第十三話 夜のグラスに揺れる面影
「男二人で何の話してるの? どうせしょうもない話でもしてるんでしょ?」
その声が、思ったよりも近くて、思ったよりも甘やかだった。
バーカウンターの奥でグラスを磨いていた日吉が顔を上げ、隣で片付けをしていたシンジが一瞬固まった。
その入口に立っていたのは、他でもない――佳奈だった。
「佳奈さん……?」
「へへっ、来ちゃった」
いつもなら静かに入ってきて、何も言わずカウンターの隅に腰を下ろし、
「エール、いつもの」
と短く告げる女が、今日は明らかに違っていた。
グレージュのカシミアのコートを片方の肩から少しずり落とし、
頬にはほのかな紅潮、瞳にはまるで少女のようなイタズラな輝き。
“酔ってる……”
二人はほぼ同時に気づいた。
そして、同時に思った。
……珍しい。
「ちょっと、何その顔。あたしが酔っ払っちゃいけないわけ?」
「いやいや、そんなことは」
シンジが慌てて椅子を引くと、佳奈はそれを無視して自らすとんと腰を下ろした。
いつものカウンターの端ではなく、ちょうどふたりの間――中央に。
「その、エール……今日は?」
「いいの。もう飲んできた」
そう言って、くすっと笑った。
その笑顔がまた、ずるかった。
いつもの“重たさ”がない。
何も背負っていない“素の佳奈”が、そこにいた。
「で、なに話してたの?」
シンジは答えに詰まり、日吉は肩を竦めて言った。
「おまえの話だよ」
「え?」
佳奈は一瞬ぽかんとして、それから、いたずらっぽく眉を上げた。
「ふーん。そんなにあたしって話のネタになるの?」
「なるに決まってるでしょ」
シンジが、ぽつりと言った。
佳奈は、その声に少しだけ目を見開いた。
「……褒めてくれてんの?」
「もちろんです。誰だって、佳奈さんみたいな人がいたら、そりゃ……気になりますって」
その言葉に、佳奈はふっと肩の力を抜いて笑った。
「そっか。……ねえ、シンジくんって、正直すぎるのよ。可愛いけど」
シンジは真っ赤になった。
日吉は黙って、氷をグラスに落とした。
その音が、店内の空気を一度リセットする。
佳奈は、しばらく黙っていた。
ふたりの視線を外し、カウンターの木目をじっと見ていた。
やがて、ぽつりとこぼす。
「今日はね、なんだか泣きたくなる日だったの」
「……何かあったんですか?」
「ううん、なーんにも。誰が死んだわけでもないし、何かに失敗したわけでもない」
「じゃあ、どうして……?」
「分からない。ただ、心の奥に、ぽっかり穴が空いたような日ってあるじゃない。
何かがあって、何かが足りないような。そんな感じ」
静かになった。
ふたりは何も言わなかった。
佳奈の指が、空のグラスの縁をなぞる。
「でもね、ここに来ると安心するの。いつもの場所、いつもの音、いつもの人たち。
それだけで、あたしが“あたし”に戻れる」
彼女はそう言って、シンジの方を見た。
「だから、ありがとうね。話してくれてたんでしょ? どんな話かは知らないけど、きっとあたしが知らない“あたし”の話だったんだと思う」
シンジは、胸が熱くなるのを感じた。
彼女は、ほんのわずかの時間だけ、“過去”からも、“痛み”からも解き放たれている。
そしてそれは、たぶんこの店だからこそ、できることだった。
佳奈はふと、立ち上がった。
「さて、もう行くね。今夜は“いつもの席”じゃなくて、特等席だったから、ちょっと照れた」
そう言って、くるりと踵を返す。
出口に向かうその背中は、やっぱり少しだけ、揺れていた。
けれどその揺れが、妙に綺麗で、いとおしくて。
扉のベルが鳴る。
彼女の気配が店を出ていったあと、日吉が小さく呟いた。
「……あの人の笑い方、ずるいよな」
「……はい」
シンジも、同じように呟いた。
その夜、二人のグラスは、なかなか乾かなかった。




