第五章:継がれる気配
いよいよ『透明な境界線』も、第五章「継がれる気配」で最終章となります。
この章では、主人公・茜がこれまで歩んできた道を振り返りながら、今度は“次の誰か”へと想いをつなげていく姿を描いています。
白衣をまとったその背中に、最初はなかった確かな気配が灯っていることに、ぜひ気づいていただけたら嬉しいです。
最終章、どうぞお楽しみください。
十月に入り、空が澄んできた。
新しい月の始まり。茜はナースステーションのホワイトボードに記された「新人OJT担当:相沢」の文字を、何度も見返していた。
「緊張してるの?」
隣から声をかけたのは、柚木だった。彼もかつて茜の指導を受けた後輩の一人だ。
「うん、ちょっとね。でも、ようやくここまで来れた気もしてる」
「相沢さんなら、きっと大丈夫です」
その言葉に、茜は心の中でそっと笑った。
午前中、初めての指導対象となる新人・高梨が配属されてきた。硬く緊張した様子で挨拶するその姿に、かつての自分の影が重なる。
「私も、ここに来たばかりのときは怖かったよ」
「えっ、相沢さんが……?」
「うん。毎日ミスばかりで、自信なんてひとつもなかった。でも、いろんな人が、ちゃんと見ていてくれた」
そう語る自分の声が、以前よりも落ち着いていることに気づく。声だけではなく、白衣の着心地も、もうあの頃とは違っていた。
午後、休憩を取ろうと更衣室に入ると、佐伯がちょうど外から戻ってきた。
「お疲れ。……新人、来たんだって?」
「はい。今朝から。一緒にひとつずつ回ってるところです」
「背中を見せるのも、なかなか緊張するよな」
「ええ。でも、早瀬さんや、佐伯さんたちに見せてもらった背中があるから」
その言葉に、佐伯が珍しく少し視線を逸らす。
「……そういう風に言われると、悪くないな」
ふと、茜のPHSが鳴った。病棟からの軽度コール。
「行ってきます。また、あとで」
「相沢」
呼び止められて、振り返る。
「今度の休み、昼間に、例のコーヒーでもどう? あたたかいやつ」
不意を突かれて、茜は思わず笑った。
「……はい。楽しみにしてます」
その返事のあと、白衣の裾を整えながら、茜はふと呟いた。
「“気づく”って、たぶん、自分を開くことなんですね」
夜明けの光が差し込むナースステーション。 彼女の白衣には、かつてもらった言葉と、いま交わしている言葉とが、確かに縫い込まれていた。
誰かの声に耳を澄ませながら歩いてきた日々。 そして今、自らが誰かの背中に、そっと光を置いていく。
翌週、院内多職種合同勉強会が開かれた。
茜は、看護師代表として「患者の“声にならない声”に気づくこと」をテーマにしたパネルディスカッションに登壇していた。
「私が看護師として一番大切にしているのは、“観察”よりも“まなざし”です。数字やデータはもちろん大切。でも、その数字の向こうにいる人の、かすかな表情や沈黙の意味に、耳を澄ませること——それが、私の看護です」
会場は静まり返っていた。
登壇者の一人であるCEの佐伯は、客席の端に腰を下ろしながら、その言葉を静かに噛み締めていた。数カ月前には想像もできなかった茜の堂々とした姿。
パネル終了後、休憩スペースで顔を合わせたふたりは、言葉少なに会釈を交わす。
「……さっきの、良かったよ」
「ありがとうございます。緊張しましたけど……なんだか、“今の自分”を話せた気がしました」
「俺たちは“機械の声”を聴く訓練ばかりしてきた。でも今日、君の話を聞いて、“機械の向こうにある人の声”ももっと見なきゃなって、思った」
それは佐伯にしては珍しく、感情の込もった口調だった。
「佐伯さん、変わりましたよね」
「変えられた、のかもな」
茜は小さく笑った。
その夜、彼女はロッカーで白衣をたたみながら、自分の中で何かが一段階、変わったことを感じていた。
いつの間にか、ただ“学ぶ側”だった頃の自分から、誰かに“何かを渡す側”に立っていた。
そしてその“何か”は、きっと言葉でも記録でもなく、背中で示す静かな気配——そう、かつて早瀬や里美がくれたように。
翌日の昼下がり、茜は新人の高梨とともに回診に回っていた。
患者一人ひとりの表情や息づかいを確認しながら、高梨にも声をかける。
「今、どんなふうに見えた?」
「えっと……表情は穏やかでしたけど、少し呼吸が浅い気がして……」
「そうだね。表情と呼吸の差、そこが“違和感”の入り口になることもあるよ」
高梨は真剣な面持ちで頷いていた。まだ表情は硬いが、少しずつ視線が患者に向かってきているのがわかる。
「わたしも、最初はわからないことだらけだったよ。毎日、目の前のことをこなすだけで精一杯で……」
「……でも、今の相沢さんは、すごく落ち着いて見えます」
「そうかな。たぶん、たくさんの人に支えてもらってきたから、かな」
そう言いながら、茜は過去の患者たちの顔を思い浮かべていた。田代さん、里美さん、上原さん——そして早瀬の背中。
午後、ナースステーションで記録を整理していると、佐伯がふと現れた。
「回診、ご苦労さん。……あの新人、なかなか筋がいいな」
「ありがとうございます。まだ緊張してるけど、すごく真面目で。自分の頃を思い出します」
「……あの頃の君、もっと顔に出てた気がするけどな」
「えっ、それ褒めてます?」
「もちろん」
不意の軽口に、茜は照れたように笑った。
「今日さ、ひとつ気づいたんだ。俺、今まで“機器を守ること”ばかり考えてた。でも、君を見てると、“人を守るために機器を使う”って意識になる」
茜は、思わず息を飲んだ。
「……私も。佐伯さんの対応見て、“不安を取り除く準備”が整ってるって、安心できるんです」
ふたりの間に、ふとした沈黙が流れた。
けれどその沈黙は、かつてあったような“壁”ではなかった。心地よく、余白を残して繋がっているような——そんな静けさだった。
夕方、茜は病棟の窓際に立ち、夕陽がガラスに反射する様子をじっと見つめていた。オレンジ色の光が白衣に落ち、その影が床に淡く映る。
「伝えるって、難しいね」
ふと口に出た言葉に、誰も応えはしなかった。けれど、そのひとり言は、自分の胸にまっすぐ返ってきた。
——伝えるとは、教えることではない。気づくとは、見抜くことではない。
きっとそれは、誰かと“揺れ”を共有しようとすること——
そしていま、その揺れの真ん中に、そっと誰かが寄り添ってくれていることを、確かに感じていた。
その誰かは、患者であり、後輩であり——そして、隣に立つ同僚かもしれない。
白衣の裾が静かに揺れた。
週末、茜は久しぶりに完全オフの休日を迎えた。
前夜の勤務を終え、ベッドに倒れ込むように眠り、昼近くにようやく目を覚ました。
窓の外には、秋らしいやわらかな光が差している。どこか風が優しく、街の音も遠く感じられた。
「……よく寝た……」
ソファに座り、コーヒーを淹れながら、ふと昨夜の佐伯の言葉を思い出す。
——「次の休み、昼間に、例のコーヒーでもどう? あたたかいやつ」
連絡を取ろうか迷っていたとき、スマートフォンが震えた。
《今から一杯どうですか。ホットで》
シンプルなメッセージに、自然と頬が緩む。
「はい。行きます」
返信を送ったあと、白衣ではない服を選ぶのに少しだけ時間がかかった。
待ち合わせたのは、病院から少し離れた小さな喫茶店だった。白衣を脱いだ佐伯は、いつもより少し柔らかく見えた。
「おすすめっていうほどでもないけど、ここ静かで落ち着くんだ」
並んで座った窓辺の席からは、街路樹の葉が風に揺れているのが見えた。
「相沢さん、普段はどんな風に気持ち切り替えてるの?」
「んー、夜の病棟をひとりで歩いたり、患者さんのメモ読み返したり……あとは、誰かとちょっと話すとか」
「誰か、ってのは?」
「……最近は、佐伯さんかな」
言ってから少し照れくさくなり、茜はカップに口を運んだ。
佐伯は、それ以上何も言わなかった。ただ、ゆっくりとうなずいていた。
コーヒーの香りがふたりの間に静かに満ちる。
「職種が違っても、こうやって気持ちが重なる瞬間があるんだなって、最近よく思うんです」
「うん。俺も、そう思うようになった。……君がいたから、気づけたことがある」
茜は少しだけ目を伏せた。
けれどその手元の影には、確かに、静かでやわらかな光が落ちていた。
月曜日の朝、茜は白衣のボタンをとめながら、鏡の中の自分に一礼した。
「今日も、お願いします」
かつてのような頼りなさは、そこにはもうなかった。
ナースステーションに向かう廊下の途中、早番の佐伯とすれ違う。
「おはよう」
「おはようございます。……昨日はありがとうございました」
「こっちこそ。いい休日だった」
それだけの短い会話が、互いにとって十分だった。
その日、茜は高梨とともに初のプリセプター指導評価のフィードバックを受ける。
「相沢さんの声かけがあったから、落ち着いて患者さんと向き合えました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥でなにかが、そっとほどけた。
午後、空いた時間に病室を回っていると、かつて担当していた患者の一人から声をかけられる。
「前よりずっと、いい顔してるね」
「そう見えますか?」
「うん。白衣が似合ってる。前より、ずっと光って見える」
ふと、田代の言葉がよみがえる。
“お前の白衣、ちょっとだけ光って見えるな”
あの頃は、その言葉の意味がよくわからなかった。でも今は、少しだけ、わかる気がする。
白衣が光るのは、自分の中に灯したものがあるからだ。
帰り道、ふと見上げた空はすっかり秋の色になっていた。
街の喧騒のなかで、茜はそっと白衣の裾を整え、小さくつぶやいた。
「がんばるか」
その声に、風がやさしく応えた気がした。
今日も、病棟にはいくつもの“気配”がある。
それを感じ、寄り添い、次へつなげていくこと——それが今の自分にできる“看護”なのだと思った。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
『透明な境界線』は、命と向き合う現場で、不器用なりにまっすぐ成長していく一人の看護師の物語でした。
“誰かから受け取った想いを、今度は自分が誰かに手渡していく”
そんな小さな継承が、現場という日常の中で静かに息づいていること。それを描きたかった作品です。
茜の歩みが、読んでくださった方の心に何かを残せていたら、こんなに嬉しいことはありません。