第三話 白磁の月
後漢の初春。
洛陽の東に広がる山裾に、名門・蔡家の邸宅は佇んでいた。
殿上人を多く輩出したこの家は、代々、天子に仕え、いまや家長・蔡謙は光武帝の近臣として、政の中枢を担っていた。
その長女、カナは十七。
母を早くに亡くし、厳格な父に育てられたが、どこか涼やかで静かな気配を纏っていた。
白磁のようにしなやかで、清らかで、遠い月の光を宿した瞳を持っていた。
彼女が笑うことは稀だった。
だが、庭の草木や、墨染めの筆先に触れるとき、ほんのわずか、目元が和らぐ。
誰も気づかぬほどの、そのわずかな変化を、ただひとりだけ見逃さない者がいた。
奴婢・蒼夷。
彼は蔡家に買われた若き奴隷のひとりで、名も本来のものではない。
どこか西域の血が混じっていると噂されるその風貌と、黙々と働くその姿勢、そして石に触れるときの指の動きが、人とは異なっていた。
屋敷の裏庭に据えられた獅子の石像。
かつて崩れかけていたそれを、誰にも命じられぬまま直していたのが蒼夷だった。
カナは、それを見ていた。
その日も、早朝。
花がまだ露に濡れていたころ、彼は中庭に膝をつき、欠けた石階の縁を磨いていた。
手には木槌と彫り鑿。声を出さず、ただ石と向き合っていた。
「……その花の文様、唐草に見えて唐草ではないのですね」
背後から聞こえた声に、蒼夷の手が止まった。
振り返れば、薄青の衣に身を包んだカナが、垣根越しに立っていた。
「唐草は、絡み、輪をなす。けれどそれは、ほどけている。風の紋のよう」
蒼夷は何も言わず、軽く頭を垂れた。
言葉を返すことが、許される身分ではなかった。
だが、カナの方も、それ以上の言葉を求めてはいなかった。
まるで風に語るように、ただ呟いただけだった。
それからというもの、二人の間には「言葉にならない交流」が始まった。
カナが通るたび、蒼夷は目を伏せた。
カナは目を逸らすふりをしながら、その背を追った。
ある日、墨をすった器を彼が運べば、彼女は「ありがとう」と一言だけ残した。
それだけで、彼の手のひらが熱を持った。
*
しかし、すべては"交わらぬ"ままだった。
あるとき、家人が冗談交じりに言った。
「お嬢様は、蒼夷に目をかけておられるのではないか?」
それを耳にした蒼夷の顔から、さっと血の気が引いた。
そして、それを聞いた父・蔡謙は、ただ一言、静かに告げた。
「不敬が過ぎれば、処すぞ」
カナは何も言わなかった。
ただ、ある夜、星を見ながらひとりごちた。
「名前も、姿も、何もかも変わっても……あなたの目は、ずっと変わらないのね」
蒼夷の目――それは、はるか昔、夜空を背に誓いを交わした誰かの目と、同じだった。
*
春が去り、夏が来た。
ある日、蒼夷は蔡家を出されることになった。
罪ではない。家中の再編にともなう整理だった。
だがそれは、追放に等しい扱いだった。
荷をまとめた夜、裏庭の井戸のほとりに、カナが立っていた。
「――この水場、昔からあるの。誰が掘ったかもわからない。でも、変わらずに水を湛えてる。……石のようね、あなたも」
彼は、少しだけ視線を上げた。
目が合った。
「……きっと、また会えるわね。どこかで」
蒼夷はうなずいた。言葉ではなく、魂が反応したように。
やがて彼は闇の中へと消えていき、
カナは静かに立ち尽くしたまま、星を見上げた。
その手の中には、小さな石片があった。
蒼夷が修復した石獅子の、欠けた一部。
彼女はそれを、ずっと懐に忍ばせていた。
交わらぬ者たち――だが、魂だけは、ずっと寄り添っていた。
そしてまた、彼らの魂は時を越え、次なる時代へと旅を続けていく。
「いつか必ず、今度こそ交わるために。」