思って」
「なんで、私の名前……」
「あなたが、ラテにマフィンを頼む時、店員が名前で呼んでた。……僕の方は、三上佑樹。もう知ってるかもしれないけど」
佳奈はふっと笑った。
「……やっと、お互い名乗れたね」
佑樹は、頷いた。
そして、懐から小さな紙片を取り出して手渡した。
それは、一枚の白黒写真だった。
遠い昔の古びた桜の木の下、微笑む少女と、影のように佇む若い侍。
二人は並んで写ってはいない。
けれど、目線の先には互いがいた。
「……これ、どこで?」
「親父の遺品の中にあったんだ。写ってる人のことはわからない。でも、なんとなく……知ってる気がして」
佳奈は写真を見つめ、しばらく黙っていた。
「私も……最近、夢を見るの。古い桜の木の下で、誰かを待ってる夢。顔ははっきり見えない。でも、ずっと……待ってるの」
佑樹は、静かに頷いた。
「俺も……ずっと探してた気がする。何をかは、分からなかったけど」
桟橋の上、風が海面を滑っていく。
冷たい冬の風なのに、不思議と心は穏やかだった。
「ねえ、佑樹さん」
「うん?」
「もし、私たちが……ずっと前にも、どこかで会ってたとしたら」
「……そうだとしたら?」
「またこうして会えたの、奇跡じゃない?」
佑樹は笑った。
「うん、きっと。これは奇跡だと思う」
佳奈も、微笑んだ。
それ以上、何も語らなかった。
けれど、二人のあいだにはもう、永遠に忘れられない約束が生まれていた。
言葉ではなく、記憶でもなく。
ただ、再び交わった魂が、そこにあった。
そして、春の訪れとともに――
湯島の桜も、また花を咲かせるだろう。
その木の下で、彼らが再び“始める”日を、静かに待ちながら。