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透明な境界線  作者: 東雲 比呂志
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第三章:光の在処

第三章「光の在処」では、主人公・茜が、自らの過去と向き合いながら“希望”というものの存在に気づいていく姿を描いています。


医療の現場には、苦しみや別れもある一方で、時にふとした一言や出会いが、誰かの心に光を灯すことがあります。


茜にとって、その“光”はどこにあるのか。彼女が探し、見つけようとする過程を、そっと見守っていただければ嬉しいです。

五月の風が心地よい朝、茜は出勤途中に病院の中庭を通った。緑の濃さが日に日に増していくこの場所は、患者だけでなく職員にとっても一息つける大切な空間だ。

 「そういえば、田代さんもここを歩きたいって言ってたっけ……」

 ふと思い出して笑う。

 その日の朝礼で、病棟の看護主任から新しいプロジェクトの案内があった。

 「今後の災害対応に備えて、人工呼吸器やポータブル機器の取り扱い研修を多職種で行います。特に新人看護師や若手スタッフは、積極的に参加してください」

 病棟には緊張が走る中、茜は自然に一歩を踏み出していた。

 「私、参加します」

 千佳が振り返って言う。

 「頼もしくなったわね」

 後日、院内の講習室で行われた研修には、早瀬をはじめとしたCEチーム、医師、理学療法士、そして十数名の看護師が集まった。

 「今日はシミュレーターを使って、実際のトラブル時の対応を確認します」

 早瀬が指導役として前に立ち、講義と実技を行っていく。

 茜は緊張しながらも、CEチームの指導のもとで機器の操作を繰り返し、誤作動時の対応フローを覚えていった。

 「ここで迷っていると、患者さんに負担がかかる。判断を早く、けれど丁寧に」

 早瀬のその言葉に、茜は小さく頷いた。

 研修の終わり、参加者同士で意見交換の場が設けられた。

 「やっぱり、こういうときは“わからない”って言えることが一番大事だと思います」

 茜の言葉に、周囲のスタッフが頷く。

 その帰り際、早瀬が茜に声をかけた。

 「今の言葉、すごくよかったよ。“知らないことを恥じない”ってのは、一番大事な資質だ」

 「それ、最初に失敗ばかりしてた頃、身にしみましたから」

 ふたりは笑い合う。

 その日の夜、茜はノートの余白にこう書いた。

 ——“知らない”は怖い。でも、“知ろうとする”は、誰よりも強い。


 研修を終えて数日後の午後、病棟では一人の高齢女性患者、村上芳江の呼吸状態が不安定になっていた。酸素マスク越しに浅く速い呼吸を繰り返すその様子に、茜はすぐに異変を察知した。

 「SpO2 88%、呼吸数28……補助呼吸を検討したほうがいいかもしれません」

 先輩看護師へ報告しつつ、茜は機器の準備を進める。そのとき、ちょうど巡回に来ていた早瀬が病室に入ってきた。

 「状況確認した。ポータブルCPAP準備する。設定は軽めで開始、観察しながら上げよう」

 テキパキと判断しながら動く早瀬。その隣で茜も黙々と準備を手伝った。ふたりの間に、言葉は少なかったが、空気に無駄な緊張はなかった。

 村上の口元にCPAPが装着され、数分後にはSpO2が92%、呼吸もやや落ち着いてきた。

 「よし、これで様子見。君、患者さんの目元、さっきから見てたよな」

 「……はい。苦しがるとき、涙が少し滲むことが多いって思って」

 早瀬は少し目を細めた。

 「それ、大事な観察だ。機械は数値しか見ないけど、そこに気づけるのが看護師の強みだ」

 病室を出た後、茜は廊下の窓辺でしばらく空を見ていた。新緑の光が差し込むその先に、かつての自分が立っている気がした。

 (“怖い”と思っていた場所が、今は“守りたい”場所になってる)

 夜勤明けの翌日、早瀬が機器点検でナースステーションに来たとき、茜が声をかけた。

 「早瀬さんって、どうしてこの仕事を選んだんですか?」

 早瀬は少し驚いた顔をしたあと、機器を拭く手を止めて答えた。

 「昔、身内が入院しててな。そのとき、呼吸器のアラームが鳴っても誰もすぐに対応できなくて……俺が何もできなかったのが、悔しくてさ」

 静かだが、深い声だった。

 「それで、俺は“音に気づける人間”になろうって思った。たとえ、誰かが見ていなくても」

 茜はその言葉を聞き、胸の奥が震えた。

 「……じゃあ、私も。見えてるものに気づける人間になりたい」

 「いいね。そういう看護師がいれば、患者はもっと安心できる」

 言葉はそれだけだったが、茜の心に、新たな目標のようなものが灯った。

 その日の終わり、茜は記録ノートの最後のページに、こう記した。

 ——“気づく力”は、ただの経験じゃなく、“誰かを守りたい”っていう覚悟から生まれる。


 それからしばらくして、病棟内で小さな機器トラブルが立て続けに起きた。古い輸液ポンプの動作不良や酸素流量計の誤作動といった些細なものだったが、対応が遅れれば患者の命に関わる。

 茜は、すぐに早瀬に連絡を入れる癖がついていた。

 「また古いポンプです。たぶん接続部の緩みかと……」

 「オーケー、今行く」

 短いやりとりの中にも、二人の間には不思議な信頼が生まれていた。茜は数値だけでなく機器の音や匂い、患者の様子から“何か”を感じ取るようになりつつあった。

 ある日、病棟全体の定期点検日。CEチームが病室を順にまわってチェックするなか、早瀬は茜に声をかけた。

 「一緒に来るか? ナースの視点から見えることもある」

 「いいんですか? 行きたいです」

 機器の構造、アラームの仕組み、日常点検のコツ——早瀬は途中、他のCEスタッフにも交えながら茜に丁寧に説明した。

 「このライン、ほんの数ミリの曲がりがあるだけで圧が変わる。見逃しやすいけど、実は患者の呼吸に一番影響する部分だ」

 その細やかな視点に、茜は驚いた。

 「CEって、こんなに“見てる”んですね。静かに支えてくれてるんだな……」

 「目立たない仕事だけどな。でも、“命”って静かに壊れていくもんだから、気づける人が必要なんだよ」

 帰り道、茜は早瀬に尋ねた。

 「私、看護師だけど、もっと機械のこと知っていいですか?」

 「もちろん。知れば知るほど、人に近づける。俺たちの仕事って、結局“人を守る手段”だから」

 その言葉が、深く胸に響いた。

 その夜。茜は初めて、自分から臨床工学の専門書を手に取った。意味の分からない単語もあったが、不思議と苦にならなかった。

 ページの端に、そっとメモを残す。

 ——“支える”ことは、“知る”ことから始まる。


 初夏の陽射しが強くなる頃、病棟には季節性の呼吸器疾患を抱えた患者が増えていた。高齢者も多く、入退院の回転は速い。

 その日、茜が担当していた新規入院患者は、認知症のある男性、石原喜一。入院時点で脱水症状もあり、点滴と酸素投与が開始された。

 石原は機器を嫌がり、酸素マスクを何度も外そうとする。スタッフの手を振り払うこともあり、対応には注意が必要だった。

 「どうしてこんなものをつけられなきゃならんのだ」

 「石原さん、これは息を楽にするためなんですよ。苦しくないようにするためです」

 茜は根気よく説明を繰り返した。だが、彼の拒否反応は根深く、夜勤の看護師からも「危険行動あり」と報告が上がった。

 翌朝、酸素投与にCPAPの併用が検討される。茜は一抹の不安を感じつつ、早瀬に相談を持ちかけた。

 「認知症の患者さんで、マスクを極端に怖がってるんです。CPAP、可能ですか?」

 早瀬はしばらく黙考した後、頷いた。

 「マスクタイプじゃなく、鼻カニューレ型の簡易的な陽圧補助がある。圧は弱めだけど、入門用にはちょうどいい」

 その柔軟な提案に、茜は思わず感謝の言葉を口にした。

 機器をセットし、慎重に患者へ装着を進める。今回は大きな拒否もなく、石原は深く息をついた。

 「……これは、さっきよりマシだ」

 「そうですか、よかった」

 病室の片隅で、早瀬が声を潜めて言う。

 「医療機器は“正しさ”だけじゃダメなんだ。“受け入れてもらう形”がなければ、意味がない」

 「それって……私たちのケアも同じですね」

 ふたりは目を合わせ、静かに頷いた。

 その日、茜は気づいた。

 “正しい”ことを“伝わる”ように届ける。それが、技術と看護の交差点。

 夜、彼女はまたノートを開いた。

 ——“伝える”は、相手の形に合わせて初めて届く。


 六月最初の金曜日。午後の回診が終わったあと、茜はステーションで処置記録をまとめていた。何気なく視線を上げると、早瀬が廊下を歩いてくるのが見えた。

 「早瀬さん、今日もお疲れさまです」

 「おう。そっちもな」

 軽く交わされる挨拶。ほんの一言に、心地よい呼吸が流れる。

 ふと早瀬が足を止める。

 「そういえば、田代さんから手紙が届いてた。病棟宛てだったけど、君にも宛名があったから預かってる」

 茜の胸が小さく高鳴る。受け取った封筒の中には、便箋が一枚。

 『あれから元気にやってます。退院してすぐ、孫と一緒に中庭を散歩しました。あのときの“光ってた白衣”が、今も目に焼きついてます。ありがとう』

 涙が出るほど嬉しい、そんな言葉だった。

 茜は白衣の袖をそっと握りしめた。あの日、患者から託された言葉。そして今も、自分の中で息づく“誰かを支える力”。

 その日の夜、ナースステーションの当直席で書類を整理していた早瀬が、ふと隣に腰を下ろした。

 「そろそろ、次の後輩が入ってくる頃だな」

 「……ですね」

 「君も、もう教える立場になる」

 その言葉に、茜はわずかに驚いたような表情を浮かべたが、すぐに静かに頷いた。

 「そうですね。でも……私も、まだ学ぶことだらけです」

 「教えるってのは、教わることでもある。俺がそうだったから」

 「……私も、そうなれるでしょうか」

 早瀬は少し考えてから、静かに言った。

 「なれるさ。君は、誰かの“変わろうとする瞬間”を大事にできる人間だから」

 それから数日後、新人看護師のオリエンテーションが始まり、茜は初めて“先輩”として名前を呼ばれる。

 指導役という立場に戸惑いながらも、茜は自己紹介のとき、自然とこう話していた。

 「私も、最初は失敗ばかりでした。でも、その一つひとつが、今の私を作ってくれました。だから、みなさんも、怖がらなくていいと思います」

 その言葉は、かつての自分が欲しかった言葉だった。だからこそ、今、それを他人に贈れる自分であることが、少しだけ誇らしかった。

 その日の午後、茜は新人と共に病棟内を巡回していた。新人の一人が輸液ポンプの操作で迷い、声を上げる。

 「ごめんなさい、わからなくなってしまって……」

 茜はそっと隣にしゃがみ、落ち着いた声で言った。

 「大丈夫。ゆっくり確認していこう。一緒に、覚えていけばいいから」

 その背後から、ふとした気配。振り向くと、廊下の向こうで早瀬が機器台を押しながら、目を細めてこちらを見ていた。

 彼は何も言わず、ただ小さく頷いて歩き去っていった。

 白衣の袖が風に揺れる。

 “光って見えた”その白衣は、もう他人のものではない。

 茜は深呼吸し、病棟の扉を押した。その背には、確かに積み重ねてきた日々の重みと、これからを支える静かな光が宿っていた。

 そしてその日。勤務後の控室で、新人がぽつりと呟いた。

 「相沢さんって……なんか、白衣が“あたたかい”感じがするんです」

 その言葉に、茜は少し驚いた後、柔らかく微笑んだ。

 「それ、もしかしたら……誰かが昔、私に言ってくれた言葉かもしれません」

 静かな余韻が、部屋に満ちる。

 あのとき、田代に言われた「光って見えた」という白衣。  その光の正体は、誰かに向けたまなざし、手のひら、そして言葉。

 それらが今、少しずつ誰かに受け継がれている。

 茜は、自分が立つ場所を確かめるように、もう一度白衣の袖を握り、静かに呟いた。

 「ありがとう」


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


「光の在処」とは、決してまぶしいものではなく、むしろ見えにくい場所にそっと灯っているものかもしれません。


この章では、茜がかつて自分が救われた“言葉”を思い出し、それを誰かに渡す側に回る、ひとつの節目となる物語になりました。


次章では、その小さな光を誰かに託す場面が描かれます。どうぞ、引き続きよろしくお願いいたします。

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