第6話「まずは挨拶から」
公爵家の支援が、シモン家の指導がなければ、とても魔導学院など敷居が高くて入る事は出来なかった。
暗くて、淀んで、どこによりも残酷だと思えた貧民街での生活は、たった三年のうちに記憶の片隅へしまわれた。あるべき今を享受して、いつか大魔導師になって恩返しをしたいという温かい気持ちに包まれるほどに。
「では学院長室に行きましょう」
広い校舎の中を歩く。アルメルの後ろをついていきながら、豪奢な建物のいくらか古びた雰囲気を感じる。七階まである本校舎の階段をいくつも登って、五階を過ぎる頃にはカラスが額に汗を浮かべた。
「……もしかして最上階にある?」
「その通りです。もう一息ですよ、頑張りましょう」
疲れた表情で肩を落としながら歩くカラスとは対照的にアルメルは涼しい顔をしている。基礎学を専攻していたからといって、他の技術に精通していないわけでもない。シモン家きっての大天才とまで呼ばれる彼女は剣術、武術どちらも他の魔導師たちより卓越した技量を持っていた。
「さあ、着きました。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……。ちょっと深呼吸すれば平気だ」
大きく手を広げて、吸って、吐く。魔力の流れをコントロールして体調を整える。武術学科に入ればもっと楽に上がってこれたんだろうかと考えた。
アルメルがその間に扉をノックする。
「失礼します、リゼット学院長」
扉を開けると、壁一面の大きな窓を背に机に向かって大量の書類を睨みつける女性の姿がある。金縁の豪奢なローブを身に纏い、丸い眼鏡のブリッジを指で押し上げて、咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。
「……よく来たな。わざわざ来なくてもお前が説明を済ませれば良かっただろう、アルメル。こっちは前任が辞めてしまって忙しいと言ったはずだが」
「そう言わずに。リゼット学院長も彼女に会いたがっていたでしょう」
眉間にしわを寄せたリゼットが、真紅の髪を手で適当に梳き、とても不服そうに口先を尖らせた。琥珀色の瞳でカラスを睨むように見た。
「新しい名前はカラス・ウォリックだったか。アンゼルムから事情は聞いている。私も古い習慣如きに興味はないから安心しろ。学院生活も充実して過ごせるはずだ。こちらも出来る限りのサポートは惜しまない。……あぁ、それから私に睨まれたと感じるなよ。眼鏡をかけているが、また少し目が悪くなってな」
度が合わなくなってきた事を愚痴に、また書類に視線を落とす。
「正直言って、こんな仕事も辞めたいくらいだよ。目が悪くなっていく一方だ。大して年も取ってないってのに」
「何言ってるんですか、もう五十歳でしょう」
聞いていたカラスがぎょっとする。リゼットはどこからどう見ても二十代後半。あまりに若い外見をしているので、五十歳だとは信じられなかった。
「学院長って本当に五十歳なのか?」
「ああ、何も間違ってはいない」
フッと笑って灰皿の煙草をまた咥える。
「私は魔法で老化を止めている。だが、不完全な魔法でね。視力だけはどうにもならず、元々目が悪かったせいで、なおさらこの歳になって辛い思いをしてるんだよ。お前には、まだまだ分からないだろうがね」
ふーっ、と煙を天井に向かって吐く。勢いよく回るシーリングファンが煙を吹き飛ばすのを眺めて、リゼットは「一生分からなきゃいいのにな」と心底うんざりした声でそう言った。歳を取るのが彼女は嫌いだった。
「ま、そんな事はどうでもいい。仕事がまだ山積みなんだ、後の事はアルメルに任せておく。受け入れ先の寮は先に見繕っておいてやったぞ」
書類の山に向かって軽く指を振ると、一枚がするりと抜けてアルメルの手元にふわりと舞った。彼女が受け取ったのはカラスが入る寮についての書類だ。
「……あぁ、サンジェルマン家の御令嬢が一緒ですか」
「オリーヴなら安心して任せられる。今日は休日だから時間もあるだろう」
忙しいから出て行けと言わんばかりに手で追い払う仕草をされて、アルメルとカラスは顔を見合わせてくすっと笑って「ありがとうございました」と礼だけを言って学院長室を後にする。
「変わった人だね。オレと同じくらい口が悪い」
「でも面白いので退屈はしませんよ。仲が良ければね」
リゼット・ヒルデブラントの性格をよく知るアルメルは、彼女が本心から冷たくしているわけではないと言う。不器用なちょっと偏屈者。突き放すような言葉を言いながらも結局は世話を焼くのが彼女だ、と。
「なるほどね~。……あっ、そういえばさっき話してたサンジェルマン家って言うのは? オレと同じ寮になる人なんだろ?」
「ええ、あれは代々魔導師の家系なんです。シモン家と同じくらい」
魔導師を目指す者なら誰もが知るのがシモン家とサンジェルマン家。どちらも歴代の当主全てが大魔導師であり、才能に恵まれた家門である。
生憎ながら魔力には恵まれても貧民街育ちのカラスには馴染みのない名前だが、アルメルほどの大魔導師ばかりだと分かると驚いた。
「じゃあオレはそんな家門の御令嬢と一緒になるってわけ。アルメルさんの顔に泥を塗らないように気を付けておかないと」
「気にしなくてもいいですよ。見習いは見習い、同じ立場ですもの」
誰でも持つべき最低限の礼儀さえあれば、と付け加えた。
「ハウスタウン地区に行きましょう。実際に会ってみるのが早いですから」




