第52話「誰もしなかった事を」
信じられない。信じたくない。たかが十数年しか生きていない娘を相手に不覚を取り、あまつさえ殺されかねないとさえ思った事が。
ハインリヒ・シモンは八十を迎えようかという年齢に合わず、外見的には六十台前半ほどで、魔導の道を歩み始めたときから人生を捧げてきた。
その末に見出したのは諦観。あらゆる人間が当たり前のように魔法を享受しながら、問題があれば魔導師たちを責め立てた。魔物に殺されれば可哀想にと口々に言うだけで、次の日には涙を流した事も忘れる。貴族たちに至っては、むしろ死んでくれて好都合だとばかりに死を冒涜するかの如く利用した。
こんな世界は間違っていると気付いたのが四十を迎えたとき。魔塔で起きた寄付のあらぬ使い方によって魔導師全体が非難を受けたのは、当時の魔塔階位を持つ大魔導師が結界魔法の研究で資金の運用を騙って私物化していた事が原因だった。他の魔導師たちも似たような事をしているに違いない、と。
世間がそうして冷ややかな視線を浴びせたとき、悪いのはたった一人の魔導師であって、自分たちは多くの人々のために身を粉にしてまで研究を重ね、何度も功績を挙げてきたではないかと憤った。実際、ハインリヒは生活を豊かにするのに幾つもの魔法を研究し、論文を作り、多くの人々の生活に新たな風を吹かせた。
それだけに悔しかった。自分までもが、そうした声を囁かれた事が。
『連中は分かっていない。俺たちがどれだけの苦労を重ねてきてるのか!』
もちろん悪事を働いた大魔導師についても、よくもやってくれたと言う気持ちはある。不祥事さえなければ誰もが穏やかにいられたのだから。
とはいえ彼の怒りは既にもう一線を超えていた。人々の抱く栄華など、自分たちの積み上げてきた屍の上に成り立っているだけの紛い物。浜辺に打ち捨てられた王冠の如く価値のないものであると分からせなくてはならない。そのために、まずは魔塔主となろうと決めた。誰よりも強く、誰よりも知恵を持った魔導師の称号が手に入れば、自身の望んだ世界を創れるはずだ、と。
しかし、ふたを開けてみればなんて事はない。魔塔主となって程なくして現れた一人の魔導師によって彼の設計はまたしても大きく歪んだ。
リゼット・ヒルデブラント。見目に若く美しい女。大魔導師になれる器とも思えない不遜な態度で、平民出身の魔導師だった。だが誰よりも才能に優れ、ただ頭がキレるだけではなく伴った実力を持ち、彼女を超える存在などありはしないだろうと誰もが信じて疑わない。瞬く間に彼の魔塔主の称号は奪われる事になった。
そうして時が過ぎていき、このまま老いさらばえて死ぬだけなのかと絶望した頃、ある魔導書の存在に辿り着く。リゼットが創造した三冊の魔導書。魔塔階位が十位を超える者だけが集う会議の席において知らされた、とある秘術に関連する書物。彼はたまさか、その話を耳にした。おしゃべりな男が酒の席で口から吐いた言葉を冗談とせず、慎重に調べて真実だと知った。
だが三冊とも必要であるとは思わなかった。誰もが『リゼットが独自の魔導書を完成させた』とうわさは耳にしていたので、ハインリヒもそれが手に入れば十分だと思った。偶然、そこへカサド・フラガラッハが一冊を手に入れたと知り、今後の研究のためにもぜひ拝読したいと伝えて、その対価にフラガラッハ家の手中に再び騎士団を取り戻させる約定を交わした。そこで魔導書が断片的なものであると気付き、今回の魔導学院襲撃を企てたのだ。
入念な準備があった。魔導書には堅牢な結界式が組まれていて、解呪しても文字が断片的に削がれた記述が意図されたもので、一冊から三冊に分けられたものだと分かれば、今度は学院における魔導師たちの戦力を落とすために魔物の解放を目論んだ。かつては支配欲に溺れてキメラの研究に勤しみ、リゼットの息子に目撃され一時的に頓挫したものの、後に完成に至った怪物まで用意した。
メテオの自律魔法陣を構築するのにも学院内に紛れ込ませた部下に魔力石の設置と隠蔽まで任せてリスクを感じつつも、無事に実行まで漕ぎつけた。
なのに。なのに、今、また目の前で悪夢が繰り返されようとしている。うんざりだ。毎度の如く掠め取られていくのは、もう我慢ならない!
胸中で雄たけびをあげ、震える身を強く、今一度だけでもと奮い立たせた。
「カラス・ウォリック……! お前さえいなければ、私の計画は完璧だった! アルメルさえも、愛した我が血統を殺してでも突き進んできた! なのに、なぜ、なぜお前たちはそうして私の邪魔をするというのだ!?」
剣を振るった。何度も、何度も。絶対に許すまじと敵愾心を燃やして斬りかかった。その一挙一動をカラスは最小限の動きで躱しながら────。
「あんたにあんたの理屈があるように、オレたちにもオレたちの理屈がある。だけど簡単に人の命を奪うなんて、それは魔導師のやる事なんかじゃねえ。ただの外道だ。自分の私利私欲のために誰かを貶めるってのは、俺が何よりも嫌う連中と一緒の考え方なんだよ、爺さん。────あんたが嫌う人の努力を見ない連中ってのと、何も変わりゃしないんだ。あんたはオレたちを見ようともしない」
剣を素手で受け止める。握れば黒い魔力が光の剣を呑み込んだ。
「もうやめようよ。オレはあんたを殺さない。だからあんたも、もう誰も殺すな。アルメルさんで最後にしようよ。……もう誰かが死ぬのは嫌なんだ」
向けられた対話の意志に、ハインリヒの手が緩んだ。表情からほんの僅かに悪意が消えて、悔しそうに、歯痒そうに、数歩下がった。
「ならば聞かせてくれ。お前は、いや、お前なら、どうやって世界を変えるというのだ。他に方法があったか!? 連中は何も声を聞かないというのに!」
彼の絶望に、カラスは真正面から力強い眼差しで返す。
「聞かないなら仕方なくでも聞くまで叫べばいい。オレがそうしてやる。あんたが出来なかった事を、他の誰もがしなかった事を、オレがやってやるよ。────この学院を卒業したらになるけどさ。約束するよ、ハインリヒさん」




