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輪廻の恋人  作者: 56号
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第六話 春待つ記憶

昭和三年、睦月半ば。

正月の華やぎもようやく落ち着き、東京の空は冬の薄晴れに包まれていた。

湯島天満宮の参道には、まだ正月の名残のような市が立ち、白い絵馬が木々の枝に風を受けて揺れていた。


その傍ら、境内の裏手にひっそりと佇む一本の桜の木。

季節外れのその樹を、ひとりの少女が見上げていた。


名を、カナと言った。

芝居一座「辰巳座」の新参者で、まだ十六の年若き旅役者。

前夜、浅草からこの界隈へと流れついたばかりで、湯島に足を踏み入れるのも初めてのはずだった。


それでも、カナの足は迷いなくこの桜の木の下に辿り着いた。


「……どうして、知ってるんだろう」


小さくつぶやいた声は、自分自身への問いだった。

この木を見たのは、確かに“初めて”のはず。

けれど、幹のうろや、根元の石の並び方、微かに苔むした土の匂い――どれも、懐かしくてたまらなかった。


それだけではない。


風が吹いた瞬間、不意に心の奥からあふれ出したのは、誰かの姿だった。


名も、顔も定かではない。

けれど、確かに知っている男の影。

柔らかく笑う目元、うつむいた横顔、そして、別れ際に振り返りもせず去っていく背中――。


「……知ってる。わたし、あの人を知ってる……」


カナは桜の木の下で立ちすくみ、そのまま目で“彼”を探していた。


いないと分かっていても、探さずにはいられなかった。

まるで芝居の一幕のように、いまにも桜の影から現れてくるような気がして。



芝居一座の生活は、日替わりの舞台と移動の連続だ。

けれど、湯島の興行は少し長く、数日間の滞在となっていた。


それでもカナは、空いた時間があればあの桜の木のもとに足を運んだ。

座長や仲間には「散歩好きの娘」と笑われたが、カナにとってその場所は、知らぬ土地で唯一、心が安らぐ場所だった。


ある日、桜の木の下に、小さな男の子が一人、転がる毬を追いかけていた。

その子がふと、カナを見上げて言った。


「ねえ、お姉ちゃん。ここで誰か待ってるの?」


カナは、はっとした。


「……どうして、そう思うの?」


「だって、そういう顔してるもん。おばあちゃんが言ってた。昔ここで、女の人がずっと誰かを待ってたことがあるって」


「女の人……?」


「うん。昔の話だって。桜の木が、まだ細かったころ」


それを聞いて、カナは胸が締めつけられるような気持ちになった。

何も知らないはずの子供の口から出た、まるで前世の記憶のような言葉。


もしかして――自分も、ここで誰かを待ったことがあるのかもしれない。


いや、待たれていたのかもしれない。


「そう……ありがとう」


そう言って頭を撫でると、少年は照れたように笑って駆けていった。



再び舞台の日々が戻った。

拍子木の音、紅殻格子の化粧、観客のざわめき。

舞台の上では違う自分を演じ、舞台袖では日々の疲れを静かに抱えた。


けれど、湯島の桜の下で浮かんだ“彼”の面影だけは、どんな芝居よりも鮮やかだった。


ある夜、千秋楽の舞台を終えた後、カナはふと桜の木へと向かった。

もうすぐこの町を離れる。

次は信州、そこから北陸――再び来るあてもない。


冷たい夜風の中、桜の枝がきしむように揺れていた。


「……ねえ。わたし、またここに来られるかな」


誰もいない夜の境内に、小さく語りかけるように呟いた。


「もしまた会えたら、今度こそ、ちゃんと名前を聞くよ。ちゃんと声をかける。だから……」


――だから、もう少しだけ、待っててほしい。


そう言いかけて、カナはふと微笑んだ。


「また会える気がする。だから、大丈夫だよね」


そして、まるで芝居の幕を下ろすように、静かに一礼して背を向けた。



翌朝、旅立ちの荷車が通り過ぎた後、湯島の天満宮には何も残っていなかった。

ただ、あの一本の桜の木だけが、冬空の下で静かに立っていた。


春には誰よりも早く花を咲かせるその木の下で、かつて誰かが誰かを待ち、誰かが再会を願った。


それは、まだ愛にも恋にもならない“何か”の記憶。


名を持たぬ面影に、再び会える日を願いながら、

カナは次の町へと旅立っていった。


「またね――必ず、また」


誰もいない場所に向けて、そう約束の言葉を残して。

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