第十二話 夜は噓をつかない
「佳奈さん、綺麗ですよね。見ていると、胸が熱くなるほどに」
それは、閉店前の静かな時間だった。
グラスを磨く手を止めた日吉が、ふっと眉を上げた。
「……お前のお袋と同じくらいの歳だぞ?」
「それが何だって言うんですか」
シンジは口を尖らせて、棚の奥のグラスをひとつずつ拭いていた。
「佳奈さんの魅力は、時間を重ねたぶんだけ深くなってるんですよ。
あの、時折見せる悪戯っぽい笑顔とか、言葉の裏に滲む優しさとか……それに、あの声。
ふと耳にすると、胸の奥をなぞられるみたいで」
断言するような口調に、日吉は思わず笑い声を漏らした。
「お前、恋にでも落ちたのか?」
「……かもしれませんね」
真顔で答えるシンジに、日吉の眉が再び跳ね上がる。
「おい、そんな目で見るなよ」
「えっ、な、何のことですかっ!」
狼狽えるシンジに、日吉はわざとらしくため息をついた。
「まったく……ま、気持ちは分からなくもないけどな」
カウンターの一番端。
そこに腰を下ろす佳奈の姿は、この店の景色の一部だった。
どんなに騒がしい夜でも、どれだけ空気が濁っても、彼女がそこに座るだけで酒場は静まる。
彼女のまわりだけ、空気が一段階深く、落ち着いている。
若い女にはない色気。
そして、歳だけでは得られぬ透明さ。
それは“生きてきた時間”の結晶だった。
「事実、ここ数年、佳奈目当ての客は確実に増えてるからな」
日吉が棚からボトルを下ろしながら言った。
「毎晩来る常連の半分は、あの人が来るかどうかで時間を決めてるって話もあるくらいだ」
「え……それ、ほんとに?」
「ああ。……まあ、それでも誰にも気を許さないけどな、あの人は」
「……俺だけには、微笑んでくれますよ」
シンジがふと呟いた。
日吉がその言葉に茶を吹きそうになるのをこらえて、視線を投げる。
「……ほう?」
「いや、そんな意味じゃなくて……俺が、たまに疲れてるときとか、見抜くんですよ。
“今日は、カシスソーダじゃないの?”って、俺が飲みたいと思ってたやつを言い当てたりする」
「……気に入られてるのかもな」
「そう……だったらいいな、って思います」
シンジは照れたように笑ってから、ふっと表情を変えた。
「でも、あの人の目って……たまに、どこ見てるか分からないときあるんですよ。
まるで、この店のどこにもいない誰かを、ずっと探してるような」
日吉は何も答えなかった。
だが、その言葉に、どこかで思い当たる節があるようだった。
「“ウルカ”って、前に名前を呟いたことがあるんです」
「ウルカ……?」
「名前かどうかも分からない。でも、あの人の口から、突然こぼれたんです。
呼び捨てでもなく、恋人のようでもなく……魂で呼びかけるような声でした」
酒場に、しんとした静寂が落ちる。
「――この店は、時間の外側にあるって、マスター言ってたじゃないですか。
あの人はもしかして……その時間の外側で、何かをずっと……待ってるんじゃないかって」
日吉は、黙ったままグラスを磨き続けていた。
シンジの視線は、店の端の席へと移る。
そこに、カナはいない。
今日は来ていなかった。
けれど、まるで彼女の香りだけがまだ残っているようだった。
グラスの奥に、夜が映っていた。
そこに揺れているのは、酒ではない。
誰かを想い、時を超えてなお輝き続ける、“面影”だった。




