第八話 無言の共鳴
風の冷たさが、日に日に骨に沁みるようになっていた。
それでも佳奈は、あのカフェへ通い続けていた。
「Rue de la Lune」は、路面電車の音が微かに届く静かな通り沿いにある。
このあたりは観光客が多く、騒がしさもあるのだが、不思議とこの店の中だけは、別の時間が流れていた。
それはたぶん、あの青年がそこにいるから――と、佳奈はようやく認めかけていた。
三上佑樹。
彼の名を知ったのは、偶然だった。
ある朝、カフェの入口近くで年配の女性が若い男を呼び止めた。
三上くん!
振り返った顔に佳奈は見覚えがあった。
“彼だ。”
名前を知ってしまったとき、何かが確かになった気がした。
けれど、それでも彼女は話しかけることはなかった。
彼もまた、何も言ってこなかった。
けれど、何かが変わり始めていた。
いつしか、佳奈の注文するラテには、ハートのラテアートが加わっていた。
佑樹のカップのソーサーの端には、時折クッキーが添えられていた。
誰の指示でもない、ただの偶然のような、けれどおそらくは意図的な小さな仕草。
そんな風にして、ふたりは少しずつ、世界を共有するようになっていった。
*
ある夜、佳奈は夢を見た。
不思議な夢だった。
荒野のような場所。煙るような空。
そこに、遠く背を向けた誰かが立っていた。
その人は振り返らなかったが、風が頬を撫でたとき、胸が締めつけられるような懐かしさがこみあげた。
“ずっと昔に、私はこの人と……何かを、交わしたことがある。”
夢から醒めても、胸の鼓動だけは収まらなかった。
ただの夢だ、と言い聞かせても、目の奥に残る残像が消えなかった。
それ以来、佳奈は佑樹の姿を見るたびに、深く胸の奥がざわつくようになった。
記憶というより、直感。
理屈ではなく、何かが“知っている”と告げていた。
彼もまた、佳奈を見る目が変わっていた。
ある日、カフェを出て駅へ向かう細い路地で、偶然、二人はすれ違った。
そのとき、佳奈は彼の手の甲に、傷跡があることに気づいた。
不思議なことに、その傷の形が、夢に見た“誰か”と同じだった。
「……!」
言葉にならないまま、佳奈は振り返った。
佑樹も立ち止まり、彼女の方を向いていた。
夜の街灯が、ふたりの間に長い影を落とした。
声をかけようとして、やめた。
彼もまた、何かを言いかけた気配があったが、唇は動かなかった。
ただ、目が合った。
長い時間、何も言わずに見つめ合ったまま、ふたりはそれぞれの道へと再び歩き出した。
*
数日後、三宮港の倉庫地帯で事故が起きた。
貨物リフトの落下に巻き込まれた作業員が出たという報せを、佳奈は病院で耳にした。
一瞬、胸がざわついた。
誰が怪我をしたのかは知らない。ただ、漠然と“彼”を思い出していた。
その日、佳奈はカフェに向かうことができなかった。
朝も、昼も、夜も、患者の対応で病院に詰めきりだった。
翌朝、病院の屋上で休憩をとっていたとき、ポケットに小さな紙袋が入っているのに気づいた。
……?
記憶がなかった。入れた覚えもない。
開けると、中にはマフィンと、ドリップパックのコーヒーが入っていた。
添えられたカードに、こう書かれていた。
《お疲れさまです。たまには甘いものでも。――M》
“M”――それが誰なのか、すぐにわかった。
直接手渡されなくとも、そこにある“気遣い”が彼そのものだった。
彼女はそれを見て、思わず笑った。
心の奥に、小さな温もりが灯った気がした。
まだ何も始まっていないけれど。
何も語られていないけれど。
確かに、そこに“通じ合い”があるのだと。
*
夕暮れ、カフェの前を通りかかると、ガラスの内側に彼の姿があった。
今日もコーヒーを手に、静かに窓の外を見つめている。
けれど、目が合った。
その瞬間、佑樹がゆっくりと立ち上がった。
佳奈の足が止まった。
彼が戸口に向かって歩き出す。
佳奈の鼓動が跳ねた。
このまま、ふたりは――言葉を交わすのかもしれない。
初めて、“何か”が始まるのかもしれない。
だが、ふたりの間にドアが開く前、通りすがりの少年が、ふと佳奈の前に立ち止まり、話しかけた。
「お姉さん、この道、湊川神社に行ける?」
「あ……うん、ごめん、たぶんあっちの方向」
道案内を終えて顔を上げたときには、佑樹の姿はもう見えなかった。
それでも佳奈は、もう焦らなかった。
――また、会える。
そう信じられる何かが、今のふたりにはあった。
言葉はなくても、記憶がなくても、きっとまた――。