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輪廻の恋人  作者: 56号
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第十一話 酒場にて

その夜、カウンターの端には珍しく二人分のグラスが並んでいた。


いつもなら一人で、誰にも干渉されず、酒と煙とだけ言葉を交わす女・カナ。

その彼女が、隣に男を連れてきた。


それだけで、店の空気がわずかに緊張した。


「この人、今日だけは許してね。すぐ帰るから」


そう言ってマスターに目配せをする。

日吉秀明――この店の主は、無言で頷き、グラスを磨きながら様子をうかがった。


男は50代前後か。

三揃いのスーツに黒光りする靴。

頭髪こそ多少の後退を見せていたが、背筋は伸び、品のある所作とやわらかな物腰。

その男が、酒場の灯に照らされるカナをどこか慈しむような目で見ていた。


「姫路の国立大学病院で外科部長をしてるんですって」

カナが軽く笑った。

「昔、私の指導医だったの。医大のとき」


日吉は少し驚いた。

カナが医者だった――それも、脳外科の若き逸材だったと初めて知った。


「いや、“だった”か」

カナはグラスを傾けながら言う。

「今はもう、メスを握ってない」


男は口を挟まず、ただ、彼女を見つめ続けていた。


「俺がセンター長をやる予定でね。神戸にできる先進医療センター。今度、新設されるんだ」


男は静かに言った。


「佳奈、お前さえ良ければ――もう一度、一緒にやりたいんだよ」


カナの瞳が、一瞬揺れた。


「私なんかより、もっと優秀な子たちがいっぱいいるわ」


「そうかもしれん。でもな、俺が一緒にやりたいのは、技術や肩書じゃない。

あの頃、患者の命を前にして黙って震えてたお前の背中、今も忘れられないんだよ」


「……そんなもの、美化しないで」


カナはそう言いながら、どこか遠くを見るような目をした。


彼女の目は、確かに“ここではない場所”に焦点を合わせていた。


外科医として名を馳せた過去、神戸の大学病院で助手から助教へ、誰よりも早く昇進の道を歩いた女。


だが、その光のようなキャリアの中で、ある患者の命を落とした。

名も知らぬ少年だった。

術式に問題はなかった。執刀医が誰であっても結果は同じだった。


その日から、彼女はメスを握れなくなった。


理由は語らない。

泣き言も言わない。

ただ、すべての器具を封じたまま、この街の片隅で、夜な夜なグラスを傾けるようになった。


「……カナ、今なら挽回できる。お前は、もう十分に痛みを知っただろ?」


男の声は、静かだった。


それは優しさであり、医師としての誠実でもあった。


カナは、グラスを置いた。

深く息をつき、男の方にゆっくりと向き直った。


「ありがとう。そう言ってもらえるのは、ほんとに嬉しい。……でも」


「でも?」


「私、もう、人の命を扱う場所には戻れないの。そこにいるとね……心が、追いつかなくなるのよ」


男はしばらく黙っていた。


そして、グラスを空けると、そっと立ち上がった。


「……分かった。無理は言わない。俺の夢を押し付けるつもりもない」


「ごめんね」


「いや。今のお前の目、ちゃんと“何かを見てる目”だった」


彼はそう言って、ほんの少し笑った。


「……俺の部下に、今度この店を紹介してやるよ。いい店だな」


日吉がうっすら笑う。


「ありがとうございます」


男は軽く会釈して、夜の通りへと姿を消した。


残されたカナは、ゆっくりとカウンターの中央に移動し、日吉に告げた。


「じゃ、いつものエール、お願い」


「……断ってよかったのか?」


「うん」


その瞳に、未練も後悔もなかった。


「もし彼の申し出を受けてたらね、私は“医師としての自分”に戻れたと思う。

でも、それは“今の私”じゃないの」


日吉は黙ってグラスに琥珀色の液体を注いだ。


「この店に来るようになって、分かったの。私が本当に待ってるものは、地位でも仕事でも名声でもないって」


カナはグラスの泡を眺めながら、ふっと笑った。


「……ねえ、マスター。前に言った名前、覚えてる?」


「ウルカ、だろ?」


「そう。あの名前を聞いて、何も感じなかったら、私は戻っても良かった。

でも、やっぱり、今夜も喉まで来たのよ。その名前が」


「――“彼”を、待ってるんだな」


カナは、頷いた。


「どんな職業に就いていても、どんな時代にいても、私はきっとずっと彼を待ってたんだと思う。

そして、いまやっと、“私”のままで、それを待てる場所を見つけた気がするの」


夜の酒場に、またひとつ氷が落ちる音が響いた。


外では春の風が強くなり始めていた。


桜の花散り始めるだろう。


それでも、ここには静かな時間が流れていた。


カナは、またひとくち、エールを飲んだ。


それはまるで、まだ出会わぬ彼に向けた乾杯のようだった。

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