僕の可愛い婚約者 2
彼女は『ラノベ』という本の世界が、現実になると信じていた。前世で読んだもので、自分は生まれ変わったと言い張っている。想像力がたくましく、夢物語だとバカにするのは簡単だ。けれど、もし本当だとしたら?
彼女の語る前世は、悲しくつらいものだった。集団生活でほとんど相手にされず、一冊の本だけが心の拠り所だったというのだ。今の自分のことも、『悪役令嬢』というよくわからない単語を使って、他人事のように話す。だから僕は、確認してみた。
「ニカは自分が本の世界に生まれ変わったって、本気で信じているということ?」
「そうよ。……私、ヴェロニカはこの『ブラノワ』世界でヒロインをいじめる使命があるの」
頭が悪いわけではないようなのに、ヴェロニカはどこまで本気なのだろう? 自分が本の登場人物だと、固く信じて疑わない。それどころか義妹をいじめなくてはならないと、変な責任感に燃えている。
本当に、何から何まで理解不能のことだらけ。僕は、ニカの話についていくのがやっとだ。彼女はさらに、知らない単語を口にする。
「あーあ、早く番外編にならないかなぁ」
「ばんがいへん?」
『ラノベ』に『悪役令嬢』、そして『番外編』。どの言葉も、この国の辞書には載っていないものだ。それなら全てが作り話かと思いきや、今度は一部の者にしか知られていない情報を披露してきた。二年後の婚約のことや、牢獄のことだ。
「特に水宮の牢獄は、滝のような大量の水に囲まれた場所。魔法で流れる水の勢いが強すぎて、囚人は出たくても出られないんですって」
「そりゃ、そうでしょ。牢獄だから」
動揺を押し隠し、冷静に答える。
勢いの強すぎる水は、空間を遮断するだけでなく物も切ることができるのだ。無理やり脱獄しようとすれば、身体の一部、もしくは全部を失う。そんな恐ろしい場所に彼女は自ら「入りたい」と嬉しそうに話す。その理由というのが、そこにいる看守が優しくてカッコいいから……呆れて物も言えない。
ヴェロニカは、牢獄の水量が魔法石で制御されているということまで知っていた。それは、王家と関係者以外には秘密にされていること。僕は頭を目まぐるしく働かせる……父親のローゼス公爵が機密情報を集め、知り得たことを幼い娘に話している可能性はないだろうか?
――あり得ない。長年国に貢献し、父の信頼も厚い公爵。彼がそんな迂闊なことをする人物だとは、到底思えないからだ。
それなら、ヴェロニカは以前読んだという本を元に、自分と周囲の未来を言い当てることができるのだろうか? それともこれは、彼女が偶然考え出した物語?
「何というか、すごい話」
それしか言いようがなかった。
どう考えていいのかわからない。
少しも把握できない経験は、初めてだ。
そのため、つい皮肉な口調になってしまう。
「それなら、今すぐ牢獄に行けばいいよね?」
言って確かめてくればいい。
目当ての看守が、その場にいるのかどうか。
「バカね、今行ったとしてもジルドはいないわ」
考えうる限り、僕は人からバカだと言われたことは一度もない。自慢じゃないが、利発とか才気煥発と褒められて、育ってきた。王子の身分を差し引いても、同い年の子供よりは格段に物事を理解しているつもりだ。それだけに『バカ』と言われたことが、かなりショックだった。
「長すぎない? そんなに待つなら、諦めた方が……」
不確定な未来を期待するなんて、ニカの方こそバカなんじゃないのか?
「……どうして諦めなくてはいけないの? 大人の私はすこぶる美人になるのよ……スタイルも良くてすごいんだから!」
ダメだ、まったく相手にされていない。
彼女にとって僕はただの女の子。
この先彼女の語った通り、婚約するかもしれないのに。
それなら、ヒントをあげようか。
「へえ、美人になるんだ。それは楽しみ」
夢のような話を真剣に語るヴェロニカ。
その話がどこまで真実なのか、側で確かめるのもいいかもしれない。前世という概念が、存在するのか否か。書物では目にしたことのない未研究の分野だが、興味はある。
素性を隠した僕はこの日から、彼女の屋敷に入り浸ることにした。
ニカによると、本の中の主人公はソフィアで王子がその相手役。二人はやがて恋に落ち、最終的には結ばれる。自分は悪役令嬢だから、徹底的にソフィアをいじめて二人の仲を裂き、邪魔する役目。なおかつ悪事に手を染めなければいけない……のだとか。
なぜそんな存在が要るのかさっぱりわからない。相手にされず悪事を働くくらいなら、次を探せばいいと思う。ニカの言っていることは、やはり理解に苦しむ。
悪役の嫌がらせは子供のうちは簡単で、成長すればもっとすごくなるらしい。手始めに義妹をいじめて泣かせ、王子が登場するのを待つという。穴を掘ったり変な飲み物や食べ物を用意したり、ソフィアの服を汚そうと画策したり。けれどどれも単純だから、子供の遊びの延長にしか思えない。
それに、いくらやってもソフィアの前に王子が現れるはずはないのだ。だってラファエルは僕で、君の横にいるのだから。
ニカと一緒に楽しく過ごす。
時にはソフィアも交えて。
ニカの隣は居心地が良く、気を遣わなくていい。だって、誰かといて期待されないなんて初めてだから。彼女の前で僕は王子である必要はなく、ただの『エル』でいられる。まあ、女の子の恰好ではあるけれど。
ヴェロニカは、ソフィアに意地悪をしようと一生懸命だ。次から次へと幼稚な手口を考え出す。
だけどニカ、気づいている? 君は悪役にはなりきれない。ソフィアを傷つけないように、注意を払っているのだから。
ニカは義妹にいたずらする前に、自分で安全を確認している。唐辛子入りの水もマスタードをたっぷり塗ったパンケーキも、自ら辛さを調節していた。泥団子は大きく外したし、赤い果汁の爆弾もまずは自分にぶつけたらしい。調理場にいた女性に、掃除が大変だったと後から聞かされた。
成功したらしたで、優しい君はきっと自分を責めるのだろう。だから僕は、敢えて間違うことにする。唐辛子入りの水を飲んだフリをし、君に勧めた。マスタード入りのパンケーキを君の前に置いたのも、もちろんわざとだ。泥団子をソフィアに渡し、果汁入りの爆弾を転んだフリして押し潰す。
だって、ニカの中で僕はドジな女の子の『エル』だろう?
共に過ごすうち、僕はニカの語った前世の話が真実ではないかと思い始めてきた。彼女は以前、相当苦労したらしい。ニカが悪人になりきれないのはそのためだ。意地悪が失敗した時の困った顔はさることながら、どこかホッとした様子なのもいつものことだ。
それなら、無理して悪役にならなくてもいいのに――