第十六話 ジンジャーエール
開店直後のまだ明るい時間帯。
カウンターに立つ日吉の前に、見慣れない若い女性が姿を現した。
ストレートのロングヘア、落ち着いた紺のワンピース。
しかしその瞳は年齢以上に鋭く、何かを見極めるように店内を見回していた。
「ようこそ。まだ酒場にはちょっと早い時間だけど……」
日吉は手慣れた調子で声をかける。
「すみません、お酒は飲めないです。まだ18なんで」
「そりゃそうだ。じゃあ……ジンジャーエールでいいか?」
「お願いします」
日吉が微笑んで椅子を引く。
「……あの、シンジさんはいらっしゃいますか?」
「今日は少し遅れる。大学のゼミに顔出してから来るって言ってたよ」
「知ってて来ました」
あっさりと告げる彼女に、日吉は一瞬だけ目を細めた。
「……なるほど?」
「シンジさんの“想い人”を一目見たくて」
その言葉に、日吉の手がグラスを磨く動きを止める。
「こっちは名前も顔も知らなかったけど……たぶん、来るんでしょう? その人」
「さぁね。……だが、お前みたいな目つきの子は、久々に見たよ」
「嫌な感じしますか?」
「いや。……面白いって思った」
若菜は、ジンジャーエールを一口すすってから、頷いた。
「私、分かってるんです。彼にとって、私は“ただの後輩”で、“妹分”でしかないって」
「ふぅん」
「だけど、あの人が誰かを本気で想ってる姿、見たことなかったから……知りたかったんです。どんな人なのか。私が敵わない相手って、どんな女性なのか」
日吉は、カウンターの奥にあるスツールを指差した。
「そこに座ってると、いろんな人間が見えてくるぞ。
俺はこの席から、数えきれないほどの男が酔って潰れて、女に泣かされて、時には恋に落ちていくのを見てきた」
「マスターは……彼女のこと、どう思ってますか?」
「佳奈のことか?」
若菜は驚いたように目を丸くする。
「名前、言ってませんけど」
「言わなくても分かる。……この店の“顔”だからな。
来たことない奴にも、いつの間にか話題になる女だ」
日吉は、少しだけ首を傾げる。
「それで、“会ってどうする”んだ? 試すか? 比べるか?奪うか?」
若菜は、黙っていた。
そのときだった。
入り口のベルが軽く鳴った。
扉が開き、柔らかな風が舞い込む。
「こんばんは」
その声が、若菜の首筋を撫でた。
――この声だ。
シンジが何気なく語っていた、どこか懐かしくて、でも一度聴いたら忘れられない声。
カウンターの端に、佳奈が立っていた。
ライトグレーのジャケットに、シンプルな黒のスカート。
口元に浮かぶ柔らかな微笑みと、どこか他人を寄せつけない空気。
そのすべてが、矛盾なく同居している。
「佳奈さん、少し早いですね」
「うん、なんか……今日は早くここに来たくて」
「……へぇ?」
日吉の声が、どこか含みを持つ。
若菜は黙っていた。
彼女の目の前に立つ“佳奈”という女は、想像していたよりも、ずっと普通だった。
若作りでもなく、媚びた様子もない。
なのに、そこに立っているだけで、空気が変わる。
なぜ――この人が、みんなを惹きつけるのか。
「こんばんは、初めまして?」
佳奈が気づいたように声をかけた。
若菜は少しだけ頭を下げた。
「倉科若菜です。……シンジさんの、ゼミの後輩です」
「あら。シンジくん、真面目そうだものね。ゼミでも優等生でしょ?」
「……ええ、まぁ」
「でも、ちょっと不器用でしょ。好きな子にも、何も言えないタイプ」
「……!」
ドキリとする若菜。
佳奈は、微笑んだまま、カウンターの端の席に腰を下ろす。
若菜は、目を逸らさなかった。
“この人に勝ちたい”
“この人を超えたい”
そんな気持ちが、沸き上がるより先に。
“この人には、敵わない”
という、悔しくも不思議な納得が、静かに降りてくるのだった。




