第55話「月日は流れて」
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想像だにしない事件から一年があっという間に経った。人々の記憶に衝撃を与え、心に深い傷を負わせた大事件。学院長を務めたリゼット・ヒルデブラントが魔塔で自身の責任について問いただすも、彼女を批判する声はひとつもなく、また多くの人々からも『これからも学院長でいてほしい』との声が相次いだ。
本来であれば魔塔主も学院長も辞任すべき大惨事が起きてしまったはずだと彼女は思い悩んだが、ハインリヒが創り上げたキメラを実質単独で討伐してみせたのもあってか、彼女の代理が務まる者は誰もいないとの判断が下された。
「下らん……。実に下らんぞ、まだ書類仕事に縛られるのか」
うんざりするほど山積みになった書類の数々は魔法の研究や各所で起きている事件の報告書が大多数だ。一年が過ぎても、未だ椅子に座って仕事をしなければならず、余生をゆっくり過ごすつもりだったのにと文句を垂れた。
「いけませんよ、学院長。あなたがしっかりして頂かなくては」
ウィンスキーが困り顔で笑った。アルメルが学院に来てから、彼女が次期学院長になる予定であったのを知るのは、極僅かな人数だ。そしてウィンスキーは中でもリゼットのお気に入りで書類仕事の手伝いまでそつなくこなす。まだ若いので、時期学院長として引き継ぐ準備をしていた。
「にしてもよろしいんですか、僕が次期学院長だなんて驚きましたよ。アルメル様ほどの手腕もありませんから、本当に適任なのかどうか」
「私はさっさとこの仕事をやめたい。魔塔主も嫌だ。田舎に帰りたい」
火の付いていない煙草をくわえてぴこぴこ揺らす。
「今頃は私ものんびり窓辺に座って酒と煙草に興じていたはずなのに。そのために人知れず遠い田舎町に家まで買ったんだぞ、アルメルの名義で」
「なんでアルメル様の名義で買ってるんですか……」
彼女は煙草を灰皿にそっと置いて、椅子の背もたれに体を預けた。
「いやなに、死んだらくれてやろうかと。なに、本人の承諾も得た後だ。まさか、あの阿呆が先に逝くとは思っていなかったがね。師匠を残していく弟子などあるか。本当に困った奴だよ、次に会えるのは何年後になるのか」
もう二度と弟子など持つものかとうんざりする。次も失ってしまったら、という恐怖心が胸の中に根を張ってしまっていた。
「寂しいものですね。……そういえば、アルメル様と言えば、弟子のカラスさんはどうされたんですか? しばらく出席されてないみたいですが」
「ああ、実はアレスと一緒に修業をしてるんだよ」
ふっと笑って、よっこいせと椅子から立ちあがった。
「アレスはもうひとりの師匠だからだそうだ。羨ましい限りだね、そうやって前に進み続けられるなんて。私はもうすっかり足も心も擦り減ったよ」
「我々、先に道を作った大人には責任がありますからね」
そんなものクソくらえだとばかりにリゼットが目を細めた。
「ところでどうして立ちあがられたんです?」
まだ書類仕事は終わっていないだろうと無言の圧を掛けられると、彼女は視線を逸らして咳払いをしながら窓辺に立った。
「……ちょっと用事を思い出してね」
「ないでしょう。用事なら机に山のように積んでありますよ」
「それとは別件だ。ではまた会おう!」
「あっ、ちょっと! 僕に全部押し付けるつもりですよね!?」
「ハッハッハ、何の事かな。これもお前のためだよ、じゃあな」
止めようとしても遅い。リゼットは転移魔法を使うのに魔法陣を使う必要すらないのだ。高笑いだけを残して消え去り、彼女はきっと学院長室でウィンスキーがひどく狼狽えているのだろうと想像する。
それから学院や都市からはずっと遠い森の中へ出た。じっと耳を澄ませば川のせせらぎすら聞こえる場所だ。深い森は人の気配はないが、少し歩けば川の傍に建てられたログハウスがある。玄関には獣の牙で造られた飾りがぶら下がっており、すぐ下に『鳴らしてから声を掛けろ』と書いてあった。
「めんどくさいな」
そう言いつつも、牙の飾りを手に掴んで放すと、いくつもの牙が扉に当たってガラガラと罅割れた音を立てる。玄関が仄かに開かれた。
「……ん? なんだよ、リゼットのババアじゃねえの」
「口の利き方を知らんのか、アレス。小屋ごと消し飛ばすぞ」
「悪い悪い、寝起きでね。愛想よくなんて出来やしねえ」
大きなあくびをして、半裸のまま外へ出て来る。肩に止まった虫を指できゅっと摘まんでぽいっと放ってボリボリと身体を掻く。
「だけどまあ、十分な修業は終わったぜ。近くの川で水浴びしてると思うから会いに行ってやれよ。ときどき寂しそうにしてたからさ」
「そのつもりだ。……それで、ボーグル・ウェイトは?」
あー、と苦笑いを浮かべてアレスが部屋の中を振り返った。
「今は完全にくたばってるよ。競う相手がいなきゃつまんねえだろうと思ってカラスのために連れてきたんだが、途中でリタイアだ。こっちは俺ちゃんがそのうち返すから安心して会いに行ってこい」
「やれやれ、相変わらず弟子に無理をさせるのが好きな奴め」
仕方なくローブを翻して川へ向かう事にして、一度だけアレスを振り返った。
「近々オーレリアを寄越す。腕が治ったら、お前も講師に来ないか?」
戦いの後、まだ完璧とは程遠かったオーレリアの神秘魔法ではアレスのズタズタになった腕は、傷を塞いだものの動かすのに難儀する状態だった。
一年経ってまともな治療も出来るようになったので、他にやる事もないのなら武術学科で生徒たちを教えてみるのも一興ではないかと誘う。
「俺ちゃんの可愛い弟子共の面倒を見るのも悪くねえな。そのときまで考えておくよ。そろそろ俺ちゃんも後進の育成に興味が湧いて来たってもんだ」
「フッ。では期待しているよ、魔導武神殿」




