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第1話「貧民街のカラス」

「使えないガキだ。ゴミでも漁ってろ、あのやかましい鴉みたいにな!」


 貧民街にある孤児院で、そんな罵声と共に残飯が投げつけられた。肉の骨や卵の殻。それから野菜くずまである。


 栗色の髪をべったり汚した少女は無言のまま恨めしそうに深碧色の瞳で睨みつけて、今度は酒瓶で頭を殴られた。死ななかっただけ運がいい。


「チッ、これだから私生児ってのは。役に立たない母親から生まれたんなら、せめてお前くらいは役に立ったらどうなんだ?」


 骨と皮ばかりの体は弱々しく、殴られた頭から流れた血がどろっと顔を濡らす。痣だらけの体を庇うようにして自分の部屋へ駆けていく途中、自分と同じ立場のはずの子供たちがこぞって彼女を嘲弄する。


 どこかの貴族が身分の低い女と作って出来た子供。娼婦の母親はさっさと病気で死んで、残ったのは片手に握り締められる銅貨数枚。一日分の食料を買うのが関の山。肉親はおらず、連れて来られた孤児院では馴染めないどころか、最初から嫌われていた。管理人どころか他の子供たちからも暴力を受けた。


 与えられるのは山積みの家事と、殆ど食べられもしない残飯。最底辺の生き方を強いられた少女は、それでも瞳に強い意志を宿す。


『何があっても生き延びてやる』


 自分の父親が誰かなど少女も知らない。彼女の母親は決して語りもしなかった。元々貴族を相手にする娼婦だったので、誰の子なのかも分からない。金遣いが荒く彼女に愛情を向ける事もなかった。


 けれども彼女はそれを不幸だとは思わない。ただ他と境遇が少し違うだけ。自分にもまだ巡って来る幸運はあるはずだと希望を捨てず、辛くとも涙ひとつ溢したりしない。自分の未来は自分で掴もうと固い決意を抱いて。


「……今日だ。今日で全てが変わるんだ」


 窓を開け、二階から遠い地面を見る。分厚いカーテンをこっそり持ち込んだナイフで引き裂いて作ったロープの代用品は少し頼りなかったが、今の彼女の体を支えるには十分な頑丈さだ。


「オレの人生はっ……! ここから……!」


 机の脚に括り付けて窓から垂らす。今の時間なら誰にも気づかれない。筋力のない体で滑るように降りて行き、途中で怖くなって一度だけ目を瞑った。


 やっとの思いでどすんと尻もちをつき、周囲を確かめる。孤児院の庭は広いが手入れはあまりされていないのが幸いして、彼女の体を雑草がクッションになってくれたおかげで怪我もなければ体を痛めたりもしなかった。


(出れる……出れる、出れる!)


 自分を大切にしてくれない人間の傍にいれば、ただ壊れていくのを待つだけだ。誰に嫌われてもいいが、苦痛の中を這い続けるのはごめんだ。たとえ野垂れ死ぬとしても、その方がずっとマシ。私生児って何だ、馬鹿馬鹿しい! たったそれだけの理由で監禁なんてされてたまるか! 内心でとうとう怒りが爆発した。今日まで何年もよく生きていたと自分を褒め称えたくなるほどに。


 このままでは殺される。理解できる。そうして誰にも悲しんでもらえず、死んだ事さえ気にしてもらえない。それだけは嫌だと門を目指してわき目も振らず必死に走った。後少しで自由になれる、と。


「こら、このクソガキ! どこへ行くつもりだ!」


 ぼさぼさに伸びた栗色の髪をぐいっと後ろから引っ張られて転げる。尻もちをついた拍子に音を聞かれて管理人の男に気付かれたのだ。やせ細って踏ん張る力もない少女の足ではとても逃げきれず、門を抜けるまで後数歩だったのに、と悔しさを表情に滲ませながら「離せ、こんなとこ出て行ってやる!」と吠えた。なんで必要とされないのに、こんな場所にいる意味があるんだ、と。


「ふざけんな、使えねえガキでも金にはなるんだ、逃がすもんか! 娼婦から産まれる私生児ってのは皆お前みたいなクズばっかりか!?」


 思いきり頬を手で引っ叩かれて乾いた音が広がった。よくある光景だ、自分たちの事で精一杯な貧民街の人間は、そんなひと悶着を気にも留めず、関わるだけ損だと近寄ろうともしない。


「せめて生かしてもらえてるだけでもありがたいと思え!」


 もう一度叩かれそうになった。私生児というのはそんなに悪い事なのか。たまさかそういった境遇で産まれたというだけで、なぜ。


 ぐっ、と目を瞑った。思いきり殴られれば今度こそ死ぬ。ただでさえ頭を酒瓶で殴られてかなり弱っているのだ。どこの誰とも分からない貴族のせいで、なぜこんなにも苦しい思いをしなければならないんだ。ああ、神様。


「待て、そこの。何をやっている?」


 門の向こうから怪訝な顔をして覗き込む誰かがいる。いかにも貴族だと主張するような整った身なりに、傍には二人の護衛騎士を連れた若い男。端正な顔立ちと銀色に僅かな青色の混ざった髪と薄鈍色(うすにびいろ)の瞳が印象的だ。


「こっ、これは……その……!」


「弁明を聞く気はない、門を開けろ。五秒以内にな」


 管理人の男が顔を青ざめさせて、少女の事など忘れて慌てた様子で門を開ける。入って来るなり貴族の男は少女の傍にやってきて跪く。


「随分と酷い怪我だ。聞きたい事は色々とあるが、まずは手当が先だな。君の名前を教えてもらえると助かるんだが」


 少女は少し考える。自分に名前などない。愛された事もない。母親からは『お前』あるいは『おい』だの『クソガキ』だのと呼ばれた。


 自分の名前を持っていないのは困るのか、と理解して彼女は少し考えてから、思いついたように名乗った。


「……カラス」

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