第三話
五月十二日ともなるとクラス替えの新鮮味も薄れてくる時期なのだろうか。少なくともこの公立立城陽高校二年生の間はそうだった。
一週間前と比べてHRぎりぎりまで他クラスまで遠征をかける生徒は少なく、自分の席を訪ねてまで談笑しに来る友達も自粛し始めたようだった。
HRは午前八時三十分からだ。
藤原愛花は教室の前に掛けてある時計を見た。長針はかろうじて垂直を崩しているばかりだった。
時計から日ノ川良悟の席へと視線を移した。当然そこに良悟はいない。
集まっている視線は愛花のものだけではない。クラス中からこの遅刻常習犯への期待が集まっている訳だ。因みに今日遅刻すれば一年次から通算69回目だそうだ。
御年45歳、“ワダゲン”こと担任の和田元介は生徒の反応とこの後の結末を察して既に出席簿を構えていた。
チャイムが鳴った。自然に笑い声と溜め息が起こった。和田教諭も例外ではない。
「…もういいからHRやるぞ。前を向かんか前を」少し薄くなり始めた前頭部を軽く掻きながら教室を見回した。
と、前方のガラス戸けたたましい音をたて勢いよく開いた。額に汗を光らせながら日ノ川良悟が走りこんできた。肩で息をし、長髪が揺れた。
「…おはようござっす」良く通る声で良悟が言った。
「馬鹿!早かない、遅いわ!」
和田教諭の返しに教室が湧く。こういうところも和田教諭の人気の一つだ。
「もう席につけ。ほんの二、三分早く来れば滑り込みだけどセーフじゃねえか。なんでそれが出来んのだ」
「いや、『GIP!』見てたら遅くなっちゃって」
「のんびりニュース見てるなバカヤロー」
更に笑いが起きた。良悟も狙っているのだろう、口元は緩んでいる。
「もういいから早く席につけ!」こんなやりとりいつまでも続けてはいられないと痺れを切らした。「他の奴らは前を向け」
大部分の顔にニヤついた表情が張り付いてはいるものの、全員が前を向いた。
和田教諭は壮年ながら男女ともに人気があった。愛花自身も嫌いではない。日本史の教師でなければもっと好きになれるのだが。
当の良悟本人はそんなお小言などどこ吹く風といった感じで周囲の生徒と小声で談笑している。
愛花はぼんやりとその横顔に見とれた。
日ノ川良悟の存在に気付いたのは高校一年生の夏休みの前日だった。
日ノ川とは一年次も同じクラスだった。しかしそれでもその時まで、その男子生徒を意識することは無かったのだった、あの日までは、だが。
終業式を終え、半日で学校を終え飛び出していく生徒たちを尻目に愛花は職員室に向かっていた。休み明けの進路調査表を出し忘れていたのだ。一年次の担任である栗本教諭は肥満体の体を捩らせながら嫌味な小言とたっぷり十五分もお見舞いしてきたのだ。
高校なんて大学への予備校みたいなもんなんだ。三年前から進路考えんのなんか当たり前なんだよ、ん?真剣に考えてないのかぁ、お前は?
強めに冷房が効いているにも関わらず栗本教諭はしきりにハンカチで汗を拭いながらねちねちと続けたものだ。
思い出すだけで眉間にしわが寄る。
うっさいな、そんな先のこと分かんないよ
一年生は少なくとも担任という点では最悪だった。良悟と出会ったのは栗本から解放された直後のことだ。
校内の生徒は大分姿を消していた。教室で無駄話をしている連中以外はさっさと退散を決め込んでいた。
もう帰ろう。愛花は荷物を纏めて校舎を出た。
校内にいるのは大抵夏のインターハイや大会に出場する運動部だけだ。
グラウンドには白球の甲高い音、陸上部の号令、そして良悟が所属するサッカー部の号令が混ざり合って響いていた。
グラウンドの隅を通りながら首だけグラウンドに向けながら歩いた。別にその時は興味があったわけではない。ただ単に眺めながら帰ろうとしたのだ。
陸上部の男女がウォームアップなのだろう、胸に膝小僧がつくまで足を高く上げ、一定の短距離を走りぬけるという練習をシャトルランのように何回も繰り返している。
本当に何の意味があるのやら分からない。愛花は運動も特に好きでは無かった。ただひたすらに走り、早さや距離を測る競技のどこに面白みを見出せばいいのか分からない。
愛花が運動部を眺めるのは自分とは異質の人々が興味の無い行為に興じているからだ。
こんなこと思うってあたしってば歪んでるなぁ…
内心苦笑しながらグラウンドの端まで来た。正門は目の前だ。
「あれ、藤原」
声をかけてきたのが日ノ川良悟だった。城陽サッカー部の名前が入った黒いTシャツにスパイク、肩からエナメルのバッグをかけていた。今から練習のようだ。
「よう」
「ふっ、う、うん」同じクラスの、しかも一軍の筆頭格の男子に話しかけられた。変な声が出てしまった。
「今日気温ヤバいよね。マジ暑いじゃん。今から部活?」
日ノ川と一対一で話すのはこれが初めてだった。
「あ、いや帰宅部だから、私」何とかつっかえずにしゃべることが出来た。
「あ、そっか。ごめん」
日ノ川は臆面も無く笑い「でも美術部だと思ってたわー」と付け加えた。
「え、な、何で?」予想外の返事に今度こそ詰まった。
「いや、だって藤原さ、美術の絵めっちゃうまいじゃん。美術の宅間めっちゃ褒めてたし」
高校に入ってすぐの美術の授業で自由画の時間があった。高校最初の美術ということでオリエンテーションもかねての内容だったのだろう。人物でも静物でも縛りは無く、教室の外でも良いと美術の宅間洋一は告げた。
大半の生徒が写生とお喋りを折半するため教室を出ていく中、愛花は一人で学校指定の緑色の表紙のスケッチブックとまだ使えるからという理由で中学校から引き続き使用している絵具セットを抱え、中央昇降口へ向かった。城陽には昇降口の前と中庭に花壇がある。
最も中庭は園芸部が使用していることもあり、プラスチックの箱の中に肥料敷き、種を撒くという正統派の花壇が用意されている。対する昇降口の花壇はコンクリートの土台の上に巨大なソテツが生え、その周りに自生に近い形で形成されていた。
愛花はこの後者である昇降口花壇を描いたのだ。小学生時から美術や図工は数少ない得意科目の一つだ。それに季節は春、午後の昼下がりに微かな風も吹き、正に絶好の写生日和ということもあり、愛花の筆は大いに進んだ。進みすぎて腕時計を見たら終業十分を指していた。その授業で描いた絵を見るなり宅間教諭は唸った。
中々素晴らしい、いや、素晴らしいよ。顎に手をやりながら宅間教諭は本当に感嘆した様子で称賛の言葉を述べた。そして、廊下に張り出させて欲しいと言ってきたのだ。
小学校じゃあるまいし…当初愛花は反射的に断ろうとした。しかし、教師からの願いに対して愛花の性格では断れようはずもない。それに宅間教諭は心底愛花の絵を褒めていた。賞賛の証として張り出したいのだ。
愛花自身、褒められて悪い気はしない。思わず、「どうぞ」と返事をしてしまった。
かくして『昇降口前の花壇』という面白みの欠片も無いタイトルの書かれた紙片をラビットのりで下に張り付け愛花の絵は廊下に展覧された。美術室は別棟にある。目にする生徒も少ないだろう。そう思っていた。
しかし、宅間教諭は自分の受け持つ一年生に才能ある生徒がいることを純粋に喜んだ。そしてその喜びを分かち合おうとした。
絵の張り出された翌週の美術で宅間教諭から愛花の絵の宣伝があったことは言うまでもない。
宅間教諭が鼻の穴を広げ熱心に絵を称賛していく一方、あわれ藤原画伯は下を向いて小さくなるしかなかった。このように得意科目が一年次は憂鬱だった。
その時のことを良悟は言ったのだろう。
「あ…あれのこと?一年生の時の」
「そうそう。あれスゲーよな。宅間、めちゃくちゃ褒めてたぜ。『才能がほとばしっている』とか言ってたし」
「あはは…」そうだそんなことを言っていた。笑うしかない。
「でも羨ましいな。俺美術の成績悪いからな」
「え…そうなの?」
「ああ、中学の時なんか五段階評価で二だぜ?」日ノ川は照れ隠しで笑った。
つられて愛花も笑い、はたと気付いた。こんな気分になったのは何年ぶりだろう。
屈託の無い笑顔と会話が続けられた。この時点で愛花の日ノ川に対する印象はすこぶる良いものだった。
ふいに日ノ川を呼ぶ声がした。振り向くと顧問の教師だろう。怖い顔をして自分たちを睨んでいた。
「いけねえ、練習だった」
慌ててそちらへ走り寄ろうとしたが、立ち止まった。
「またな、藤原」
そう言って良悟はエナメルを一揺すりし、走り去った。
その後ろ姿を愛花は少し眺めた。暫し逡巡と思考を重ねた上で、正門へ足先を向けた時だった。
「藤原っ」
振り向くと日ノ川が何か投げていた。緩やかな放物線を描いて飛んできたそれを愛花は何とかキャッチした。
「自販機で当たったからやるわー。嫌いなヤツだったらゴメンー」
そうして今度こそ良悟は練習の輪へ向かっていった。
愛花の手には結露で汗を掻いたようなナタデココのジュースが握られていた。
缶の表面と同じように汗を掻いた少女の頬を熱風が撫でた。
それからというもの―――愛花は良悟と同じクラスであることを誰に対してというでもなく感謝するようになった。それが学校に対してなのか運命の女神なのかは分からない。
ただ、彼の横顔を眺めるだけで楽しかった。
良悟はモテた。長身に流行りのツーブロック。サッカー部のFWにして快活な性格。彼女もいるらしい。
廊下で他クラスの女子と少々卑猥な冗談を交えて戯れていることも多々あった。
本来ならば愛花が最も嫌うべき人種であるはずの良悟のあの時の言葉が、愛花の彼に対する評価を決定づけていた。
そんな意中の人が教室に滑り込んできた。遅刻など軽蔑の対象であるにも関わらず良悟のそれは愛花にとっては何故か微笑ましいものに見えてしまうのだった。
和田教諭が露骨に嫌な顔をした。
「今度やったらレギュラー外してもらうように中川先生に頼むからな」
へーい、と適当な返事をして良悟は席に着いた。その言葉に和田教諭は増々顔を険しくしたが、生徒は笑い声を上げた。その笑い声に和田教諭も仕方なく呆れ顔の笑いを浮かべた。良悟にはこんな魅力もある。珍しく愛花も笑い声を上げていた。
「さて、遅刻常習犯も着いたようだからHR始めるか」出席簿を団扇のように仰ぎながら和田教諭は段上に上がった。
ここで愛花はおや、と思った。
和田教諭は一言二言話してからHRを始めるのが常だ。
何か知らせることがあるのかと思ったが、案の定和田教諭の口からは転校生が来ることが知らされた。
軽いどよめきが起こり、お決まりの「男子?女子?」という質問が同時に数人から投げかけられた。
和田教諭は予測しきっていたのだろう、「男だ。残念!」といって皮肉に笑った。
性別が分かったからといって特別落胆や高揚する生徒はいない。代わりに再びどよめきが起きた。
潮時だと感じたのだろう「入れ」と促した。
合板で出来たガラス戸が開いた。
入ってきたのは少年、というより青年という呼び方の似合う生徒だった。
角刈りと丸刈りの間のような髪形、太い眉、どう見ても痩せ型ではない体躯、およそ高校生とは思えないような青年が入ってきた。しかし、不思議と威圧感は無かった。朴訥とした雰囲気と真一文字に結ばれた口が無口さを、よく似合う二重の大きな黒目が誠実さを物語っていた。
愛花の第一印象は『「石」のよう』だった。
「あッ」と後方から声が上がった。
声の主は相木京子だった。このクラスでは一軍の、しかもその中でも常に中心にいる生徒だ。愛花は正直京子が苦手だ。理由は明快、自分とは生きる世界が違う。
常に一軍としてクラスのムードメーカーや運動部といった男子、女子と組み、発言力も大きい。服装も制服に愛花からしたらどこで買うかも分からないショッキングピンクのパーカーを見事に着こなし、使う気にもならないディズニーのスマホケースをこれ見よがしにつけ、常に着信音を放っているような女だ。しかも会話の端々から聞こえてくるのは常にファッションだの流行りの歌手だのネイルだのタピオカだの愛花からしたら一ミリも興味の湧かない内容だ。
態度の在り方も自分とは違いすぎて忌避感すら感じていた。生徒とは大っぴらに陽気に話す、他クラスにも友人が多い。教師に対しては友達感覚で、授業を聞かずにスマホに興じているのは茶飯事だ。
おまけに家は何かの会社を経営しているとのことで比較的裕福だという。
つまり、どこまでも普通、何から何まで普通。人と接するのが不得手の愛花とは正反対の女。それが相木京子という女生徒だった。
そんな彼女が――――――目を丸くしていた。
とうの転校生も彼女の方を向いていた。その黒目は一瞬相手を推し量っているようだった。
その時生徒のほとんどは京子を向いていた。愛花が転校生を見ていたのは全くの偶然と言えた。一刹那、二刹那の後、ほんの少し、ほんの僅かだが転校生の眼が大きくなった…
気がした。
「何だよ、相木、なんかあるのか」
和田教諭が不思議さ半分、警戒半分の顔をした。和田教諭からしたら相木京子は問題児ではないが、無警戒で置いておいてもいい生徒ではない。またいつもの調子で場を茶化すと考えたのだろう。
京子の取り巻きもどうした?というように反応を伺っていた。
そして、当の本人京子は自分がいつの間にかこの箱の中の観衆の注目を思いがけず集めていたことにようやく今気付いた。
「あ、いやぁ…」
曖昧な表情をした彼女は真実を打ち明けるべきか迷った。
この生徒とは思わなかった。いや、別段言っても差し支えは無いだろうが。
常に人の真ん中にいる彼女、いや、いなくては気の済まない彼女はこれまで培った対人関係と、全てを茶化し、冗談にするというおよそ世でいう『陰キャ』では不可能な芸当で場を乗り切ることにした。
むしろ、逃げたと言っていい。
彼女がこの方法をとるまで僅か数刹那だ。
「いやぁ…なんか、渋いなぁって、なんかオヤジみたい。十七じゃなくて五十七じゃないのぉ?」
かなり苦しい、というよりも無理があった。事実、教室の空気は微妙な笑いが漏れただけだった。周りの一軍も対応に困る顔をした。
違う、あなたは絶対に別のことを、別の何かを言おうとしたんじゃないの。転校生の反応と合わせてそう確信していたのはその場で愛花だけだった。
だが、和田教諭からしたらいつもの茶化しが出たとだけ受け取ったらしい、軽くいなして転校生へ振り向いた。
「すまん、ちょっと変なのが入った。あいつはこの中でもまぁまぁおかしい奴だからな、気にせんで自己紹介してくれ」
はぁ、と軽く頷くと転校生は前に一歩出た。雰囲気にぴったりの高校生離れした野太い声だった。
緊張している転校生は少し口元をよどませると、
「高倉優造です。北海道から転校して参りました。中途半端な時期ですが、皆さんのお邪魔にならないようにします。よろしくお願いします。」
一気にしゃべり終わった。
吹き出したのは和田教諭だ。
「固いわお前は!緊張しなくていいって言ったろ?」
すいません、と高倉はにこりともせず頭を下げた。受けを狙った訳でもないらしい
これが高倉優造との出会いだった。