表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明な境界線  作者: 東雲 比呂志
1/5

第一章:白衣の重み

この物語『透明な境界線』は、とある新人看護師の成長を描いた、少し静かで、でも確かにあたたかい物語です。


医療の現場に立つということ。それは知識や技術だけでなく、目に見えない“何か”を感じ取ることでもあるのかもしれません。


第1章では、主人公・相沢茜が新人として現場に飛び込み、戸惑い、傷つき、それでも前に進もうとする数日間を描いています。読んでいただけたら、とても嬉しいです。


それでは、どうぞ本編へ。

 春、総合病院の心臓血管外科病棟に配属された新人看護師、相沢茜。入職初日、真新しい白衣を纏った彼女は、緊張と期待を胸に病棟の扉をくぐった。

 ナースステーションの扉を開けた瞬間、空気が変わった。まるで、何かしらのルールと秩序が空間に満ちているような感覚。カルテの束が並び、電話が鳴り、複数の看護師が立ち働くその光景は、学校の実習とは比べ物にならないほど生々しかった。

 「おはようございます……」

 茜の声は、自分でも驚くほど小さかった。先輩たちはそれぞれの作業に追われながらも、一人二人と短く挨拶を返してくれた。

 「相沢さんね。今日からよろしく」

 茜の担当となるプリセプター、西村千佳が笑顔を向けてくれた。長い髪を後ろで一つにまとめ、淡々とした口調だが、不思議と安心感がある。

 申し送りが始まった。夜勤の看護師が、次々と情報を口にしていく。患者の状態、検査予定、医師の指示──どれもが早口で、しかも略語だらけだ。

 「CT入って、午後カテ……」

 「B3の術後、今朝のDr.指示で補助離脱開始」

 言葉が、頭の中をすり抜けていく。誰かが話すたびに、周囲の看護師が即座にメモを取り頷くのに、茜だけが置いていかれる。

 まるで、周囲の人間だけが別の時間を生きているようだった。

 その感覚を引きずったまま、千佳に連れられて病棟内を回る。

 「これがB2の患者さん。午前中に検温と点滴交換をお願いね」

 言われたとおりに点滴の準備に入る。だが、輸液ポンプの操作に手間取り、針の向きが合わず、針刺し寸前で手が震えた。

 「ちょっと交代しようか。焦らなくていいよ」

 千佳の声は優しかった。でも、悔しかった。

 私は、学生時代、実習では褒められることも多かった。それなのに──現場ではまるで役に立たない。

 午後、病室のベッドメイキングの最中に、患者から「大丈夫か?」と声をかけられる。

 「緊張してますか?」

 見透かされていた。茜は無理に笑って「大丈夫です」と答えたが、心は沈んでいた。

 勤務が終わるころには、足は棒のようで、思考力はほとんど残っていなかった。

 寮の部屋に戻り、白衣を脱いでソファに座る。ふと、脱いだ白衣を手に取り、抱きしめた。

 「本当に、私……看護師になれたのかな」

 独り言がこぼれた。

 誰もいない部屋に、その声だけが響いた。


 翌朝、茜はアラームの音で目を覚ました。体は重く、足は筋肉痛のように鈍い痛みを発している。それでも、布団から抜け出し、制服に袖を通す。鏡の前で髪を結びながら、自分に問いかける。

 「昨日よりは、少しだけうまくやれるはず……」

 再びナースステーションの扉を開けた茜は、昨日と変わらぬ慌ただしい空気に少しだけ身構えた。千佳が既に来ており、タブレットを操作して電子カルテを確認していた。

 「おはようございます」

 茜の声に千佳は顔を上げ、「おはよう。じゃあ今日はカルテ入力、やってみようか」と促した。

 電子カルテの操作は、研修でも一応習ったはずだったが、いざ現場で触ると緊張で指が震える。患者のバイタルを入力するだけなのに、心拍数や血圧の欄を取り違えてしまう。

 「……あれ? 保存ボタンが出てこない……」

 間違いに気づかず保存をかけようとしたとき、後ろから声がした。

 「相沢さん、ちょっと来てくれる?」

 看護師長だった。

 別室に呼ばれ、ミスの説明を受ける。カルテの数値入力ミスは、医療事故にもつながる重大なものだ。表情を崩さない師長の語り口が、逆に胸に突き刺さる。

 「あなたのことを責めているわけではないけど、記録は患者の命に関わること。自分で見直す習慣、身につけましょうね」

 「……はい」

 茜の声はかすれていた。

 病棟に戻ると、千佳が何も言わずにそばに立ち、午後の処置を手伝ってくれた。気まずさと申し訳なさで顔を上げられない茜に、千佳は静かに言った。

 「失敗は誰でもする。でも、同じことを繰り返さなければ、それは“学び”になる」

 その言葉に少しだけ救われる。

 午後の病室では、田代剛という中年男性の患者を担当することになった。心臓手術後の経過観察中で、補助循環装置が装着されていた。

 茜が名乗り、検温に入ろうとすると、田代がじっとこちらを見つめた。

 「……新人さんだね?」

 「はい。まだ慣れていないことも多いですが、よろしくお願いします」

 緊張を隠さずに頭を下げると、田代はふっと笑った。

 「まあ、機械に囲まれてると、俺だって怖いさ。だけどあんたみたいに正直に言う子のほうが、こっちは安心できるかもな」

 その一言が、茜の心を少し軽くした。

 だが、その安堵も束の間。

 ベッドサイドで体温計を確認しようとした瞬間、尿瓶がベッド脇の台から落ち、床に転がった。運よく中身は入っていなかったが、ガシャリと大きな音が病室に響いた。

 「あ、ごめんなさいっ……!」

 田代は驚いた表情を浮かべたが、すぐに「大丈夫、大丈夫。誰だって最初はそうさ」と笑ってくれた。

 病室を出た茜は、スタッフステーションの片隅で深く息をついた。

 なぜ、自分だけこんなに失敗ばかりするのか。

 それでも、自分が患者に与えてしまった不安を、田代の言葉が和らげてくれたのも確かだった。

 この日、茜は夜になっても、田代の「正直なほうが安心できる」という言葉を思い出していた。


 四日目の朝。茜は鏡の前でネームプレートを胸元に留めながら、ふと指が止まった。前日の失敗、呼び出された看護師長の言葉、そして田代の優しい声——すべてが頭の中を駆け巡っていた。

 「……今日は、失敗しない」

 気合いを入れて病棟に向かうも、不安は消えてくれない。

 午前のバイタル測定。茜は慎重に体温計を取り、血圧計を巻く。患者の呼吸状態や表情にも気を配るよう努めた。

 そのときだった。

 隣のベッドから、「ピー、ピー」とアラーム音が鳴り響く。補助循環装置のディスプレイが点滅している。茜の動きが一瞬、止まった。

 (どうしよう、何が原因……? 触っていいの? 呼ぶべき?)

 その混乱の中、病室のドアが開き、一人の男性がすっと入ってきた。白衣ではなく、ブルーグレーのユニフォーム。臨床工学技士、早瀬岳。

 無駄な動きの一切ない手つきで機器を操作し、エラーコードを確認すると、配管の接続を点検し、あっという間に異常を解除する。

 「酸素ライン、少し緩んでただけ。異常じゃない、でも見逃しちゃいけない」

 早瀬は機器を指差し、静かに言った。

 「このアラーム、患者が訴えられない不調の“声”だよ。覚えといて」

 それだけ言って、彼はすぐに立ち去ろうとする。

 茜は思わず声をかけた。

 「あの……ありがとうございました!」

 背中越しに、早瀬が片手を軽く上げた。それが返事だった。

 午後、ナースステーションでの記録作業中、茜は意を決して千佳に聞いた。

 「早瀬さんって、いつもああなんですか?」

 「うん。無愛想だけど、腕は確か。あの人、機器のトラブルなら医師よりも早く駆けつけるって言われてるくらいだから」

 「そうなんですね……」

 初めて現場で“技士”という職種を意識した茜は、点滴やバイタル以外にも、患者の命を守る仕事が存在することを実感する。

 夜、寮の部屋に戻った茜は、記録ノートの片隅に書いた。

 ——アラームは、声なき声。

 ——誰の声かを、聞ける看護師になりたい。


 五日目の朝。茜はステーションの椅子に座り、カルテに目を通していた。昨日の出来事が、ただの「恐怖」ではなく「知識」に変わりつつあるような、そんな手応えを感じていた。

 「相沢さん、今日は田代さんの点滴交換もやってみようか」

 千佳の言葉に、茜は緊張しながらも「はい」と頷いた。

 昼前、田代の病室に入ると、彼は目を閉じて静かに休んでいた。機器のモニターが一定のリズムで作動し、呼吸補助のリズムに合わせて酸素の供給音が響いている。

 (大丈夫、昨日の復習通り……)

 準備を整え、機器の設定を確認しようとしたそのとき、別のアラームが一瞬だけ鳴った。すぐに止まったが、茜は一瞬、手が止まる。

 「……またアラームか?」

 田代が目を開けて言った。茜は笑って答える。

 「いえ、大丈夫です。念のため確認しますね」

 不安を与えないよう気を遣いながら、表示されたログを確認する。小さな圧の変動が原因だったらしく、自動でリセットされたようだ。とはいえ、どこか落ち着かない。

 (こういうときこそ、誰かに聞くべきなんじゃ——)

 茜はナースコールではなく、無線機で臨床工学技士室を呼び出す。しばらくして、早瀬が現れた。

 「自動リセットだったけど、なんとなく気になって」

 そう説明する茜に、早瀬はログを確認し、小さく頷いた。

 「よく見てたな。大きな問題はないけど、経路の湿気が原因かもな。配管、あとで換えておく」

 その対応の正確さに、茜は安心すると同時に、聞いてよかったと思えた。

 田代が微笑む。

 「やっぱり、ちゃんと見ててくれるんだな」

 その言葉が、不思議なほど茜の胸をあたためた。

 午後、ナースステーションに戻った茜は、点滴記録を終えたあと、早瀬に声をかけた。

 「私、もっと機械のこと、知りたいんです」

 早瀬は少し驚いたような顔をしてから、「……なんでまた?」と訊ねた。

 「昨日、早瀬さんが言ってた“声なき声”って言葉が、すごく響いて。それを聞き分けられるようになりたいんです」

 早瀬は一瞬、黙っていたが、やがて言った。

 「そうか。じゃあ、暇なときに機器のチェック、一緒に回るか?」

 「はい!」

 茜の返事は、昨日までよりもずっと大きく、そしてはっきりしていた。


 週の終わりが近づく金曜日の朝。茜は、少し早めに病棟に到着していた。空気はまだ静かで、ナースステーションのモニターに映る夜勤の記録を静かに確認していく。

 (何が起きても、落ち着いて。今日が一番大事)

 そんな思いで迎えた日勤は、田代の退院準備から始まった。彼は順調に回復し、今日ついに退院することが決まっていた。

 「看護師さんのおかげで、ここまで来られたよ」

 着替えを手伝いながら、田代は照れくさそうに笑った。

 退院前の最終確認を終えた頃、病室に早瀬がやってきた。装置の取り外しと、ポータブルモニターへの切り替えが必要だった。

 「じゃあ、やるぞ。こっちは流れ止めてから外すからな」

 早瀬の手つきはいつものように的確だった。茜は彼の動作を間近で見ながら、器具の構造や注意点をひとつひとつ心に刻み込むように見ていた。

 「緊張してる?」と田代が尋ねると、茜は少し笑った。

 「いえ。今は……ちゃんと見えている気がします」

 早瀬がふと茜の顔を見て、微かに目を細めた。

 すべての処置が終わり、田代は車椅子でエレベーターへと向かう。その途中、ふと振り返り、茜に封筒を渡した。

 「これ、ささやかな“お守り”だ。読んでも読まなくても、どっちでもいい」

 見送ったあと、ナースステーションに戻る途中、廊下ですれ違った早瀬が立ち止まる。

 「……相沢」

 「はい?」

 「よくやったな」

 その一言に、胸がいっぱいになる。

 夕方、ロッカールームで制服をたたもうとしたとき、田代からの封筒をそっと開いた。

 中には、手書きのメモが一枚入っていた。

 『ありがとう。あなたがいて、本当によかった。あなたの白衣、ちょっとだけ光って見えました。頑張れ。あなたなら、大丈夫だ』

 茜はそっと白衣を手に取り、襟を整えた。

 「……頑張るか」

 小さくつぶやき、再びその白衣に袖を通す。

 もう、借り物じゃない。

 ステーションへと向かう足取りは、昨日よりも確かで、少しだけ軽かった。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。


第1章「白衣の重み」では、看護師としての第一歩を踏み出した茜の視点を通じて、医療の現場の厳しさや不安、そしてそこにある小さな光を描きました。


誰かの「大丈夫」が、たとえ短くても、どれほど心を支えてくれるか。そんな想いを込めています。


もし感想やご意見があれば、ぜひお聞かせください。次章以降も、茜の歩みを丁寧に綴っていきます。


引き続き、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ