第五話 茶店のほとり
明治元年、五月の浅草は、春の余韻と戦の気配が入り混じる不穏な空気に包まれていた。
新政府軍の動きは日に日に明白となり、旧幕府の残党――彰義隊の本拠がある上野山は、すでに臨戦態勢に入っていた。
杉井俊策は、その中にいた。
かつて馬廻役を務めた杉井家は、旗本の中でも家格高き家柄であったが、維新の大潮流の前では、ただの「旧い者」に過ぎなかった。
それでも俊策は、江戸の空に火の手が上がるその前に、何かを果たそうとしていた。
「お前、夜のうちに下りろ。回状を預ける」
副頭取・天野八郎の命により、俊策は一時的に山を下りた。
品川方面へ向かう街道の途中、小高い丘を越えた先に、小さな茶店があった。
それは、町と戦の狭間に残された、ひと時の平穏のような場所だった。
その茶店で、彼女に出会った。
名を、カナと言った。
十五か十六か、まだあどけなさの残る年頃の娘で、竹で編んだ座布団を日なたに干しながら、薄茶を点てていた。
目が合った。
俊策は言葉を飲み込んだ。
その目には、怯えでも、媚びでもなく、ただ真っ直ぐな静けさがあった。
それは、戦場の喧騒や、男たちの血気とは全く違う、別の世界の目だった。
「……お茶、どうぞ」
「……ああ」
そうして、俊策は腰を下ろした。
刀を外さず、足を揃えたまま、慎重に彼女の差し出した湯のみを受け取る。
茶は、熱かった。
だが、それ以上に、その場の空気が澄んでいた。
風が、暖簾を軽く揺らし、遠くで鶯が鳴いた。
「……お侍様、上野の方から?」
カナの問いは、問いのようで問いでなかった。
「それを聞いてどうする?」
「いいえ、ただ……行き交う人が、皆どこか急いでいて。誰かと会って、すぐ別れるような、そんな顔をしてるから……」
俊策は湯のみを見つめた。
茶の表面に、自分の顔がゆらめいていた。
何かを返す言葉が見つからず、彼はただ「そうか」と小さく答えた。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、茶菓子をひとつ添えて戻っていった。
*
それから俊策は、奇妙にも、その茶店に二度三度と立ち寄るようになった。
任務のついで――と自分に言い聞かせながら。
何かを語るわけでもない。
手紙を交わすでもない。
だが、言葉よりも深く、彼は次第に、カナの存在を“思い出”のように感じはじめていた。
初めて会ったはずのその目に、どこか遠い過去の、忘れかけていた光景が宿っている気がした。
ある夕暮れ、彼女はぽつりと呟いた。
「……私、死んだ人のこと、よく夢に見るんです。見たことのない人ばかり。でも、どこか懐かしい顔ばかりで」
「……そうか」
「あなたも、そういう夢……見ますか?」
俊策は答えられなかった。
だが、胸の奥に、焼け焦げた江戸の空が蘇った。
かつての誰かの声、泣き声、誓い――言葉にできない何かが。
「たぶん、俺も見てるのかもしれないな」
それが、彼らの交わした、最も近しい言葉だった。
*
その翌日、上野戦争が始まった。
山は火に包まれ、彰義隊の陣は瞬く間に崩れ、黒煙が東京の空を覆った。
官軍の洋式砲列の前に、和装の隊士たちは次々に倒れ、杉井俊策もまた、消息を絶った。
彼の名前は、新政府の記録には残らなかった。
家も潰され、墓もない。
だが、あの茶店の裏手にある小さな井戸のほとりに、一本の桜が植えられた。
カナが、一人で植えたものだった。
それから数年後、東京が帝都と呼ばれるようになったころ、茶店は取り壊された。
だが、あの桜だけは残され、春になると誰よりも早く花を咲かせた。
彼女は誰にも語らなかった。
その若侍の名も、顔も。
けれど、夜な夜な桜の下で、静かに座っている姿を見た者は多かったという。
それは愛ではない。
恋でもない。
ただ、一瞬すれ違った魂の記憶。
燃えさかる江戸の空の下で、交わることのなかった二人の物語。
――いつかまた、どこかで。
そう信じて、カナはただ、春を待ち続けた。