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輪廻の恋人  作者: 56号
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第十話 遠い異国のどこかで

いつの時代、どこの街かも分からない。

朝は来るが、昼がない。

夜はあるが、終わらない。


文明も、言語も、歴史もない。

それでも、人は酒を飲みに来る。


そんな不思議な酒場があった。

名もない裏路地の、そのまた裏手。石畳も剥がれかけ、看板も灯っていない。

それなのに、毎晩のように人が集まってくる。


カウンターの端に、必ず同じ時間に現れる中年の女がいた。

名を、カナという。


歳の頃は四十を少し回ったあたりか。

くすんだバーガンディ色のスーツジャケットに身を包み、唇には深いワインレッド。

ハイヒールを脱ぎ、足首を軽く組んで腰を下ろす。


「エール、いつもの」


それだけを告げると、グラスを受け取り、ほんの少し目を細めて喉を潤す。


以前、ふとした会話で「若い頃はよくモテた」と笑っていた。

いや、今だって十分に男を惹きつける女だ。


整った顔立ち、肉感的な身体つき。

年齢を重ねるごとに“艶”を身にまとったような美しさがある。


店の客の多くが、少なからず彼女に色目を使う。

が、彼女は誰にも興味を示さない。


決して冷たくはない。

それどころか、軽口のひとつふたつは応じる。

冗談に肩を揺らし、時には手を貸すことさえある。


だが、その奥にあるもの――

心の芯、魂の本質のようなものには、誰も触れられない。


彼女の目は、どこか“ここではない場所”を見ているのだ。


ある晩、珍しく彼女が酒を煽りながら呟いた。


「酒さえあれば、だいたいのことはどうでもよくなるのよ」


バーテンダーがグラスを磨きながら笑う。


「それは名言ですね」


「違うのよ、本当にそうなの。……だって、今がいつで、ここがどこの街かなんて、もう考えても仕方ないじゃない」


「……?」


「私ね、気づいたの。ここにいる人たちって、みんな“どこから来たか”を忘れてるのよ。でも、“誰を待ってるか”は覚えてるの」


彼女の指が、グラスの縁をなぞる。


「私もよ。誰かを、ずっと待ってる気がするの」


「どんな人を?」


「分からない。ただ――名前だけは時々、喉まで来るのよ。『ウルカ』って」


その名を口にしたとき、酒場の空気が微かに揺れた。


「ほら、また……おかしいわよね。ウルカなんて、聞いたことないでしょ?」


バーテンダーは答えなかった。

だが、何人かの客が、そっとグラスを置いて彼女を見た。


その目に、同じような痛みが浮かんでいた。


この酒場は、きっと“魂の待合室”なのだ。


生まれる前か。

死んだ後か。

あるいは、生きていても心が“辿り着いてしまった者”たちの居場所。


カナもその一人だった。


誰かを待ち、

どこかへ戻ろうとしながら、

今夜も、エールの泡にまぎれて何かを忘れようとしている。


「……ウルカって、たぶん、私がずっと探してる名前なの。過去か未来かも分からない。でも、会ったら、きっと分かる気がする」


「どこで会うと思います?」


「この世界じゃないどこか、……春の桜の下。

井戸のそば。港のベンチ。そんな場所にいそうな気がするのよ」


ふっと笑って、グラスを傾けた。


「でも、まあ。今夜は、まだここにいるわ」


照明の下で、彼女の髪に淡い金色の光が差し込む。


静かに流れるジャズ。

誰かが拍を刻むようにテーブルを叩いている。


時間は止まっているようで、動いている。

この酒場には、そんな“永遠の一夜”が流れている。


カナは微かに口角を上げ、グラスの底を見つめた。


「……ねえ、もしまた会えたら、今度こそ名前を呼んでみるわ」


誰にともなく、そう言った。

けれどその声音には、確かな温度と祈りがあった。


彼女は知っているのだ。


“この夜を抜けた先に、必ず、彼がいる”。


名もなき街の、名もなき夜の、

永遠に閉じた扉の向こうで、

いつかまた開かれる朝があることを。

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