第53話「否定してみせろ」
あまりに純真。あまりに愚か。あまりに素直。馬鹿馬鹿しいと嘲りながらも思わず胸の内にあった怒りがすうっと溶けて消えていく。
世の中を変えるには若すぎる。かといってまったく期待できないでもない。未来を見据えた希望が羨ましくなった。自分が魔導師を目指したときも、そんな表情を浮かべていた、と懐かしくさえ思う。
「……まったく、小娘めが。いかに今の時代が安穏としていて、お前たちの感性が昔と比べてどれほど変わったのかがよく分かる。実に忌々しい。眩しくて、見ているだけでイライラしてくる。────私にはない価値観だ」
構えた剣の切っ先が震えた。ああ、栄光とは斯くも遠いものか。触れようと思えば思うほど遠く感じる。得ようと思えば思うほど崩れていく。もう手元には何もない。出せる切り札は全て切った。待つのはただひとつの道のみ。
「いまさら引き返すつもりはない。引き返す道もありはしない。私が……いや、俺が目指してきたものを止めれば、わざわざ殺してまで突き進んできた意味はない。お前との決定的な差だ、カラス。止めたくば俺を殺せ! 全てを得て、全てを変え、全てを魔導師という人生に捧げてきた俺の道を否定してみろ!」
立ててきた墓標の数はもう分からない。仲間か、あるいは敵か。いずれにせよ、本来であれば生きるべき者たちだった。それでも邪魔をするなら殺すしかないと踏み切って、たとえそれが愛する孫であったとしても容赦しなかった。甘えた瞬間に全ては水泡と帰すと知っているから。
そうして何人消してきたか。カサドのように身分が恋しかったわけでも、大魔導師として頂点に立ちたかったわけでもない。残酷になろうとも変えたい世界があった。生きるべき、生かすべき同胞を手に掛けてまでも叶えたい夢があった。
いまさら退けるわけがない。退くわけにはいかない。徹底抗戦の構えで再びカラスに攻勢を仕掛ける。あらゆる魔法を尽くし、あらゆる剣技を駆使し、圧し潰さんが如き鬼神の振舞いで戦いに臨む。
悉くをカラスは避けた。地を駆け、空を跳ね、僅かな隙間も潜って。自由で、優雅で、時折に背中から広がる黒い翼には見惚れさえした。
そして感じる。再来の脈動。そこにいるのは、まさに未来を担っていくであろう大魔導師となる素質を持った者たちの筆頭。誰よりも前に立ち、牽引していく希望そのもの。思わず手が止まってしまった。
「本当にこれでいいんだな、ハインリヒさん」
「構わん、戦ってみろ。……お前の強さを見せてみなさい」
「わかった。じゃあ見せてあげるよ、あんたには」
腕を伸ばし、手を翳す。足下から溢れるように水の渦が現れ、大きな杖がゆっくり浮上する。大きな紺碧の宝玉が嵌った杖にハインリヒが息を呑む。
彼女の背後に見えた、ひとりの魔導師の姿。カラスの振舞いに見えた幻覚か、それとも、本当にそこにいたのか。いずれにせよ、もはやどうでも良い事だ。受け止めなくていけない現実に、彼はつい微笑みを浮かべた。
「────《呑み込む大海》」
足下から溢れるように広がった水が瞬時にあらゆる物体を呑み込んで、空を貫く巨大な柱となった。渦を巻き、全てを粉々に砕きながら。
アルメルの目を喰らい、その杖を手にした瞬間に宿った記憶。偶然なのか、それとも誰も知らない、遥か昔からあった事象なのか。彼女が放ったのはアルメル・シモンだけが扱う水属性最強の大魔法。うねりながら空へ消えて行けば、最後には雨が降った。晴れた空に虹を創り出して。
そこに立っていたのはカラスとハインリヒだけ。細かく砕かれた瓦礫や木材が散らばる中で、彼女は目の前にずたぼろになっても立ち続けている男を見た。
「よく生きてたな。やっぱあんた、嫌な奴だけど凄いよ」
「フッ……そう言われるのは……どれくらいぶりかな……」
意識は朦朧で、視界はぐちゃぐちゃだ。何もかもが混ざり合った色が、気分の悪さを叩き込む。それでもハインリヒは、彼女の言葉をはっきり聞いて記憶の中にある、遠い昔を思い起こす。
『なんだ、嫌な奴だが、まあ……。凄い奴だよ、お前は』
煙草を吸いながらそんな事を言われたな、と思わず笑みがこぼれた。
誰かから讃えられる言葉など聞き飽きた。聞き飽きていたはずなのに、悪くない気分だ。邪悪で救いようもない男に掛ける言葉ではなかったから。
「小娘。それでも俺は、間違っていなかったと思っている。いや、間違っていたとしても正しかったと主張し続けよう。だからお前が否定してみせろ。行動で、態度で、実績で、あらゆる手段で否定してみせろ。────期待している」
ぐらりと倒れる。よくもまあ耐えきったものだと自分でも感心する程に、大魔法の威力を知った。これがアルメルであったならば、今頃は肉体すら残っていまいとカラスの甘さに呆れながら、ゆっくり目を閉じていく。
彼は緩やかに迫ってくる死を待った。
『大丈夫ですよ、カラスなら。あなたの期待をも大きく超える子です』
聞こえた声を小馬鹿にして鼻を鳴らす。不機嫌な顔つきのまま伏せた。
「……馬鹿が。分かった事を言うな」




