第四話 遠雷(とおかみなり)の夜に
カナがその青年を初めて見たのは、五月雨のように人が流れ込んできた夕刻のことだった。
店の奥にあるピアノの傍で、彼は静かに水を頼んだ。ウイスキーも、ビールも頼まず、水。
それがかえって、彼の幼さを引き立てていた。顔立ちはすでに男の輪郭を成していたが、瞳の奥には少年のままの迷いがあった。
店は、ミシシッピ川沿いのとある町の外れにある酒場。
南部の戦争熱がじわじわと高まっていたこの時期でも、カナの父は「音楽と酒だけは中立だ」と豪語して店を守っていた。
カナはその店のひとり娘。店の看板娘として、ピアノと客の空気を読むことを覚えた。
だが、その夜、彼女の目は、彼に釘付けになった。
水のコップを持つ手が、微かに震えている。
震える手を隠すように、彼は椅子の背にそれを預けていた。
「……初めて?」
彼女が声をかけると、青年は小さく笑った。
「何が?」
「戦場に行くの。」
その笑みが、崩れた。
「――どうしてわかるんだい?」
「だって、そういう目をしてるもの。引き返したくてたまらない目。」
青年は視線をそらした。
その肩に掛けられた軍服はまだ新しく、くたびれていない。
けれど、その肩に宿る重さは、新兵には重すぎる。
「名前は?」
「ウィリアム……いや、みんなからは“ウィル”と呼ばれてる。」
「カナ。ここの店主の娘。」
ふたりはそれだけで、しばらく黙った。
店の奥では、酔っ払いが騒いでいたが、彼らのまわりには別の時間が流れていた。
カナはその夜、彼のコップに水を注ぎ続けた。
ウィルは酒を拒んだ。
「酔うと涙が出る」と、ぽつりとこぼした。
翌日、彼は戦地に赴くという。
北軍の一兵卒として、奴隷制度に反対し、国家の統一のために銃をとる。
「奴隷解放の志は……尊いと思うの」
カナが静かに言ったとき、彼はふっと目を細めた。
「俺もそう思う。人が人を所有するなんて、神が許すはずがない」
「でも……」
「でも?」
「それでも、あなたには行ってほしくないって……思ってしまうの。私は、間違ってる?」
問いに対して、彼は答えなかった。
*
次の日、夜明け前の静かな時間。
彼女は裏口の階段に腰かけていた。
そこに、ウィルが姿を現した。
制服姿。背筋は伸びていたが、目の奥に宿る不安は隠せないままだった。
「来ると思った」
「君も来ると思ってた」
ふたりは、微笑んだ。
カナは、手にしていた小さな白布を差し出した。
「ハンカチ。母が、父の戦争のときに持たせたもの。」
ウィルは、それを受け取ると、胸ポケットにそっとしまった。
「きっと帰ってくるよ」
「ううん、嘘。そういう時の言葉は、嘘でもいいの」
カナの声は震えていた。
彼女は、彼に恋をしていた。
きっと最初の一目で、惹かれてしまっていた。
けれど、その恋は叶わない。
戦地に赴く男と、酒場に残される女。
道は交わらない。
抱きしめたい衝動を、彼は両手を握り締めて抑えた。
唇を近づけたかったが、彼女の髪に触れるだけでやっとだった。
「……ありがとう、カナ。きっと……きっと、忘れない」
「私も。――もし生まれ変わっても、きっとあなたを見つける」
その言葉に、彼は泣きそうになった。
「変だよな。昨日出会ったばかりなのに……」
「ずっと前に、どこかで会った気がしてるからだよ」
ふたりの視線が重なった。
そこには、言葉にできない時間と感情が宿っていた。
「行きなさい、ウィル」
「うん……」
そうして彼は、朝霧のなかへ歩き出した。
カナは、泣かなかった。
ただ、じっと立ったまま、その背を見送った。
やがて、彼の姿が霧に溶けるように消えたとき、
彼女はそっと口元を押さえ、
白磁のように静かに涙を流した。
愛していた。
でも、それを口にすることすら許されなかった。
それでも、きっとまたどこかで。
魂は巡り、また出会う。
カナはそう信じていた。
いつか、戦争のない時代に。
酒場ではなく、別の場所で。
ふたりが再び出会い、今度こそ――
愛せる未来を願って。