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輪廻の恋人  作者: 56号
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第八話 無言の共鳴

風の冷たさが、日に日に骨に沁みるようになっていた。

それでも佳奈は、あのカフェへ通い続けていた。


「Rue de la Lune」は、路面電車の音が微かに届く静かな通り沿いにある。

このあたりは観光客が多く、騒がしさもあるのだが、不思議とこの店の中だけは、別の時間が流れていた。

それはたぶん、あの青年がそこにいるから――と、佳奈はようやく認めかけていた。


三上佑樹。

彼の名を知ったのは、偶然だった。


ある朝、カフェの入口近くで年配の女性が若い男を呼び止めた。

三上くん!

振り返った顔に佳奈は見覚えがあった。


“彼だ。”


名前を知ってしまったとき、何かが確かになった気がした。

けれど、それでも彼女は話しかけることはなかった。


彼もまた、何も言ってこなかった。

けれど、何かが変わり始めていた。


いつしか、佳奈の注文するラテには、ハートのラテアートが加わっていた。

佑樹のカップのソーサーの端には、時折クッキーが添えられていた。

誰の指示でもない、ただの偶然のような、けれどおそらくは意図的な小さな仕草。


そんな風にして、ふたりは少しずつ、世界を共有するようになっていった。



ある夜、佳奈は夢を見た。

不思議な夢だった。


荒野のような場所。煙るような空。

そこに、遠く背を向けた誰かが立っていた。

その人は振り返らなかったが、風が頬を撫でたとき、胸が締めつけられるような懐かしさがこみあげた。


“ずっと昔に、私はこの人と……何かを、交わしたことがある。”


夢から醒めても、胸の鼓動だけは収まらなかった。

ただの夢だ、と言い聞かせても、目の奥に残る残像が消えなかった。


それ以来、佳奈は佑樹の姿を見るたびに、深く胸の奥がざわつくようになった。

記憶というより、直感。

理屈ではなく、何かが“知っている”と告げていた。


彼もまた、佳奈を見る目が変わっていた。


ある日、カフェを出て駅へ向かう細い路地で、偶然、二人はすれ違った。

そのとき、佳奈は彼の手の甲に、傷跡があることに気づいた。

不思議なことに、その傷の形が、夢に見た“誰か”と同じだった。


「……!」


言葉にならないまま、佳奈は振り返った。

佑樹も立ち止まり、彼女の方を向いていた。

夜の街灯が、ふたりの間に長い影を落とした。


声をかけようとして、やめた。


彼もまた、何かを言いかけた気配があったが、唇は動かなかった。


ただ、目が合った。


長い時間、何も言わずに見つめ合ったまま、ふたりはそれぞれの道へと再び歩き出した。



数日後、三宮港の倉庫地帯で事故が起きた。

貨物リフトの落下に巻き込まれた作業員が出たという報せを、佳奈は病院で耳にした。


一瞬、胸がざわついた。

誰が怪我をしたのかは知らない。ただ、漠然と“彼”を思い出していた。


その日、佳奈はカフェに向かうことができなかった。

朝も、昼も、夜も、患者の対応で病院に詰めきりだった。


翌朝、病院の屋上で休憩をとっていたとき、ポケットに小さな紙袋が入っているのに気づいた。


……?

記憶がなかった。入れた覚えもない。


開けると、中にはマフィンと、ドリップパックのコーヒーが入っていた。

添えられたカードに、こう書かれていた。


《お疲れさまです。たまには甘いものでも。――M》


“M”――それが誰なのか、すぐにわかった。

直接手渡されなくとも、そこにある“気遣い”が彼そのものだった。


彼女はそれを見て、思わず笑った。


心の奥に、小さな温もりが灯った気がした。

まだ何も始まっていないけれど。

何も語られていないけれど。


確かに、そこに“通じ合い”があるのだと。



夕暮れ、カフェの前を通りかかると、ガラスの内側に彼の姿があった。


今日もコーヒーを手に、静かに窓の外を見つめている。


けれど、目が合った。


その瞬間、佑樹がゆっくりと立ち上がった。


佳奈の足が止まった。


彼が戸口に向かって歩き出す。


佳奈の鼓動が跳ねた。


このまま、ふたりは――言葉を交わすのかもしれない。

初めて、“何か”が始まるのかもしれない。


だが、ふたりの間にドアが開く前、通りすがりの少年が、ふと佳奈の前に立ち止まり、話しかけた。


「お姉さん、この道、湊川神社に行ける?」


「あ……うん、ごめん、たぶんあっちの方向」


道案内を終えて顔を上げたときには、佑樹の姿はもう見えなかった。


それでも佳奈は、もう焦らなかった。


――また、会える。

そう信じられる何かが、今のふたりにはあった。


言葉はなくても、記憶がなくても、きっとまた――。

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