第34話「遺すもの」
澄んだ闘気。立っているだけで委縮してしまう圧倒的な魔力の波動。それでも相手は怯まない。あのアルメル・シモンに挑めるというだけで、いくらかは高揚感すらあった。最強に挑む事のなんたる誉れであろうか。水の属性を操る最強の魔導師の業の数々は言葉さえ出てこなかった。
分厚い水の壁があらゆる攻撃を阻み、うねる龍のような水は荒波の如く襲い掛かった。大勢の手練れである魔導師たちを相手にすれば膨大な魔力の消耗があっておかしくない状況下で、彼女は汗ひとつ掻いていない。
「さすがはシモン家きっての大天才と呼ばれるだけはある。我が孫ながら末恐ろしい娘だ。同じ血筋の人間とは思えんよ。この私までいて状況は五分か、あるいは我々の方がいささか不利であるとさえ感じる」
狂気に堕ちたハインリヒでさえ感動する。アルメルはまさしくシモン家、否、大魔導師として最強のひと柱であると認めた。
「いくら褒めたからって手が緩んだりはしませんよ。あなたも含めて、残り十人ほどです。このまま時間を稼いでロックスが応援を連れて来るまで耐え抜いても構わないんですよ、こちらは。何人か締めあげれば済む話ですからね」
まったくその通りだ。ハインリヒも自分が逆の立場であったならそうしたと納得しながら、だからこそアルメルの考えなどお見通しだった。
魔力の温存。そんなものは見え透いている。三年前の失態で彼も学習した。油断などない。最善を尽くし、最悪を想定した。たとえ相手が魔塔主であろうとも確実に殺すつもりで、最初から計画には織り込み済みの事態。
「若いとは罪だな、アルメル」
フッと笑みがこぼれた。これが徹底した対策である、と。
「────そこまでにしてもらおうか、アルメル・シモン。貴様の抵抗も終わりだ、応援など誰一人とて来るまいよ」
やってきたのは応援などではない。ハインリヒ派の人間たち。アルメルが驚愕させられる程の傑物に思わず睨みつけてしまう。
「……ッ! フラガラッハ、あなたたちまで……!」
現れたのはカサド・フラガラッハだ。大多数の部下を引き連れてやってきた。彼が白い騎士服を血に汚して、その片手に引き摺っている誰かを見た。
「そんな、ロックス!?」
既に事切れている。誉ある魔導騎士のフラガラッハがいれば、協力を仰いで当然だ。まさか裏切者とも思わず助けを求めたところで不意を討たれて首を掻き切られていた。彼の亡骸をカサドは紙くずでも投げるように捨てた。
「役立たずの仲間で残念だったな。記録魔石も回収させてもらった」
ニヤニヤと笑う姿に冷静さを失い、アルメルが声を荒げる。
「貴様、よくも……! ただで済むと思────」
怒りで我を忘れた瞬間に生まれた一瞬。背中から胸へ突き刺さる幾本かの光の剣。ハインリヒが使う光属性の魔法によって創られた刃。
激痛と圧迫感のある苦しさに膝を突く。ぼたぼたと足下に血溜まりが出来ていく中で意識が飛びそうになった。立とうと思っても立ち上がれず、息が詰まり、全身が震えて冷や汗が溢れだす。
「……フフッ、そうですか。こう、なんというか、腹が立ってきますね。こんなに痛くて苦しいのに、今はそれ以上に怒りが勝る」
胸に刺さった剣に触れる。光は黒ずみ、塵となって消えた。傷口からぼたぼたと血が滝のように流れていく。それでもふらふらと立ち上がった。
「────〝大地の揺り籠、天の鳥籠。愛おしき想いを伝えよ、勇敢なる魂を響かせよ。伸ばせば届く。祈れば輝く。私の行く道は私が決める〟」
ハインリヒが詠唱に気付いて光の剣をさらに数本放った。幾度串刺しにされようとも、彼女は構わない。痛みも感じていない。感覚が焼き切れている。
「何をやっている、フラガラッハ卿! はやく首を刎ねろ!」
「っ……あぁ、転移魔法などさせるものか!」
足下に広がった魔法陣が白く輝き、彼女はニヤリとした。
「受けるわけないでしょう。この首はあなた方に差し出すほど安くないんですよ。欲しけりゃ地の果てまででも奪いにきてみなさいな」
水の壁が彼女を守り、転移魔法は発動する。本来は膨大な魔力消費が行われ、かつ魔法陣を生成しなければ使えない超高位魔法。たとえ死に直面していようともアルメル・シモンならば出来る事。ハインリヒたちのあと一歩が及ばない。
────座標は魔導学院内部にあり、深夜というのもあって人の気配はひとつも感じられない。出歩く誰かの姿さえも。そこへアルメルは放り出された。魔法陣が消えていくのを感じながら、ふらり彼女は立ち上がって、全身が鋼鉄にでも変わったような重たさの中を引きずるよう必死に歩く。
ハウスタウン地区。向かう先は迷いがない。小さな一軒の家の前で立ち止まり、ぜえぜえと細かく弱い息をする。視界は朦朧としている。手は震えていて、もう感覚がない。血の気も引いて、今に倒れそうだった。
ドアノブに手を伸ばす。血だらけの手で掴んだとき、動きが止まった。
(ああ、駄目だ。開けられない。────開けてはいけない)
自分は死ぬ。それは間違いない。だから誰かに託そうと思った。しかし傷だらけの体に負担を掛け過ぎないよう転移魔法を用いるのであれば座標も正確性を失ってしまう。ハウスタウン地区に放り出されて、真っ先に向かったカラスのいる寮へやってきて、彼女にならば全てを託せると信じた。
だが。だが、しかし、だ。カラスやオリーヴたちに全てを伝えきる前に事切れたとしても、この事態をハインリヒたちは重く考えて、確実に暗殺者を差し向けるだろう。そうなったら今の彼女たちではまだ大魔導師には届かないゆえに殺されてしまうのは明白。考え直した瞬間、扉を開ける事を体が拒んだ。
「……ああ、本当に、ちょっとくらい無理すべきでしたかね」
アンゼルムやリゼットには監視が付いている可能性が高い。下手にそちらを頼って息も絶え絶えの状態で不意討ちでも受ければ全てが台無しになると判断し、弟子の下へ向かうのを選んだ事を過ちだったと後悔する。
膝から崩れ落ちていく。ずるずるとドアノブから扉を伝って血が引きずられていった。このまま終わるしかない。ロックスが死んだ事を悼む暇さえないまま、彼の亡骸さえ見捨てておきながら、何ひとつ成せなかった。
否。そうではない。彼女はひとつだけ遺す決意をした。ずっと隠し持っていた一冊の本。誰にも渡さないよう水の保護を施して大切に持ち歩くという、どんな金庫よりも厳重な管理の下、リゼットの魔導書の一冊を抱えていた。
「……カラス、どうか、あなたにならこれを……」




