第二話 星と石の記憶
――古代メソポタミア・ウルク近郊
乾いた風が黄土色の大地をなでていく。太陽は空の頂でゆらめき、建設中の神殿の石壁は白く眩しく光を弾いた。土埃と石灰の混じるにおい、人々の掛け声、槌音が響くなか、ウルカはその石にのみを打ち込んでいた。
石は黙して語らない。だが、耳を澄ませば何かを囁く。
――この部分を削れ。この線をなぞれ。私はかつて、神の座を支えた者だ。
彼には、それがわかった。彼は石の言葉を聞くことができる。父も祖父もそうだった。代々、王墓を築き、神殿を支えてきた石工の家系――それがウルカの誇りだった。
ある日、王命により、神殿の奥に据える「星の門」の装飾を任されたウルカは、星の位置や神話的意匠を正確に刻む必要から、将軍家が所蔵する天文図と神話の記録を閲覧するよう命じられた。
「おまえのような石工に、将軍家の書庫を開かせるとは、時の王も随分と洒落たことをなさる。」
館の門番が笑いながら通した先に、書架に囲まれた涼やかな部屋があった。
その中央に、彼女はいた。
カナ――将軍アシュル・ナダンの一人娘。高貴な血を引きながら、女でありながら、父に倣い剣を学び、また祭官に師事して星々の学を修めていた。細い指先が羊皮紙をなぞり、唇が静かに神の名を唱えていた。
「……あの。星図を見せていただけますか」
ウルカの低い声に、彼女はふと顔を上げた。
その瞬間、時間が一瞬、音を失った。
カナの瞳は濃い琥珀色だった。だが、光を受けるとそれは、星を宿したかのような銀に変わる。思わず言葉を失ったウルカに、彼女は一瞬だけ警戒したが、やがて小さく微笑んだ。
「あなたが石の声を聞く者、ウルカですね。星の門の図案は、私が案内します。」
その出会いは、まるで神のいたずらのようだった。
だが、それはすでに幾度も繰り返された出会いの、ただの再演だったのかもしれない。
*
数日後、カナは自ら、書庫の資料を抱えて神殿工房へと足を運んできた。将軍家の娘が職人の現場を訪れるなど異例中の異例で、監督たちは狼狽したが、ウルカは黙って彼女を受け入れた。
「この星、アヌ神の象徴。だが、古い文献には『彼の目は東から昇る』とある。ならば、この位置に……」
膝をついて石版に指を走らせるカナの姿に、職人たちは次第に敬意を抱いた。
ウルカは彼女の語る神話の断片に耳を傾けながら、ふと不思議な感覚を覚えた。言葉は初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい。耳の奥でずっと響いていたような、深い記憶に触れるような感覚。
「君は、石の声は聞こえないのに、どうしてこんなに正確に刻む位置がわかるんだ?」
「私には星の声が聞こえるのよ。夜ごと、彼らが語るの。誰を照らし、誰を導くべきかを。」
そう答えた彼女の声も、また音楽のようだった。
日が暮れれば、彼らは神殿裏の小道を抜け、静かな井戸のある庭に佇むようになった。
人目を忍ぶわけではない。ただ、二人でいる時間が、自然とそこに流れ込んできたのだ。
「石は、嘘をつかない」
「星も、隠れない」
「でも、人は……」
「人は、怖がるからね。真実を」
そんな言葉を交わすたびに、心は少しずつ、確かに寄り添っていった。
*
ある晩、月が大きく、静かに庭を照らしていた。
カナは衣の裾を軽く揺らしながら、井戸の傍に立っていた。
「父が、私を隣国の王子に嫁がせるつもりらしいの」
ウルカは何も言えなかった。彼女の声は静かだったが、その奥には深い諦めがあった。
「あなたといるとね、不思議なの。星も石も、手のひらの傷も全部……見たことがある気がするの。ずっと前に。」
その言葉に、ウルカの胸が音を立てた。
彼も、同じだった。
初めて会った日、なぜあの目に心を奪われたのか。
初めて声を交わした瞬間、なぜ心の底が震えたのか。
それは、理由などない「記憶」だった。
「カナ……」
手を伸ばそうとして、やめた。
届けば壊れてしまいそうだった。
「――もし、次に生まれ変われるのなら、私はまた石を彫るよ。君のために、星を刻む」
カナは、目を閉じた。風が、彼女の髪を揺らした。
「その時は……私は、あなたのそばで星の名をささやくわ。忘れないように」
その夜、二人は約束を交わした。声にはせず、誓いとして。
やがて、戦の足音が迫る。
アッシリアの軍勢が国境を越え、炎と剣が近づいてくる。
将軍の娘カナには逃れられぬ運命があり、石工の家を継ぐウルカには背負うべきものがあった。
別れは、避けられなかった。
だが、魂は、離れなかった。
それは、千年の時を越え、幾度も生を変えて再び交わる――「輪廻の伴走者」の始まりだった。