前編
レイラ・クラーク侯爵令嬢は、今日も今日とて愛しの婚約者様に袖にされている。
「アイザック様、おはようございます。本日のランチ、よければご一緒に……」
朝、登校時の学園内で、アイザックを見かけたレイラは、嬉しくて声をかけた。
クレメント公爵家の嫡男であるアイザックは、金髪のいかにも王子様然とした美しい青年であり、この学園の生徒会長として男女問わず生徒達から人気があった。
そんな彼の婚約者になれた自分はとても幸運である、とレイラは日頃常々思っている。
レイラの目はアイザックの姿ばかり捉えていたので、その隣にいる女子の存在に気付けなかった。
「レイラ様、ごめんなさい……。今日、アイザック様は私と生徒会のお仕事で忙しいので難しそうです……」
その女子は申し訳なさそうな声を発すると、アイザックの腕にそっと自分の腕を回した。
彼女は生徒会庶務のリリー・ガルシア男爵令嬢で、最近アイザックが懇意にしている女性だ、とレイラは知っていた。
リリーは、小さな身長の女性らしい体つきで、ふわふわした肩までの長さの茶色の髪を持ち、とても可愛らしい容姿をしている。
対してレイラは、背がすらりと高く、女性らしいというよりは華奢な体型で、背中まで伸ばしている銀髪を持つ美少女であった。
「そういうわけだ。レイラ、今日は君と一緒に昼食を食べることはできない」
アイザックは、婚約者のレイラの前で腕にまとわりつくリリーを振りほどきもせず、冷静に言った。
「……分かりました、生徒会のお仕事頑張ってくださいませ。……明日はどうでしょうか?」
「明日の予定は明日にしかわからない。また声をかけてくれ。……行こう、リリー」
「はーい」
そう言って、アイザックはリリーを腕にぶらさげながらレイラの前から去っていく。
(……明日の予定は明日にしか分からない? 何それどういう理屈? ていうか生徒会って、あなた達ろくに活動してないって私知ってるんですけど! よく生徒会室で活動そっちのけで人目も憚らずアイザック様とリリー様がイチャイチャして困ってるって書記であるクラスメイトがぼやいてるの聞いてるんだから! なんなのリリー様のさっきの勝ち誇ったような顔! いやそれより……アイザック様の私を見る冷たい目。まるで婚約者である私のことなんて何も眼中にないみたいだわ……)
レイラはアイザックの去っていく後ろ姿を見つめる。
「はあ……好き……」
「何でですか」
レイラがため息と共に呟くと、一連のやりとりを見ていたらしい彼女の義弟であるアシェルが、後ろから静かにツッコミを入れた。
アシェルは、レイラが十二歳のときに跡取りとしてクラーク侯爵家に引き取られてきた、血の繋がらない一歳下の義理の弟である。子供のころから美しい黒い髪の整った涼しげな顔立ちで、それは彼が十六歳になり、レイラより背が頭一つ分伸びた今も変わらない。
その日、侯爵家に帰宅したレイラは、アシェルに部屋に呼び出されると大量の紙束をドンッと目の前の机に置かれた。
「えーと……アシェル、これは……」
「アイザック殿の浮気の証拠です」
見ると学園の生徒達に聞き込みしたであろう、アイザックの浮気現場目撃の証言の数々が収められており、リリーだけじゃなく、学園内の侯爵令嬢や伯爵令嬢等他数名の浮気相手の名前も羅列されていた。
「ええ……。リリー様だけじゃないの……?」
「はい、あろうことか我がクラーク侯爵家とは別の派閥の侯爵家のご令嬢にまで手を出しています」
「……」
(なんということかしら……)
「これはあまりにも姉上を軽んじていますし、我が侯爵家に対する侮辱です。これらの証拠をもとに、婚約破棄を申しでるべきです」
アシェルが淡々と提案をする。アシェルの言うことは尤もだ。
アイザックは、婚約者である自分や侯爵家にとんでもない裏切り行為を犯している。レイラはそのことを理解していた。
「……お父様はもうこの事をご存じなのかしら」
「……いえ、まだです。姉上が婚約破棄を決意されましたら、ご説明に行こうかと」
「だったら、まだ言わないで」
「……何故ですか、姉上?」
アシェルが眉をひそめてレイラを見つめる。
(……分かっているわ、あなたが私を心配してくれているとっても姉思いの弟だってこと。私がアシェルと同じ立場でも、婚約破棄するよう働きかけると思うもの。でも……)
「……私、アイザック様のことが好きなのだもの……」
レイラは昔からいつも身につけているお気に入りのネックレスをぎゅっと握りしめた。
――レイラがアイザックと婚約したのは、十三歳のときだった。いつ好きになったのかなんて彼女自身覚えていなかったが、でも覚えている限りレイラはずっとアイザックを慕っていた。
「……姉上……」
アシェルは苦虫を嚙み潰した表情を浮かべる。
レイラは、この義弟が自分や侯爵家のために言ってくれている、というのは痛いほどわかっていたが、どうしてもアイザックのことを諦められなかった。
「私の好意が重すぎて、アイザック様は負担に思われていたのかもしれないわ。それで他のご令嬢達に、……言い方悪いけど、逃げているのかも」
「……だとして、姉上との婚約関係を継続しつつ、他の女性達と深い関係になるのはおかしいかと」
「ええ。……だから私、少しアイザック様と距離をとってみようと思うの。押してダメなら引いてみろって言うでしょ! 意外と私のことを気になってくれて、好きになってくれるかも」
「はあ……?」
アシェルは一瞬目を丸くした後、レイラの発言を理解すると眉間を押さえながらため息を吐いた。
「……分かりました、良いでしょう。一旦父上に報告するのは止めます。……でも姉上、条件があります」
「条件?」
「はい、今度学園創立記念のパーティーがありますよね? それにアイザック殿にエスコートしてもらい参加してください。それが条件です」
「それが条件? 私はアイザック様の婚約者よ。そんなの簡単じゃない」
「この前の新入生歓迎パーティーのときを忘れたのですか」
「……」
痛いところを突かれた、とレイラは視線を下にやり、落ち込んだ。
数か月前のアシェル達一年生を歓迎する生徒会主催のパーティーで、レイラはアイザックに「その日はエスコートできない」と事前に通告されてしまったのだ。
アイザックは生徒会長としてパーティーの準備等が忙しくてレイラを相手にできないのだ、と納得していたのに、当日なんと彼はリリーを伴ってパーティーに現れたのだ。
そのときのレイラの衝撃はどう表現したらいいのか。
アイザックの代わりにエスコートをお願いしていたアシェルには本当に心配をかけてしまった。主役である新入生なのに、レイラの顔色が悪いのを気遣ってくれて、他の女を侍らせているアイザックに抗議しにいこうとするアシェルを、レイラは必死に止めたのだ。
というわけで、今のレイラはアイザックにとって完全に二番目の女なのである。いや、リリーの他にも何人も女性がいるようだから、もっと下の可能性もある。
なので、アシェルの条件である『創立記念パーティーでアイザックにエスコートされる』というのは、中々厳しいのかもしれない。
(婚約者なのに何で? って感じだけど)
「……分かったわ、アシェル。私、今度のパーティーまでにアイザック様の心を奪い、無事にエスコートしてもらうよう頑張るわ!」
「……。頑張ってください」
アシェルは少し呆れた顔でため息を吐いたが、レイラは気にしなかった。
(……だって、私本当にアイザック様のことが好きなんだもの。彼に浮気相手が何人いようと、アイザック様を一番好きなのは私よ!)
まず、レイラはクレメント公爵家の訪問を毎週末から一か月に一回程度の頻度に減らした。
毎週末会いに来るレイラに、アイザックがうんざりしているのはうすうす気づいていたからだ。
完全に行かなくなるのは余計に亀裂が入りそうだったし、何よりレイラ自身が耐えられそうにない。そして、レイラは今まで学園でアイザックの教室を通るときや、廊下で姿を見かけたときには絶対に近くまで行って声をかけていたのだが、それも極力用があるときにだけに控えた。
「レイラ、最近何かあったのか」
「……え?」
「このごろ、あまり僕の家に来なくなったし……学園でもあまり君を見かけなくなったと思ってね」
公爵家でレイラとアイザックがお茶をしていると、おもむろにアイザックがそんなことを言った。
(……え。私の押してダメなら引いてみろ作戦、早速効果でた?)
「い、いえ……今までアイザック様の都合も考えず、私の気持ちばかり押し付けてしまっていた気がして……改善しようとしている最中ですわ」
「なんだそんなこと……。君は僕の婚約者なんだから、我慢する必要なんてないよ。君の好きなように家に来ていいし、話しかけてくれて良いんだからね」
アイザックは少しほっとしたような表情をした後、ニッコリと笑顔を浮かべる。
「はい……ありがとうございます」
(今まで冷たく当たっていたのはどなただったかしら……??)
とレイラは一瞬冷静になったが、とりあえずアイザックのレイラへの態度は少し軟化している。良い傾向には違いない。
(……アイザック様の笑顔なんていつぶりに見ただろう)
レイラは自分の胸が高鳴るのを感じる。
家に帰ってそのことを興奮気味にアシェルに伝えると、
「……そうですか」
と、アシェルは何故か少し面白くなさそうに答えるのだった。
アイザックは、学園内でレイラを見かけると話しかけてくるようになった。今までの態度からすると考えられないことである。
リリーと一緒にいるところもあまり見なくなった。
(このまま、アイザック様が私だけを見てくれるようになってくれるかしら)
レイラはそんな希望を抱いていた。
ある日、借りていた本を返しに学園内の図書室に行ったレイラは受付で手続きを済ませると、部屋の奥まで次に借りる本を探しに足を進める。
「アイザック様、なぜ最近私にそっけないのですか」
ふと、リリーの声が聞こえた。棚の隙間から声のほうを覗くと、アイザックとリリーが一緒にいた。向こうからは死角でレイラの姿は見えない。
「……しょうがないだろう。最近、レイラの態度がおかしいのだ。いくら僕の気持ちが彼女にないとはいえ、婚約破棄にでもなったら困る。クラーク侯爵家との結婚は我が公爵家の事業上必須だ。……まあレイラは僕にベタ惚れだし、少し優しくしてやればまた尻尾を振るだろう」
「レイラ様ったら可哀想」
リリーがクスクスと笑う。
「今度の創立記念パーティーもレイラをエスコートすることになるだろう。申し訳ないが納得してくれるね? リリー」
「そんな~~……。まあ仕方ないですね。しょうがないからレイラ様との結婚は許しますけど、愛しているのは私だけですよね?」
「ああ……、レイラとは愛のない結婚になるだろう。愛してるよ。リリー」
そう口づけを交わす二人に、レイラは耐えられずその場を離れた。
レイラは家に帰るなりアシェルに「アイザック様と婚約破棄する」と告げた。
驚いて理由を問うアシェルに、先刻図書館で目撃した一部始終を報告した。
そして、アシェルの集めた浮気の証拠を持って父親であるクラーク侯爵の部屋を訪れ、努めて冷静に、婚約破棄のお願いをした。
――その晩、レイラは涙が枯れるほど泣いた。
レイラは次の日から体調を崩し、七日間も学園を休んでしまった。
その間に、激怒した侯爵がクレメント公爵家へ婚約破棄の申し出をし、公爵家に激震が走ったらしい。
『数々の証拠の前に息子の非を認めるしかない公爵が婚約破棄を受け入れた』
と、レイラは毎日自分の部屋に様子を見に訪れてくれるアシェルから聞いた。
「姉上……あんまり食べてないってメイドに聞きましたよ。これ、食べて」
そう言って、アシェルはメイドに作らせた簡単なスープのようなものをレイラに食べさせた。
「うう……。アシェル優しい……」
レイラの枯れたはずの涙腺からまたボロボロと涙が落ちてきて、それをアシェルがハンカチで拭う。
「……アシェル、あなた、学園でもモテてるわよね。なんで婚約者を作らないの? 誰か好きな方でもいるのかしら?」
常日頃疑問に思っていたことをレイラは聞いた。父親であるクラーク侯爵がアシェルにいくつか縁談を持ってきていたが、アシェルは首を縦に振らなかった。
「……姉上こそ、なんであんな男が良かったんですか? どこを好きになったんですか?」
「……。私にも分からないの。好きになるのに理由はいらないって聞くけど、本当にそんな感じなのよ」
レイラはアイザックを慕うが故、どうしてもアイザックとリリーの図書室でのやりとりが我慢できなかった。でも、相変わらずアイザックを慕う気持ちは彼女の中に燻ったままだ。
「……ふっきれるのは結構時間かかってしまうかもしれないわね……」
アシェルに拭ってもらった涙がまた自然と溢れてくる。十三歳で婚約してから四年間ずっと好きだったのだ。たった数日で簡単に気持ちがなくなるものではない。数か月……いや下手したら数年かかるかも、とレイラは憂鬱になった。
「……そんなに辛いなら、サルサウ村の魔法使いにでもなんとかしてもらったらどうですか」
「え……?」
アシェルは少し投げやりにそんなことを言った。
サルサウ村の魔法使いとは、クラーク侯爵家の領土の外れにあるサルサウ村に住んでいる魔法使いジョアンナのことだ。彼女は金さえあればどんな願いもその魔法で叶えてくれると評判であった。
法外な値段らしく、庶民には中々手が出せないらしいが。
「噂によると、人の心を変えられる魔法も作れるらしいとか」
それは、レイラも知っていた。惚れ薬を作ってもらった、なんてことを学園の女子が言っているのを聞いたことがある。
「良いわね、それ」
「……うん」
「その魔法使いに、私のこのアイザック様への恋心を消してもらうことはできるかしら」
「え……そっち? 俺はアイザック殿が姉上に惚れる薬を作ってもらったら良いんじゃないと思って言ったんだけど。……そうしたら、姉上はもう一回アイザック殿と恋愛から始められるんじゃないかって……」
「何言っているの? 惚れ薬なんかで好きになってもらったって虚しいだけよ」
レイラはそう言うと、善は急げ。とばかりに、早速サルサウ村に行くための準備を始めた。