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透明な境界線  作者: 東雲 比呂志
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第四章:灯るもの、託すもの

第四章「灯るもの、託すもの」では、茜が“支えられる側”から“支える側”へと、静かに歩を進める姿を描いています。


誰かから受け取った想いを、次の誰かに託していくこと。それは、看護という仕事の中にある、大切な“継承”のかたちでもあります。


これまで茜が経験してきたことが、少しずつ“他者のため”へと変わっていく。その移ろいに、ご注目いただければ嬉しいです。

 八月の終わり、蝉の声が和らぎ始めた頃、病棟の空気は夏の疲れを引きずっていた。

 連日の熱中症搬送、慢性疾患の悪化、酸素療法の依存度が高い患者の増加。茜はいつもより少し重たい足取りで朝のナースステーションに入った。

 「おはようございます」

 その声に振り返った主任が、申し訳なさそうな表情で一枚の紙を掲げた。

 「ちょっと、急な話なんだけど……来月から早瀬さん、異動になるって」

 手渡されたのは人事通知のコピーだった。

 「え……早瀬さんが?」

 あの病棟の“無言の頼り”のような存在。寡黙だけれど、確かにそこにいてくれる安心感。茜は心のどこかで、それがずっと続くものだと思っていた。

 午後、機器の点検で早瀬と一緒になったタイミングを見計らって、茜は思い切って切り出した。

 「異動、聞きました」

 「うん。まあ、たまには空気を変えるのも悪くないだろ」

 淡々とした声。その横顔には、特別な感傷も見えない。だが、それが早瀬らしいと思えた。

 「……ありがとうございました。私、ここまで来れたのは早瀬さんのおかげです」

 「俺は、ただ機械を整えてただけだよ」

 そう言いながらも、工具箱を閉じる手が一瞬だけ止まった。

 「でもまあ……茜には、もう俺が口出しする必要はない。お前、気づく力があるからな」

 「……気づかせてもらったんです、ずっと」

 それきり、ふたりはしばらく言葉を交わさずに並んで作業を続けた。音だけが、小さく響いていた。

 翌朝、茜は出勤途中にコンビニでコーヒーを買った。何となく、あの日と同じ銘柄を手に取る。

 病棟の窓際で、カップの湯気を見つめながら、静かに誓った。

 (今度は、私が誰かに“気づかせる”番だ)

 白衣の袖を少しだけ握って、茜は廊下へ歩き出した。


 早瀬が異動して数日、病棟の空気にはまだどこか“空白”が漂っていた。

 機器のチェック音、ナースコールの鳴動、アラームの通知。それら一つひとつが、どこか違う響きを持って聞こえる。茜はその変化を“静けさ”と呼ぶには、まだ早いと思っていた。

 そんなある朝、主任から新しい名前が紹介された。

 「今日からこちらに配属になる臨床工学技士、佐伯 涼さんです」

 白衣のポケットに手を差し込んだまま、短く頭を下げた男性がいた。整った顔立ちだが、どこか近寄りがたく、眼差しはやや冷たい印象すらある。

 「よろしくお願いします」

 彼の声は低く、淡々としていた。口数は少なく、自己紹介も最小限。

 茜は内心で、早瀬とはずいぶん違うなと思いながらも、どこか似た“壁”のようなものを感じた。静かで、必要な言葉しか出さないタイプ。だが、その“静けさ”はまだ読めない。

 その日の午後、COPD患者の酸素設定をめぐって佐伯と初めて現場で組むことになった。

 「この方、前回の入院時は3.0L以上で安定してました。今回は2.5でも大丈夫そうに見えますけど、念のため——」

 「記録ではそうですね。念のため、モニタリング強化して様子を見ましょう」

 返事は冷静だったが、そこに否定的な色はなかった。押しつけも反発もなく、ただ機械の視点から語る口調。

 患者のベッドサイドで設定を確認しながら、茜はふと彼の手元を見た。無駄のない動き。だが、呼吸のリズムや表情といった“揺らぎ”に対しては、まだ一線を引いているようにも見える。

 処置が終わり、離れ際に茜は小さく問いかけた。

 「佐伯さん、患者さんの顔って……見ますか?」

 「ん?……必要なときは。だが、大抵はモニターの反応のほうが正直だと思ってる」

 「そうですね。でも、私、患者さんの“黙ってる時間”のほうが、大事なことを伝えてる気がして……」

 言いながら、自分でも少し変なことを言ってしまった気がして、言葉の語尾が小さくなった。

 佐伯は一瞬だけ黙り、それから小さく笑ったような気がした。

 「面白い考えだ。……相沢さん、でしたっけ? 気づき方が独特だ」

 その言葉は、皮肉ではなかった。むしろ、静かな興味のにじんだ声だった。

 翌日のカンファレンス後、ナースステーションの隅で二人が再び顔を合わせたとき、佐伯が不意に話しかけてきた。

 「昨日の患者、今朝はかなり呼吸が落ち着いてたな。君の判断、結果的に正しかったと思う」

 茜は少し驚いて、そして静かに笑った。

 「ありがとうございます。でも、まだまだ読み間違えることもあるので……」

 「俺もだよ。違和感を“数値で捉える”のと、“表情で掴む”のと、どっちが正しいかは……結局、両方必要なんだろうな」

 その言葉が、どこか茜の胸に温かく染み込んだ。

 壁のように見えたものに、ほんの小さな窓が開いた気がした。


 週明けの夜勤、茜と佐伯は再び同じシフトになった。

 病棟の空気は日中とは異なり、静寂の中に張り詰めた気配が漂う。モニター音、点滴の滴るリズム、時折こぼれる患者の寝息。目立った騒ぎはないが、だからこそ小さな変化に敏感になる時間帯だった。

 深夜一時。ある高齢男性患者が急に胸苦しさを訴え、ナースコールが鳴った。

 「相沢さん、SpO2が急落しています。既往に心不全、COPD……」

 新人看護師がやや焦った様子で声を上げる。茜が駆けつけ、患者の顔色を見てすぐに察した。

 「佐伯さん、ハイフローの準備、お願いします」

 佐伯はすでに機器の前に立ち、設定の手を動かしていた。

 「感度中。流量45、FiO2は0.6で入れる」

 茜は患者に声をかけながら、マスクを外し、吸入チューブを慎重に装着した。

 「上原さん、空気を深く吸ってください。そう、今、いい酸素が来てますからね」

 数分後、モニターの数字がゆっくりと回復を示し始め、患者の額に浮かんだ汗もひと筋ずつ引いていった。

 ナースステーションに戻った茜と佐伯は、無言で水を飲んだ。

 「さっき、すぐ気づいたよな」

 佐伯が口を開いた。

 「え?」

 「患者の顔色を見て、俺が思ってたより一段階速い対応だった。……ああいうの、どこで身につけるんだ?」

 「たぶん……失敗した数だけ、ですね」

 冗談めかして言ったつもりが、自分でも少し胸が締めつけられるような感覚を覚えた。

 「私、昔は何も見えてなかったんです。モニターの音も、患者の言葉も。全部、ノイズみたいで」

 「今は?」

 「少しずつ“聴こえる”ようになってきました。音じゃなくて、空気の変化とか、沈黙の重さとか……」

 佐伯は、しばらく黙っていた。

 「……やっぱ、君はちょっと変わってるな」

 「え、それ褒めてます?」

 「褒めてるよ」

 その一言は、機械の冷たさとは違う、温度のある声だった。

 ふたりの間に、深夜の静けさが再び戻ったが、それはもう“壁”ではなかった。


 九月初旬、風にわずかに秋の気配が混ざり始めた頃。

 茜はいつものようにナースステーションで記録をまとめていた。ふと視線を上げると、廊下の向こうに佐伯の姿が見えた。機器管理のルートを回っているらしく、表情は変わらないが、どこか以前よりも肩の力が抜けているように見えた。

 「佐伯さん、お疲れさまです。休憩、少し取りませんか?」

 思わず声をかけると、彼は少し驚いた顔でこちらを振り返った。

 「……じゃあ、少しだけ」

 屋上のベンチに並んで座ったふたり。昼下がりの風は優しく、忙しない病棟の音もここまでは届かない。

 「最近、少し慣れてきました?」

 「まだまだ。ここは変数が多すぎる」

 佐伯がぼそりと呟く。

 「でも、悪くない空気だ。相沢さんが言ってた“気配”って、たぶんこういうのだな」

 茜は笑って頷いた。

 「気づくって、観察とは違うと思うんです。相手を“知ろう”って思った瞬間から、はじまる気がして」

 しばらく沈黙が流れる。

 佐伯が缶コーヒーを手に取り、視線を遠くに向けたまま言った。

 「俺、正直に言うと、前の職場ではほとんど“人の顔”を見てなかった。機械の反応ばかり追ってた」

 「……でも、それで救われた人もきっといると思いますよ」

 「だといいけどな」

 彼の横顔に、ふと柔らかさが宿ったように見えた。

 そのとき、ナースステーションからの呼び出し音が鳴り、茜が立ち上がる。

 「行ってきます。また、ここで休みましょう」

 「……ああ」

 彼女がドアを開けて屋上を出る直前、背後から静かな声が届いた。

 「相沢さん……あんたが、ここにいてくれてよかったよ」

 茜は、振り返らずに小さく「ありがとうございます」とだけ返した。

 ほんの一瞬、胸の奥にあたたかな灯りがともった気がした。


 九月の終盤、日が暮れるのが目に見えて早くなってきた。

 茜はナースステーションでの記録業務を終えたあと、いつもより少しだけ遅く帰る支度をしていた。ポケットの中には、患者から渡された一枚のメモが入っている。

 「ありがとう。がんばれ。お前なら大丈夫だ」

 まだ看護師になりたての頃、小さな震えとともに受け取ったその文字。くたびれた紙ではあったけれど、何度も折りたたまれている痕があるのは、今日も自分がそっと読み返していた証だった。

 「お疲れさまです」

 声をかけられて振り返ると、そこに佐伯が立っていた。

 「これ、今日の記録にあった患者、デバイスの記録と少しズレがあったんで、補足しておきました」

 「ありがとうございます。……本当に、よく見てくださってますよね」

 「まあ、俺にできるのはそれぐらいだから」

 それだけを言って、佐伯は静かにステーションの端へ移動した。が、少しの間をおいてふと足を止め、再び茜に向き直った。

 「このあと、少し時間ある?」

 「……はい。屋上、行きますか?」

 無言のまま頷く佐伯と並んで、エレベーターに乗った。

 屋上では、すでに空が深い群青に染まり、遠くの街の光が静かにまたたいていた。

 「今日、主任に言われたんだ。来月から正式にプリセプターになるって」

 「……そっか。ついに“教える側”か」

 「うん。……でも、こわいです。あの頃の自分を思い出すから」

 佐伯は黙ったまま、手すり越しに夜景を見ていた。

 「怖いままでいいんじゃないか」

 「え?」

 「怖いから、気づける。怖いから、目を逸らさない。……少なくとも、君はそういう人間だと思う」

 茜は驚いたように彼を見た。佐伯の表情は真っ直ぐで、どこか柔らかかった。

 「……ありがとうございます」

 その声に、佐伯は微かに笑った。

 「相沢さんがそういう風に患者を見て、後輩を見て、誰かの白衣の背中を支えていくなら……俺は、それを“いい仕事”だと思う」

 風が、ふたりの間をやわらかく抜けていく。

 「……また、ここに来ましょう」

 「そうだな。次は、もう少し暖かい飲み物を持ってきて」

 「了解です。ちゃんと、あたたかいやつで」

 笑い合うふたりの白衣が、夜風にほのかに揺れていた。

 心のなかに、灯るもの。  それは言葉にならない約束のように、そっとそこにあった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この章では、茜が「伝える」「託す」ことの重みと意味に気づき、またそれを実践しようとする過程を描きました。


新人の頃、自分が受け取った励ましや支えが、今度は自分の手から誰かへと灯されていく。その連なりこそが、医療現場の“静かな継承”なのだと思います。


次章では、茜の歩みを見つめてきた人々にも少し焦点を当てていきます。どうぞお楽しみに。

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