第一話 かりたいとる
治安維持隊の特別チームに、一本の通報が舞い込んだ。路地裏に、様子のおかしい少女がいるという。
有川あかりは、まず小型のスチームバイクにまたがると、真鍮製のゴーグルをそっと目元へ押し上げた。
白革張りのハンドルをきゅっと握りしめ、エンジンの始動音を聞く。
しゅうしゅうと蒸気を吐きながら、震える小さな車体は通りを滑るように駆け出していった。
路地裏の石畳には、無造作に配管が剥き出しになり、行く手を阻んでいる箇所もある。しかし、あかりのバイクは軽やかな小回りが利く。障害物を避けるたび、ハンドルをくるりと返しながら、難なく進路を切り開いていく。
数度の曲がり角を抜けた先、街はずれのひそやかな一角に、袴姿の少女が座り込んでいた。頬を伝う涙に濡れたまま、顔を伏せ、小さな声ですすり泣いている。遠巻きに数名の町人が、心配そうな眼差しを向けていた。
あかりはエンジンをアイドリングに戻し、バイクをそっと停める。額からゴーグルを引き上げると、その金色の縁が夕暮れの光を受けて淡くきらめいた。やわらかな声をかける。
「おはよう。私は有川あかり──特別チームの者です。お名前、教えてもらえるかな?」
少女は涙にぬれた瞳をあかりへ向け、震える小声でぽつりと言った。
「……おも、ち……おもち、たべたい……おかあさん……」
まるで幼子のように、切実に訴える声。その言葉に、あかりは胸の奥を静かに締めつけられた。
腰のベルトポーチから取り出したのは、小型の魂読計器。少女へ向けると、短い電子音が一度だけ鳴った。画面には魂の混在を示す警告ランプ。
中級の「魂濁り」を告げている。もし放置すれば、人格の崩壊は免れまい。
あかりはそっと唇を噛み、小さくつぶやいた。
「登録名、柊咲良……十三歳。中に三歳くらいの魂が入りこんでいるみたい」
そっと咲良の髪に触れると、彼女の震えはわずかに収まった。
「では、修正を始めます」
告げるが早いか、あかりは腰の専用銃を抜き、“追魂銃”を構えた。引き金に指をかけると、先端から穏やかな光線が放たれ、少女の全身を優しく包み込む。
しばしのあと、あかりは銃を下ろした。
「修正、完了しました」
咲良の表情はみるみる晴れやかに変わり、震えも消えた。
「お名前、もう一度教えてくれる?」
優しく問いかけると、咲良は小さくうなずき、澄んだ声で答えた。
「柊咲良です。……ありがとうございました」
咲良はぺこりと丁寧に頭を下げる。
あかりはトランシーバーを取り出し、淡々と本部へ報告した。
「有川です。修正完了。対象は柊咲良、十三歳。現在、保護に移行します」
通信を終えると、再びバイクに跨ったあかりは、ゴーグルをきちんと下ろし、後ろを振り返って囁いた。
「柊咲良さん、どうぞお乗りください。検査と必要な手続きが待っています」
咲良を静かに後部座席へ導き、あかりはスロットルを開放する。白い蒸気を吐きながら、二人乗せたスチームバイクは、路地の闇を裂くようにして走り去っていった。
最近、魂攫いが増えている。
その声は、どこか遠くから届くような響きで、心の中で囁くように聞こえた。
その日の巡魂局の活動は、どれも急を要するものばかりだった。夜が深まる中で、あかりは人々を救い、魂を取り戻すために動き続けていた。どこかに潜む、何者かの影が彼女を試すように。
浴衣を着た幼い少年が、あたりを震わせるように荒々しく動いていた。彼の体の中に、鋭い鋼のような力が満ちていた。
少年の目はもはや、彼のものではない。入ってしまったのは、軍人の魂。震える手で槍を振るうその姿に、あかりは迷いなく駆け寄った。
「大丈夫、怖くないよ」
その一言で、少年の荒れ狂う魂が、ひとしずくの涙に変わった。やがて、彼の目が元の穏やかなものに戻り、軍人の魂はふっと消えた。
あかりは一人静かに思い返していた。
「今の私なら、お母さんを助けてあげられたのに……」
小さな声でつぶやく。その言葉が空に消えていくのを、誰もが気づくことはなかった。
瑞光十一年-1915-