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輪廻の恋人  作者: 56号
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第四話 遠雷(とおかみなり)の夜に

カナがその青年を初めて見たのは、五月雨のように人が流れ込んできた夕刻のことだった。

店の奥にあるピアノの傍で、彼は静かに水を頼んだ。ウイスキーも、ビールも頼まず、水。

それがかえって、彼の幼さを引き立てていた。顔立ちはすでに男の輪郭を成していたが、瞳の奥には少年のままの迷いがあった。


店は、ミシシッピ川沿いのとある町の外れにある酒場。

南部の戦争熱がじわじわと高まっていたこの時期でも、カナの父は「音楽と酒だけは中立だ」と豪語して店を守っていた。

カナはその店のひとり娘。店の看板娘として、ピアノと客の空気を読むことを覚えた。


だが、その夜、彼女の目は、彼に釘付けになった。


水のコップを持つ手が、微かに震えている。

震える手を隠すように、彼は椅子の背にそれを預けていた。


「……初めて?」


彼女が声をかけると、青年は小さく笑った。


「何が?」


「戦場に行くの。」


その笑みが、崩れた。


「――どうしてわかるんだい?」


「だって、そういう目をしてるもの。引き返したくてたまらない目。」


青年は視線をそらした。

その肩に掛けられた軍服はまだ新しく、くたびれていない。

けれど、その肩に宿る重さは、新兵には重すぎる。


「名前は?」


「ウィリアム……いや、みんなからは“ウィル”と呼ばれてる。」


「カナ。ここの店主の娘。」


ふたりはそれだけで、しばらく黙った。

店の奥では、酔っ払いが騒いでいたが、彼らのまわりには別の時間が流れていた。


カナはその夜、彼のコップに水を注ぎ続けた。

ウィルは酒を拒んだ。

「酔うと涙が出る」と、ぽつりとこぼした。


翌日、彼は戦地に赴くという。

北軍の一兵卒として、奴隷制度に反対し、国家の統一のために銃をとる。


「奴隷解放の志は……尊いと思うの」


カナが静かに言ったとき、彼はふっと目を細めた。


「俺もそう思う。人が人を所有するなんて、神が許すはずがない」


「でも……」


「でも?」


「それでも、あなたには行ってほしくないって……思ってしまうの。私は、間違ってる?」


問いに対して、彼は答えなかった。



次の日、夜明け前の静かな時間。

彼女は裏口の階段に腰かけていた。


そこに、ウィルが姿を現した。


制服姿。背筋は伸びていたが、目の奥に宿る不安は隠せないままだった。


「来ると思った」


「君も来ると思ってた」


ふたりは、微笑んだ。


カナは、手にしていた小さな白布を差し出した。


「ハンカチ。母が、父の戦争のときに持たせたもの。」


ウィルは、それを受け取ると、胸ポケットにそっとしまった。


「きっと帰ってくるよ」


「ううん、嘘。そういう時の言葉は、嘘でもいいの」


カナの声は震えていた。

彼女は、彼に恋をしていた。

きっと最初の一目で、惹かれてしまっていた。


けれど、その恋は叶わない。

戦地に赴く男と、酒場に残される女。

道は交わらない。


抱きしめたい衝動を、彼は両手を握り締めて抑えた。

唇を近づけたかったが、彼女の髪に触れるだけでやっとだった。


「……ありがとう、カナ。きっと……きっと、忘れない」


「私も。――もし生まれ変わっても、きっとあなたを見つける」


その言葉に、彼は泣きそうになった。


「変だよな。昨日出会ったばかりなのに……」


「ずっと前に、どこかで会った気がしてるからだよ」


ふたりの視線が重なった。

そこには、言葉にできない時間と感情が宿っていた。


「行きなさい、ウィル」


「うん……」


そうして彼は、朝霧のなかへ歩き出した。


カナは、泣かなかった。

ただ、じっと立ったまま、その背を見送った。


やがて、彼の姿が霧に溶けるように消えたとき、

彼女はそっと口元を押さえ、

白磁のように静かに涙を流した。


愛していた。

でも、それを口にすることすら許されなかった。


それでも、きっとまたどこかで。


魂は巡り、また出会う。

カナはそう信じていた。


いつか、戦争のない時代に。

酒場ではなく、別の場所で。

ふたりが再び出会い、今度こそ――


愛せる未来を願って。



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