第二章:境界線の向こうへ
第二章「境界線の向こうへ」では、主人公・茜が、看護の現場で感じる“目に見えない境界線”と向き合っていきます。
それは、「医療者と患者」「正解と失敗」「役割と想い」のあいだにあるもの。
前章よりも少しだけ彼女の視界が広がり、自分の中にあった迷いや不安に、一歩踏み込もうとする姿を描いています。
茜がどんな“向こう側”を見つけるのか、ぜひ見守っていただければ嬉しいです。
四月の終わり、病棟の窓から見える桜の花が、いつの間にかすっかり葉桜になっていた。新年度の喧騒も少し落ち着きを見せ、病棟の空気にはわずかな緩みが漂い始めていた。
茜はその朝、いつもよりも少し余裕を持ってナースステーションに立っていた。以前のような恐れや焦りはなく、落ち着いた足取りでカルテに目を通している。
「……田中さん、今日から経口摂取再開か。嚥下評価終わったのね」
小さく呟きながら、必要なケアを頭の中で整理する。
千佳はそんな茜の様子を見て、黙ってコーヒーの紙カップを差し出した。
「ちょっとは“看護師の顔”になってきたじゃない」
「……なってますかね」
茜が照れ笑いすると、千佳は一言だけ、「うん」と頷いた。
その日、病棟に新たな患者が転入してきた。
名前は、佐野浩一。60代半ばの男性で、心不全の既往があり、在宅酸素療法を続けているという。救急搬送後、一時的に補助呼吸装置が必要となり、CEによる管理下での処置が求められる患者だった。
「呼吸器つけるのか……」
搬送の情報を聞いた茜の心に、かすかに緊張が走る。
搬入後、すぐに処置が始まり、CEの早瀬も病室に呼ばれた。
「あれは……オートトリガーの誤作動だな。設定調整してみる」
早瀬は素早く呼吸器の画面を確認し、手元の端末で設定を調整し始める。
その様子を見ていた茜は、器械の表示と患者の様子を交互に確認しながら、あることに気づいた。
「患者さん、呼吸が不規則です。苦しそうに胸を抑えてます」
早瀬が顔を上げる。
「なるほど。じゃあ、感度下げてみる。ありがとう」
茜の一言が、設定変更のきっかけになった。
処置が終わり、機器の警告音が収まった病室に、静けさが戻る。
患者の顔色も、次第に落ち着いてきた。
「……助かった。さすが看護師さんだな」
ベッドの上から佐野が息をつきながら笑う。
茜は静かに頷いた。早瀬もまた、何も言わずにカルテを確認し、その場を離れようとする。だが、ふと足を止めて、振り返った。
「よく観察できてた。あれ、ちゃんと“見えてた”な」
それは、あの田代の退院の日にもらった言葉と重なっていた。
あのときよりも確かに、今、自分は“看護師”になってきている——そう思えた。
佐野の入院から数日が経ち、茜は彼の観察とケアを担当することが多くなった。呼吸のリズム、表情、話し方——どれも少しずつ穏やかになり、回復の兆しを見せていた。
「今日は、少し楽ですよ。昨日の夜から、咳も減ってる気がします」
朝の検温中に佐野がそう言ったとき、茜は笑顔で応えた。
「そうですね。データでも安定してきてますよ」
カルテに記録を残しながら、茜はふと思い出したように視線を向ける。
「機械が落ち着いてきたということは、体もそれに応えてるんですね」
「ふふ。なんだか、不思議ですね」
そんな会話ができるようになったのも、つい最近のことだ。
だがその日の午後、病棟で突発的な機器のトラブルが発生した。
佐野の補助呼吸装置が突然、異常な音を立てて警報を鳴らし始めたのだ。茜はすぐに駆けつけ、モニターを確認する。酸素流量の数値が乱れている。
「呼吸数が上がってる……?」
佐野の顔には、呼吸困難の兆候が表れていた。
「早瀬さんを!」
叫ぶと同時に、別の看護師が無線でCE室に連絡を入れる。
数分も経たずに、早瀬が現れた。彼は機器の接続をチェックし、配管を一部取り外して再接続。原因は、加湿フィルターの詰まりだった。
「湿度高すぎて、ここがやられたな。交換すれば直る」
茜はすぐにフィルターを手配し、早瀬の指示で新しいものに交換する。その間、佐野の胸に手を置いて声をかける。
「大丈夫ですよ、すぐに落ち着きますからね」
装置の異音が止み、呼吸も安定したとき、佐野の瞳に少し涙がにじんでいた。
「……あんたたち、本当にすごいな」
ベッドサイドでしばらく無言だった早瀬が、茜に向き直った。
「機械だけ見てると、ただの数字。でもお前、ちゃんと“顔”を見てたな」
「それ、早瀬さんに教えてもらいましたから」
茜の返事に、早瀬は目を細めて笑った。
「そうか。じゃあ、ちゃんと伝わったんだな」
その日の夜、茜は寮の部屋で、ベッドに腰掛けたままノートを開いていた。佐野の顔、呼吸器の表示、フィルターの交換……目まぐるしくも充実した一日を振り返る。
(機械の不調を“数字”としてじゃなく、“人の状態”として感じ取れた)
自分の中で、その実感が大きく育っていることに気づく。
翌日、病棟は午前から少し騒がしかった。新しい医療機器が導入されることになり、CEによるオリエンテーションが開かれるというのだ。
「相沢さん、時間あったら参加してきていいわよ。せっかくだから、機器の話もっと聞いておくといいわ」
千佳にそう言われ、茜は資料片手に会議室へと向かった。
前方のスクリーンでは、早瀬がすでに準備を始めていた。無駄のない手つきで機器のデモンストレーションをしながら、簡潔な解説が続く。
「このモニターはAI補助機能付きで、誤作動の可能性を自動で検出します。けれど、最終的に判断するのは“人間の目”です。だから僕らは、それを補完する存在でなきゃいけない」
その言葉に、茜の胸が熱くなる。
講義が終わった後、参加者が部屋を出ていく中、茜は躊躇いながらも前に進んだ。
「早瀬さん、今日のお話……すごく勉強になりました」
「ああ、そっか。参加してたんだな」
早瀬は腕を組みながら、ふっと笑った。
「君みたいなタイプ、向いてるよ。看護師の視点から“気配”を捉える感覚、あれは機械じゃ真似できない」
その言葉が、茜の中で確かな灯になった。
「ありがとうございます。もっと勉強したいです、機械のことも、人のことも」
「そっか。じゃあまた何かあったら、一緒に見ていこう」
廊下に出ると、午後の日差しが柔らかく差し込んでいた。
白衣の胸元に感じるその温かさが、少しだけ“重み”から“誇り”に変わった気がした。
週明け、朝のカンファレンスで、佐野の呼吸補助が外されることが決まった。茜は安堵と共に、慎重な観察がさらに必要になることを意識する。
「補助が外れたら、一時的に酸素が不安定になるかもしれないからね。こまめにSpO2と表情、見てあげて」
千佳からの指示をメモに取り、茜は佐野の病室へ向かった。
「やっと外れるんですね」
「正直、ちょっと怖いけどな。でも、看護師さんが見ててくれるなら安心だ」
モニターや装置が取り外されるたびに、患者の表情は少しずつ和らいでいく。その変化を、茜は手応えとして感じていた。
機器の撤去とモニター切り替えのために早瀬も病室にやって来た。
「じゃあ、呼吸器オフにするぞ。急変時は吸引の準備だけ頼む」
「はい、準備できてます」
段取りを確認しながら、茜と早瀬は無駄のない連携を取っていた。
補助が外された瞬間、モニターの数値が一時的に不安定になる。茜はすかさず佐野の表情と呼吸パターンを確認し、声をかけ続けた。
「ゆっくり息して大丈夫ですよ、吸って……吐いて……」
やがて数値が安定し、佐野の肩の力も抜けたようだった。
「……看護師さんがいると、不思議と落ち着くな」
そうつぶやいた佐野の声に、茜は笑顔で「ありがとうございます」と応えた。
その日の夕方、CE室の前を通りかかった茜は、少し躊躇しながらもノックをした。
「早瀬さん、今日、ありがとうございました」
「ん? ああ、うん。君の観察力があったから、俺も安心して外せたよ」
不意にそう言われて、茜は息をのんだ。
「俺らCEは、“数字”と“機械”を相手にしてる。でも看護師は、同じ数字を“人”として見てる。そういうの、俺にはない視点だ」
その言葉が、茜の胸に静かにしみ込んだ。
「お互い違うものを見てるけど、目指してるところは同じですね」
「そうだな。だから、組めるんだろうな」
ふたりは短く頷き合い、それぞれの持ち場へ戻っていった。
数日後、佐野の退院が正式に決まった。最初に入院してきたときのあの緊迫した空気を思い出しながら、茜は準備を進めていた。
退院当日の朝、佐野は病室の窓際に立ち、外を見ていた。
「なんだか、ここを離れるのが少し名残惜しいよ」
「それは、いいこと……なんですかね?」
茜の言葉に、佐野は笑った。
「もちろん。君みたいな看護師と、早瀬くんみたいな技士がいたからこそ、俺はここまで戻れた。機械だけじゃダメ、人だけでもダメ——どっちも必要なんだなって思ったよ」
その言葉に、茜は一瞬うまく返せなかった。ただ、心の奥に何かが静かに落ちていく音がした。
退院後のベッドを片付けながら、茜はふとシーツのしわを指でなぞる。
(この空間に、たしかに“命”があった)
廊下を歩いていると、また早瀬とすれ違った。
「佐野さん、無事退院されました」
「ああ。君のケアのおかげだな」
そう言って早瀬は立ち止まり、ポケットから小さな付箋を取り出して茜に渡した。
『これ、佐野さんから預かった。手渡してくれって言われたけど、もう直接の方がいいな』
茜が開くと、そこには佐野の丁寧な文字が並んでいた。
『ありがとう。人の“気配”を信じることができたのは、君のおかげだよ。あなたの白衣には、光があります』
静かに胸にしまい込み、茜はナースステーションに向かって歩き出す。
白衣の裾を握りしめながら、ぽつりと呟いた。
「さあ、次の患者さんが待ってる」
お読みいただき、ありがとうございました。
この章では、茜が「自分の看護とは何か」に向き合い始める姿を中心に描きました。
境界線というのは、越えるためにあるのではなく、気づくためにある——。そんな想いを込めています。
彼女が少しずつ“人と人のあいだ”にある繊細な距離感に気づき、それでも手を伸ばしていこうとする。その小さな成長が、今後の彼女の看護観を形づくっていきます。
次章も、どうぞよろしくお願いいたします。