第十五話 恋する覚悟
「原口さん、いらしてましたよ」
開店直後の店内。
まだ他の客の気配もなく、少し早めにやって来た佳奈が、軽く息を吐きながらカウンターに向かう。
その手からコートを受け取るシンジが、控えめに声をかけた。
「原口……?」
佳奈は、グラス棚の奥を見つめるように目を細めた。
「ま……ど、か……まどか?」
「そうそう、それです」
と頷いたシンジの横から、日吉が口を挟む。
「その人がね、こいつに言ってたよ。“佳奈は鈍いから、もう押し倒して奪っちゃいな”ってな」
「マスター、それ、盛りすぎです!」
慌てて否定するシンジの声に、佳奈が笑う。
「なーに? シンジくんが可哀想じゃない。こんなおばさんとじゃ……」
その言葉を、遮るように。
「――そんなことありません」
シンジの声が、一段高くなった。
佳奈の表情が、ふと止まる。
少しの沈黙。
その空気を崩すように、佳奈が片眉を上げて笑った。
「へぇ。シンジくんって、そういう趣味だったのね。おばさんが好きなの?」
その笑顔は、いつもの佳奈だった。
少しだけ目尻が下がって、口元にいたずらのような火花を散らす。
それが、ずるいのだとシンジは知っている。
知っているけれど――惹かれずにはいられない。
「俺……」
言いかけて、止まった。
佳奈がグラスに手を伸ばす。
いつもの、エール。
いつもの席。
でも今日は、少しだけ、位置が違う。
「昔からなのよ。まどかが言ってたでしょう? 私って鈍いって。ほんと、その通りでさ」
泡を見つめながら、ぽつりと続けた。
「好きとか嫌いとか、そういうの、ずっと怖くて。だから、分からないふりをしてきたのかもしれない」
「……怖い、んですか?」
「うん。だって、失うのが怖いじゃない?」
シンジは言葉に詰まった。
佳奈がそんなふうに、弱さを口にするなんて。
「でもさ。最近、思うのよ。どんなに怖くても……手を伸ばせばよかったな、って」
「……それは」
「今さら言っても仕方ないことなんだけどね」
笑った。
けれど、その笑みはさっきの“ずるさ”とは違う。
どこかに後悔の匂いがあった。
「私に“ずるい”って思ったでしょう?」
「……はい。思いました」
正直に答えた。
「ふふ。ありがとう」
ありがとう、って。
その言葉が、やけに優しくて、シンジはまた胸が熱くなった。
「でも、ずるくなるのも、怖がりなりに、努力してるのよ?」
「努力……ですか」
「うん。可愛く笑えば、人は寄ってくる。だけど、誰かに踏み込まれるのが怖いから、笑ってごまかす。
――それが、私のずるさ」
「……それでも」
「ん?」
「俺は、踏み込みたいです」
また、佳奈が止まった。
グラスを置く。
その手が少しだけ震えていた。
「ねぇ、シンジくん」
「はい」
「いまのもまどかの入れ知恵?」
「……いえ。いまのは、俺の言葉です」
佳奈は黙って、それを聞いていた。
やがて、ふっと目を細める。
「……じゃあ、そのときが来たら、ちゃんと覚悟してね?」
「え?」
「踏み込んだら、もう戻れないから」
それは、挑発でもなく、拒絶でもない。
ただ、覚悟を問う優しさだった。
カウンターの空気が、ゆっくりと深くなる。
日吉が、遠くから咳払いひとつ。
「……まったく。俺の目の前でなんの茶番やってんだか」
「マスターだってニヤニヤしてたくせに」
「ばーか。こっちはな、こう見えて親代わりのつもりで見てんだよ」
「親代わり……」
「でも、お前が踏み込むなら止めない。
ただし、中途半端な気持ちで近づいたら、マジで燃やされるぞ」
「……分かってます」
シンジは真っ直ぐに、そう言った。
佳奈は、またいたずらっぽく笑う。
「ふふ、マスター。焚き火くらいにしておいてくれる?」
「火加減は自分で決めな」
静かな店内に、笑い声と氷の音が響いた。
外の風が春の匂いを運んできていた。




