第3話「優しい人たち」
ホロウバルト公爵の名を知らない人間は、どこにもいない。大陸全土に名を轟かせる『ルースト騎士団』の団長を務める男で正義感が強く、皇帝の親戚にあたる大人物であるために、臣民からも慕われている。
もちろん娼婦の娘として産まれたときから貧民街で暮らしていようとも例外ではない。カラスもまた、見た事はなくとも彼の名を何度も耳にした。
「なんであんたみたいな人がオレを?」
私生児に手を差し伸べるのが正義感から来るものだったとしたら、彼には何の得にもならない。むしろ損だ。わざわざ連れて帰って来て、そんな事がバレでもしたら彼に迷惑が掛かってしまう。
カラスがひどく申し訳なさそうに俯く。
「気にする事はないよ。ここでは君がどんな身分であれ歓迎される。そうでなければ私の従者は務まらないからね。────まずは綺麗にしようか」
彼が指を鳴らすと待機していたメイドたちがぞろぞろと集まってきた。連れて来られた可愛らしいが汚れきった少女に興味津々そうにしながら、粛々と仕事の準備に取り掛かろうとしている。
「彼女を綺麗にしてやってくれ、それから怪我の手当てもだ。深くはないようだが慎重に頼む。それと着替えもあれば用意を」
メイドたちがお辞儀をして「承知いたしました」とカラスを連れて、まずは浴室へ向かった。汚れたままでは傷の手当てもできないからと、多少は沁みるのを覚悟してもらって汚れを洗い、着替えは体格の近いメイドの私服から見繕った。
ガリガリにやせ細っていたので、少しぶかぶかだ。それから専属の医者を呼んで彼女の怪我の具合を見てもらい、大事ないと分かったら簡単に消毒を済ませ、ガーゼをのせて包帯を優しく巻きつけた。
「これで少しは大丈夫だよ、お嬢ちゃん。傷も、頭だからちょっと派手に血が出てたみたいだけど、今は問題なさそうだ。よく頑張ったね」
「……それ、あのおじさんにも言われたよ」
きょとんとして、医者の男がくすっと笑う。
「公爵様は優しいからね。だから我々もあの方を見習うようにしているんだ。君は辛い思いをたくさんしてきただろう? こんなに細いのに殴られて可哀想に」
医者もメイドたちも、カラスの状態があまりにひどいので、なんと声を掛けてあげればいいか分からない。何年もそうやって過ごしてきたのだと思うと、自分の事ではないのに胸がいっぱいで苦しくなった。
「ありがとう。みんな信用できない奴ばっかりだって思ってたけど、ここの人たちは違うんだ。……ありがとう、本当にありがとう」
また泣きそうになるのを堪える。まだ泣いてはいけない。ずっと公爵家にいるわけじゃないのだから、傷の手当てをしてもらって、その後にどうやって生きていくかを考えなくてはならない。彼女はそうやって強くあろうとした。
「頑張り屋さんだね。さあ、そろそろ行っておいで」
「行くってどこへ?」
「公爵様が食堂でお待ちだそうだよ」
傷の手当てだけじゃなかったのか、とメイドたちに連れられて医務室を後にする。やってきた食堂の広くて長いテーブルの上座でアンゼルムは待っていた。彼女の姿を見てホッと安堵の表情を浮かべて────。
「良かった、その様子だと元気そうだね。食事はできるかな?」
彼のすぐ傍の席をメイドが引いて座るように促す。
ちょこんと乗った椅子の座り心地が良かったのか、カラスは少し驚きながらも嬉しそうに口端を僅かに持ちあげた。
「君の口に合うかは分からないが。マナーも今日の所は気にせず食べなさい。お腹が空いているだろうから、足りなければ他にも用意させよう」
そうは言うもののテーブルにはたくさんの料理が並んでいるし、まだ運ばれてくる。多いくらいだったが、今のカラスには宝の山だ。「本当に全部いいのか?」と目を輝かせ、何から手をつけたものかと思いながら、そのうち自然と食器に手が伸びた。まさか料理まで振舞ってもらえるとは、ともはや自制の利かない動物のようにガツガツと平らげていく。
「おいおい、あまり急ぐと喉に詰まるぞ」
「……んぐ。ごめんなさい」
「謝らなくていい。ただ心配になっただけだよ」
可笑しそうに言いながら、内心では『こんなに飢えた犬のように食べるなんて、よほど劣悪な環境だったんだろう』と深刻なカラスの様子に憂いを抱く。このまま外に放り出せば確実に彼女は死んでしまう、と。
テーブルにあった二つのベル。それぞれ金と銀で出来ていて、アンゼルムは銀のベルを振ってカランカランと大きく鳴らす。
「お呼びでしょうか、公爵閣下」
いきなり黒いローブの何者かが現れてアンゼルムの背後に立っていたので、目が合ったカラスはどきっとして一瞬、喉にパンを詰まらせたのを水で流し込む。
「アルメル。もう少し普通に出て来れないか?」
「……失礼しました。驚かせるつもりはなかったのですが」
フードを脱ぐと露草色の長い髪が露わになる。凛々しく気高さのある雰囲気の女性が菫色の瞳にカラスを映して仄かに微笑んでみせた。
「初めまして、お嬢さん。私の名はアルメル・シモン。公爵家に仕える専属の魔導師でございます。以後お見知りおきを」