第44話「他の誰もが認めなくても」
命が惜しくないかと言えば、それは嘘になる。死ねば何もかもが水の泡だ。リゼットの魔導書を手に入れて、三冊なければ完成しないと知ったのも最近の話で、ハインリヒたちシモン家と共有する事で所在を明らかにする計画だった。
その大きな障害がアルメルであったのは間違いない。今にして思えば始末できたのも運が良かっただけだ。ロックスという仲間の死に直面した瞬間の動揺、それをハインリヒが逃さなかった。自分たちはどうだ、転移魔法をみすみす許して逃げられてしまったではないか。いまさらになって後悔と苛立ちが胸に溢れた。
「……たとえ死のうとも話す気はない」
「仲間は裏切れねえってか?」
「馬鹿な。裏切ったのは奴らの方だ」
魔導武神や歩く要塞と呼ばれるような魔塔階位を持った者が学院内にいる事などハインリヒであればよく分かっていたはずだ。にも関わらず、カサドは自分たちに『学院内の掌握など楽な仕事だ』と話してきた彼の言葉を今に思い出して、心底から恨んだ。奴に都合のいい状況を作るための道具に過ぎなかったのだ、と。
「なんで話そうとしねえのか分かんねえな。俺ちゃんだったら、こういうときはスパっと口割っちまうけど」
「貴様らに簡単に口を割って、後は牢獄で楽しく暮らせと?」
馬鹿馬鹿しいと鼻で笑う。
「武神と呼ばれるほどに身を捧げるだけあって、知性はいくらか劣るようだから教えておいてやる。私は連中も気に入らないが、貴様らが都合よく動くのも気分が悪い。少しは牢獄で頭を冷やす時間が合ってもいいとは思ったが……」
一瞬の不意を衝いて剣を振るい、アレスから距離を取った。
「若かった頃を思い出す。誰よりも強く在りたいと魔導騎士を目指した頃を。今になって魔導の真髄を追い求め、ようやくたどり着きそうだというときに邪魔をされるのは困るんだよ。もはや後退の意志など私にはない」
恐怖は消えていた。勝てないからどうしたと言うのか。積みあげてきたものを忘れたか。臆病さはとうの昔に捨ててきたはずだ。なぜ拾ってしまったのか。ならばもう一度捨てよう。戦うために、己が信念のために。
過ちだと分かっていても引き返すつもりはない。最初からそうではなかったとしても、自らが踏み入った領域がどこであるかを知っているから。
「悪人は悪人らしく、最期までそう振舞おう」
「そうかよ。良い目をしてるぜ、オッサン」
腰を低く、拳をしっかり握りしめて構える。もはや相手は先ほどまでの小さなカエルではない。天敵を前に死の覚悟を決めた蛇の目だ。そういった手合いをアレスは見た事がなく、彼が邪悪であれ、その強さを本物だと認めた。
「こりゃ油断してたら腹を掻っ捌かれちまうな……。だがウズウズしてきたぜ、俺ちゃんが求めてた戦いってのは、こういう奴だってよ!」
「ぬかせ! 伊達に歳だけ喰ったわけではないと教えてやろう!」
剣と拳がぶつかり合う。魔力の斬撃が今度は僅かにアレスを傷付ける。先ほどまでは届かなかった刃も、今は対等に渡り合った。覚悟が彼を強くしているのだとアレスは冷静に対処しながら考える。彼ほどの傑物が、なぜそうまでして魔導の真髄に拘るような事になってしまったのか。
騎士としての誇りをもって生きられたはずだ。生きる道があったはずだ。なのに彼はどこかで踏み間違えてしまった。歩くべき道を。
「気分はいいが、正直言って残念だぜ、カサド。俺ちゃんは……いや、俺はあんたみてえな強い奴がヘソ曲げちまって、何もかも諦めた目をするのは辛い」
闘志はある。間違いなく。だが瞳の奥には諦観があった。何かを捨ててしまった悲しい男の瞳だ。アレスは無性に悲しくなった。
「黙れ、黙れ、黙れ! 貴様に私の何が分かる!?」
腕が切られる。傷は深くないが、手の甲からまっすぐ肩まで切り裂かれ、撒いたバンデージが赤く染まっていく。
「いくら学びを得ても! いくら前に進んでも! 奴らはずっと先にいる! 追いつこうとすれば離れ、立ち止まれば見えなくなるような奴らだ! 子にも恵まれず、もはやフラガラッハの名は地に落ちるばかりなんだぞ!」
家門がどうしたとは誰も言えない。魔導の才能に恵まれた者が代々生まれてきたからこそ、シモン家やフラガラッハ家が由緒正しき家柄として認められているのも事実だ。彼らにとって家名が受け継がれていく事は何よりの誇りと喜びだ。
否定はできない。だが理解もできない。彼の苦しみも、哀しみも、絶望も、後悔も。何もかもが彼だけの抱えるものだ。子を成す事ができず、これまでどれだけの言葉に傷付けられてきたか。考えるべくもない。同門でさえ彼を詰った。これでは没落していくしか道はない、と。
そのためにオーレリアを養女として迎え入れたが、それも断念せざるを得なかった。魔塔主とサンジェルマン家の介入によって全てが台無しになった。
魔導書を手に入れたときは、やっと報われるのだろうと思った。騎士としての名声もホロウバルト公爵によって掻き消され、ついぞ取り返す事もないのだろうと諦めていたところへ降ってきた希望だ。
手放すわけにはいかなかった。なんとしても。
「ここで貴様らを討ち、リゼットから魔導書の在処を聞きだす。奴から奪い取らねばならない。魔導の真髄に至れば、もはや恐れるものなどない!」
「……無理だぜ、そいつは。ありゃあ選ばれた人間のための魔導書だ」
瞬間、アレスがまた視界から消える。だが、瞬きをしたときには眼前に立っていた。彼の拳が優しくトン、と胸に触れた。
「俺はよ。正直、アルメルの事であんたらが恨めしくて仕方ねえ。アイツは俺のライバルだった。だがよ、それでも……それでもあんたは凄えって認めてやるよ。他の誰もが認めなくても、あんたの事は認めてやる。だから誇って散っていけ。てめえの信念、確かに俺に届いてたぜ、カサド」
血にまみれた拳が煌々と赤く輝く。
「特別だ、あんたは安らかに眠らせてやる。────〝送葬焔〟」
苦しみはない。痛みもない。懺悔の言葉も。ただあるのは死という現実のみ。白く美しかった魔導騎士の服も、誇り高き男の姿も、全ては瞬時に灼熱の中に包まれ、瞬く間さえない程の勢いで黒く灰となって散った。




