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黒の大魔導師─貧民街のカラス─  作者: 智慧砂猫


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第56話「見て欲しい」

 アレスと別れて、ひとまず川で水浴びしているというカラスを探す。久しぶりに都会の喧騒や精神に圧し掛かってくる山積みの書類から解放されたひととき。澄んだ空気を吸いながら歩いて、幅の広い川に行き当たった。


(……風が涼しいな)


 ぼんやり川を眺める。煙草を吸いたいが、森はアレスの所有地だ。彼のために用意された、彼の土地。静かな場所で静かに暮らし、静かに修業する。誰の邪魔も入らない理想的な環境。羨ましい、とリゼットはため息をつく。


 次の瞬間、目の前にばしゃっと水の中から顔を出した少女を見つけて、やっと出てきたと疲れた表情で立ちあがって、腰をとんとん叩く。


「ごきげんよう、カラス・ウォリック」


「……? リゼットさん、来てたんだ?」


「お前を迎えに。水浴びというより漁でもしてたか」


「いや、水浴びだよ。汗掻いたついでに泳いでた」


 ぶるぶるっと頭を振って髪の水を払う。


「気持ち良いぜ、リゼットさんも入らない?」


「入らん。というか服を着ろ。裸で帰りたいなら構わんが」


「待って待って、すぐ着るって。ったくせっかちだなあ」


 川からあがって、近くにたたんで置いてあったバスタオルで体を拭く。それからくしゃくしゃに重ねられていた服を着て、ローブを羽織った。


「ここでしばらく過ごして成果はあったか」


「師匠には完璧だって言われたよ。『俺ちゃんを超える日も近いな』って笑ってた。目はなんかこう……ちょっと怖かったけど」


 当然だろうと鼻で笑った。アレスも天賦の才を持っていて、魔導武術に関して彼の右に出る者はいない。今のところは。だからこそカラスの存在は、内心で弟子からライバルに変化しつつあるのだ。


「大丈夫、アイツはお前に気があるんだよ」


「ええっ!? そそ、それってす、好きってヤツ!?」


「ハハハ。ちょっと違うが、ある意味そうかもな」


「え~……。なんか、それは違うなあ……」


「そうか。アレスが聞いたらがっかりするかもしれんぞ」


 下らない冗談だが、真に受けるカラスを面白がって続けると、彼女の背後に大きな影が伸びた。アレスがとても不本意そうな顔で睨んでいる。


「俺ちゃんを下らない話題に出してんじゃねえよ、ババア」


「なんだ、やるか? 運動不足だと思っていたところだ」


 一瞬、勝負を受けるかに見えたアレスだったが、ジッと見て首を横に振った。


「やめとく。引退間近の奴と殴り合うなんざごめんだね。……若作りまでしてるくせに、随分と視力が落ちてるみたいだしな。その眼鏡、まさか伊達か?」


 痛い所を突かれてリゼットが押し黙ってしまった。


「あれ、リゼットさんって目、そんなに悪くなったのか」


「……うむ。私はもう殆ど見えてない」


 今も書類仕事に携われているのは、彼女が視力を失っていく代わりに手で翳せば大体の事は可能だからだ。使い物にならない目の代わりに、魔力が彼女の生活を補ってくれている。


「そいつ、オーレリアの神秘魔法でも治せないの?」


「治さなくていいと頼んだ。もう引退だから必要もない」


 仕事となればミスは許されない。特に責任の強い立場であれば。だが引退してしまえば、自分の事だけに集中していればいい。朝はコーヒーとパンを食べて、昼には散歩をして、夜には健康に良い程度の酒を呑みながらゆっくり眠る。そんな老後の生活が待っている。わざわざ治すまでもないと思った。


「それに大して目が見えて欲しいわけじゃないんだ。この方が仕事から離れる口実にもなるし、なによりもう、見たくないものばかりで疲れた」


 多くの者を失ってきた。良かれと思って始めた事は空回りしてばかりで、大切なものを取りこぼした現実と向き合うのは苦しい。インクで汚れた手を見る度に、魔導師など目指していなければ、何事もなく平穏に過ごせたのではないかと思わずにはいられない。彼女は疲れ切っていた。


「ひたすら魔導を窮めようと生きた結果、我が子を愛してやれなかった。少しでも誰かの役に立つ事を願って創った魔導書は人の命を多く奪った。いくら多くの貢献をしていようとも、私自身は何も救えなかった」


 今は自分の手の形さえぼんやりしている。綺麗なようで汚れ切った手。見れば見るほどに悲しい気持ちになるものを見なくて済む、と。


 聞いていたアレスは黙るしかなかった。だがカラスは違った。


「でもオレはあの魔導書のおかげで救われたよ」


「……? なぜそう思う?」


「だってほら、ハインリヒさんと戦えたわけだしさ」


 ぎゅっと拳を握って、ニコっと笑う。


「この力の扱い方が分かんなかったらオレは勝てなかったと思うし、オーレリアだってそうさ。神秘魔法を学べたおかげで、ナタリアさんも救えた。師匠の腕だって、そのうち治せるって言ってたじゃん。それにアンゼルムさんも大怪我してたのに、今じゃすっかり元気だよ。たまに会いに来てくれるんだ」


 そっとリゼットに優しく抱き着いて、すうっと息を吸って目を瞑った。


「ありがとう。リゼットさんがいたから皆助かったんだ。息子さんの事はよく分かんないけど、オレたちはあなたに救われた。だから目が見えなくなってもいいなんて寂しい事言わないでよ。────オレたちの笑ってる顔、見て欲しいな」

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