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輪廻の恋人  作者: 56号
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第五話 茶店のほとり

明治元年、五月の浅草は、春の余韻と戦の気配が入り混じる不穏な空気に包まれていた。

新政府軍の動きは日に日に明白となり、旧幕府の残党――彰義隊の本拠がある上野山は、すでに臨戦態勢に入っていた。


杉井俊策は、その中にいた。

かつて馬廻役を務めた杉井家は、旗本の中でも家格高き家柄であったが、維新の大潮流の前では、ただの「旧い者」に過ぎなかった。

それでも俊策は、江戸の空に火の手が上がるその前に、何かを果たそうとしていた。


「お前、夜のうちに下りろ。回状を預ける」


副頭取・天野八郎の命により、俊策は一時的に山を下りた。

品川方面へ向かう街道の途中、小高い丘を越えた先に、小さな茶店があった。

それは、町と戦の狭間に残された、ひと時の平穏のような場所だった。


その茶店で、彼女に出会った。


名を、カナと言った。

十五か十六か、まだあどけなさの残る年頃の娘で、竹で編んだ座布団を日なたに干しながら、薄茶を点てていた。


目が合った。

俊策は言葉を飲み込んだ。


その目には、怯えでも、媚びでもなく、ただ真っ直ぐな静けさがあった。

それは、戦場の喧騒や、男たちの血気とは全く違う、別の世界の目だった。


「……お茶、どうぞ」


「……ああ」


そうして、俊策は腰を下ろした。

刀を外さず、足を揃えたまま、慎重に彼女の差し出した湯のみを受け取る。


茶は、熱かった。

だが、それ以上に、その場の空気が澄んでいた。

風が、暖簾を軽く揺らし、遠くで鶯が鳴いた。


「……お侍様、上野の方から?」


カナの問いは、問いのようで問いでなかった。


「それを聞いてどうする?」


「いいえ、ただ……行き交う人が、皆どこか急いでいて。誰かと会って、すぐ別れるような、そんな顔をしてるから……」


俊策は湯のみを見つめた。

茶の表面に、自分の顔がゆらめいていた。

何かを返す言葉が見つからず、彼はただ「そうか」と小さく答えた。


彼女はそれ以上、何も言わなかった。

ただ、茶菓子をひとつ添えて戻っていった。



それから俊策は、奇妙にも、その茶店に二度三度と立ち寄るようになった。

任務のついで――と自分に言い聞かせながら。


何かを語るわけでもない。

手紙を交わすでもない。


だが、言葉よりも深く、彼は次第に、カナの存在を“思い出”のように感じはじめていた。

初めて会ったはずのその目に、どこか遠い過去の、忘れかけていた光景が宿っている気がした。


ある夕暮れ、彼女はぽつりと呟いた。


「……私、死んだ人のこと、よく夢に見るんです。見たことのない人ばかり。でも、どこか懐かしい顔ばかりで」


「……そうか」


「あなたも、そういう夢……見ますか?」


俊策は答えられなかった。

だが、胸の奥に、焼け焦げた江戸の空が蘇った。

かつての誰かの声、泣き声、誓い――言葉にできない何かが。


「たぶん、俺も見てるのかもしれないな」


それが、彼らの交わした、最も近しい言葉だった。



その翌日、上野戦争が始まった。


山は火に包まれ、彰義隊の陣は瞬く間に崩れ、黒煙が東京の空を覆った。

官軍の洋式砲列の前に、和装の隊士たちは次々に倒れ、杉井俊策もまた、消息を絶った。


彼の名前は、新政府の記録には残らなかった。

家も潰され、墓もない。


だが、あの茶店の裏手にある小さな井戸のほとりに、一本の桜が植えられた。

カナが、一人で植えたものだった。


それから数年後、東京が帝都と呼ばれるようになったころ、茶店は取り壊された。

だが、あの桜だけは残され、春になると誰よりも早く花を咲かせた。


彼女は誰にも語らなかった。

その若侍の名も、顔も。

けれど、夜な夜な桜の下で、静かに座っている姿を見た者は多かったという。


それは愛ではない。

恋でもない。


ただ、一瞬すれ違った魂の記憶。

燃えさかる江戸の空の下で、交わることのなかった二人の物語。


――いつかまた、どこかで。


そう信じて、カナはただ、春を待ち続けた。

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