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輪廻の恋人  作者: 56号
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第三話 白磁の月

後漢の初春。

洛陽の東に広がる山裾に、名門・蔡家の邸宅は佇んでいた。

殿上人を多く輩出したこの家は、代々、天子に仕え、いまや家長・蔡謙は光武帝の近臣として、政の中枢を担っていた。


その長女、カナは十七。

母を早くに亡くし、厳格な父に育てられたが、どこか涼やかで静かな気配を纏っていた。

白磁のようにしなやかで、清らかで、遠い月の光を宿した瞳を持っていた。


彼女が笑うことは稀だった。

だが、庭の草木や、墨染めの筆先に触れるとき、ほんのわずか、目元が和らぐ。

誰も気づかぬほどの、そのわずかな変化を、ただひとりだけ見逃さない者がいた。


奴婢ぬひ蒼夷そうい


彼は蔡家に買われた若き奴隷のひとりで、名も本来のものではない。

どこか西域の血が混じっていると噂されるその風貌と、黙々と働くその姿勢、そして石に触れるときの指の動きが、人とは異なっていた。


屋敷の裏庭に据えられた獅子の石像。

かつて崩れかけていたそれを、誰にも命じられぬまま直していたのが蒼夷だった。

カナは、それを見ていた。


その日も、早朝。

花がまだ露に濡れていたころ、彼は中庭に膝をつき、欠けた石階の縁を磨いていた。

手には木槌と彫り鑿。声を出さず、ただ石と向き合っていた。


「……その花の文様、唐草に見えて唐草ではないのですね」


背後から聞こえた声に、蒼夷の手が止まった。

振り返れば、薄青の衣に身を包んだカナが、垣根越しに立っていた。


「唐草は、絡み、輪をなす。けれどそれは、ほどけている。風の紋のよう」


蒼夷は何も言わず、軽く頭を垂れた。

言葉を返すことが、許される身分ではなかった。

だが、カナの方も、それ以上の言葉を求めてはいなかった。

まるで風に語るように、ただ呟いただけだった。


それからというもの、二人の間には「言葉にならない交流」が始まった。


カナが通るたび、蒼夷は目を伏せた。

カナは目を逸らすふりをしながら、その背を追った。

ある日、墨をすった器を彼が運べば、彼女は「ありがとう」と一言だけ残した。

それだけで、彼の手のひらが熱を持った。



しかし、すべては"交わらぬ"ままだった。


あるとき、家人が冗談交じりに言った。


「お嬢様は、蒼夷に目をかけておられるのではないか?」


それを耳にした蒼夷の顔から、さっと血の気が引いた。

そして、それを聞いた父・蔡謙は、ただ一言、静かに告げた。


「不敬が過ぎれば、処すぞ」


カナは何も言わなかった。

ただ、ある夜、星を見ながらひとりごちた。


「名前も、姿も、何もかも変わっても……あなたの目は、ずっと変わらないのね」


蒼夷の目――それは、はるか昔、夜空を背に誓いを交わした誰かの目と、同じだった。



春が去り、夏が来た。

ある日、蒼夷は蔡家を出されることになった。

罪ではない。家中の再編にともなう整理だった。

だがそれは、追放に等しい扱いだった。


荷をまとめた夜、裏庭の井戸のほとりに、カナが立っていた。


「――この水場、昔からあるの。誰が掘ったかもわからない。でも、変わらずに水を湛えてる。……石のようね、あなたも」


彼は、少しだけ視線を上げた。

目が合った。


「……きっと、また会えるわね。どこかで」


蒼夷はうなずいた。言葉ではなく、魂が反応したように。


やがて彼は闇の中へと消えていき、

カナは静かに立ち尽くしたまま、星を見上げた。


その手の中には、小さな石片があった。

蒼夷が修復した石獅子の、欠けた一部。

彼女はそれを、ずっと懐に忍ばせていた。


交わらぬ者たち――だが、魂だけは、ずっと寄り添っていた。


そしてまた、彼らの魂は時を越え、次なる時代へと旅を続けていく。

「いつか必ず、今度こそ交わるために。」



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