告白
8
ふと、銀鼠の話を聞くことを、この病院に来る前よりも躊躇っていると気付き内心で苦笑した。
昔のことよりも、銀鼠という存在のほうが青磁の中で大きくなったということか。両親が知ったらがっかりするだろうか。それとも、喜ぶだろうか。今となってはわからない。
青磁は彼の視線をまっすぐに受け止める。
「聞かせてください」
銀鼠の笑顔が今にも壊れそうに思えた。そんなものは気のせいだと言うように彼の口調はまた明るくなる。
「僕の両目は義眼なんだ」
「やっぱり義眼だったんですか」
「あ、気付いてた? 僕は生まれつき見えなかったんだ。けどね、残念なことに、見えるようにされちゃったの」
「見えたくなかったのですか?」
「そりゃあ。こんな汚い世界、見たくもなかった」
そう言う先輩の横顔は、どこか悲しみを感じた。初めて見る、哀愁の色だ。
「僕は小さい頃、両親に売られたんだ」
「え」
その言葉の衝撃に、青磁は口を開くが何も言えなかった。その反応を見て、銀鼠はふっと微笑む。
「僕の命と引き換えに、多額の金を得て悠々自適に暮らしていただろうね。今どうしてるのかは興味がないけど、まあ幸せに生きてると思うよ」
以前、銀鼠との親睦会で青磁は怒った。親の死をきっかけに警軍となった話を、銀鼠は笑ったのだ。家族が死んだ悲しみをわからないのだと、彼に怒鳴り殴った。「そうだね」となおも笑っていた彼は、どんな心情だったのだろうか。たしかに亡くなってはいないのかもしれない。それでも笑っていられるような事情ではなかったのに。
引き取られた先は、人体実験をやっていたと言う。なんでもないことのように語るその様が異常で、青磁は寒気がした。
「人体実験なんて、そんなの許されるわけ」
「そう、倫理的に許されない。だから世間にバレないようにこっそりと。実験体は僕みたいにいらない子を使うんだ。奴隷制度があった時代から変わらないね、人を人と見ない人は案外そこら中にいるんだよ。今はドールが奴隷替わりだけれど、人間の体のことは人間を開けて見ないとわからない」
嘘を吐いているようには見えない。本当なのか。
吐き気が込み上げてくる青磁に構わず、彼は続ける。
「しょっちゅう手術でね、体中あちこち改造されたみたい」
銀鼠は、懐かしむように埃の被った手術台を指で撫でた。
「肉を裂かれたときの痛みはね、死んだほうがマシなんじゃないかなって思ったくらい。麻酔なんてもの、十分に投与してくれないんだ」
思えば、あのときに死んでいたら良かったのかもしれない、と独り言のように呟いた。
その言葉に、青磁はなんと返せばいいのかわからず、ただ黙った。銀鼠は気にすることなく、いつもの笑顔に戻す。
「それでも腕はよかったんだろうね。僕はこの通り死んでないし、五体満足で義眼もよく見える。ふふ、元の目玉がどんなものだったかは知らないけれど、この義眼の色は結構好きだよ」
言いながら、己の瞼を指でそっとなぞる。そのときのことを思い出したのだろうか。一瞬だけ、わずかに眉根を寄せた。
「カナリヤがせーちゃんのことをかわいそうだって言ってたでしょ。それを聞いて僕が不快になったのはどうしてなのか、自分でもよくわからなかった。けど、思い出した」
かわいそうという言葉が嫌いなのだと、あのとき銀鼠は言っていた。
「当時、僕のことをかわいそうだって言う人がいたんだ。どうして? 僕は自分がかわいそうだなんて、一度も思ったことはない。たしかにつらくなかったって言ったら嘘だけれど。でも今までの生き方しか知らなかった。体を切り刻まれて、傷が治ってきたらまた開かれて。これが当たり前だと思ってたんだよ。それをどうしてかわいそうだって見下すんだ? 不思議で仕方なかった」
銀鼠は一気に捲くし立てた。表情はいつもと変わらない。
「そして見下すそいつらが言うんだ。殺してあげたいって」
青磁には、もう相槌を打つこともできなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。話している彼も、そんなものを待たずに勝手に続けていく。
「はは、笑えるだろう? 僕の生活は生き地獄だって言うんだ。だったら死んだほうがマシだろうって」
高らかに響く笑い声には冷たさが滲んでいる。
「ああ、まあ今冷静に考えれば、見下してなんかないただの優しさだったんだろうとは思うよ。客観的に楽観的に、他人事のように考えればね。でもそんなの。あのときは内臓引きずり出されてぐちゃぐちゃにされて体も精神も支配されて、そうしてる当人たちに同情されて。かわいそうだなんて。それを他人から言われると、なんだろうな、胸を抉られるようだった。いや、まあ物理的に抉られてたんだけどさ。そうじゃなくて、精神的に。僕の苦しみの何を知ってるんだって問い詰めたかった。殺せるもんなら殺せばいい。なのにどうしてかな。みんな僕を殺せなかった。どうしてだと思う?」
笑えもしない冗談を交えながら言葉を問いかけているが、青磁の答えなど求めていないのだろう。すぐに口を開く。
「僕が殺したから。改造されて、中身がめちゃくちゃなのに、自己防衛だなんてくだらない能力が残っていたらしい。死ぬのなんか怖くないのに、死んでおいたほうが楽だったかもしれないのに、なんでだろうね。体が勝手に動いてた」
人を易々と殺せる能力を、その改造とやらで得たのだろうか。それとも、潜在的な能力だったのか。はたまたその両方か。
どちらにしろ、その過去が今の化け物を作り出したことには変わりない。人間として生きる道だってあったかもしれないのに、彼を壊して、歪ませた。
「たくさん殺して、それで決めた。僕は僕の好きなように生きようって。いや、死んでもいい。とにかく、僕をかわいそうだって言ったやつらの世界を一度見ようと思った」
本当に自分は不幸なのか。それならば世界はどれほどの幸せに満ちているのか。それを知りたかったんだ、と銀鼠は独り言のように言う。
「そしたらなんだ? こんなばかげた世界。どこが羨ましいものか」
銀鼠は、吐き捨てるように言った。心の底から、軽蔑しているような声色、表情。
「僕は数え切れないくらい人を殺した。最初は僕の目玉を抉った人、次にその研究所のやつら」
「研究所……」
青磁はそこでようやく言葉を発した。しかしそれは無意識に漏れた言葉で、青磁自身もはっとした。
その顔を真正面からじっと見つめている銀鼠は、いやらしい笑顔を見せた。そういう表情をするときの彼は、大抵嫌なことを言う。
「ねえ、もう気付いてると思うけど。いいこと教えてあげる」
その経験と、心の奥底に湧いた嫌な予感が重なった。
聞きたくない。
そう思うのに、制止の言葉も吐き出せず、銀鼠の動く唇をただ見つめることしかできなかった。
「僕を人外にした研究所の名前はね、レグホーン。世間ではレグホーン病院って、呼ばれてた」
その名前を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。空気が上手く吸えず、心臓が早鐘となる。異様なほどに唇が乾き、酸素不足で頭の芯が痛み始める。指先が冷たい。震えて、力が入らない。
話を聞いている最中、そうなのだろうと頭の隅で思っていた。と、思う。
その結論に至るのを、拒否していた。
それなのに彼は真実だと言うようにまっすぐ、青磁を見据えた。
「驚いた?」
銀鼠の声が、遠くに聞こえる。頬を嫌な汗が伝う。
「それにね、ここ。ここなんだよ、僕がこうなった場所」
手術台を指す。銀鼠は、ここで。
銀鼠は迷う素振りも見せずこの病院に入り、ここへ来た。ただふらふらと歩いていたわけではなかった。
おそらく病院に行こうと言い出したときから。もっと前から。
ここに青磁を連れてきた。意図的に。
銀鼠はおもむろにシャツを開いた。片手が塞がっているのに、スムーズにボタンを外していく。引き締まった腹と胸が露わになった。包帯は取れていた。
割れた腹筋の美しさよりも目を奪うそれに、青磁は無意識に顔を歪めていた。その表情を見て、彼は目を細めて笑う。なぜそんなにも蠱惑的に笑えるのだろう。やはり常人ではないのだ、彼は。狂っている。
しかし。
それを綺麗だと、見惚れてしまう青磁もまた、狂っているのかもしれない。
動転しているのには変わりないのに、一瞬惹き込まれた。
「病人につける傷は、なるべく痕を残さないようにするけれどね。僕はそんな気遣いをされたことがないから、こんなにくっきり残ってる」
まだ痛みを感じるのではないだろうかと思えるほどの生々しい傷跡を、銀鼠は指でなぞる。脇腹や鎖骨の下など、傷は複数あるが、一番大きいのは胸から下腹部にかけてのまっすぐな傷。
「目の下も裂けた痕があったから、刺青で隠したんだ。名誉の負傷なんてくだらないカッコいいものでもないからね。ただ体の傷は、大きすぎて隠しきれない」
なんで。
「まあ、執刀医だってもしかしたら上司に命令されて嫌々だったのかもしれないけど。大きな組織ってのは面倒だね、上に逆らうこともできない。かわいそうって言ったくらいだから。ふふ、せーちゃんみたいに優しい人だった」
なんでこの人は笑っていられるのだろうか。笑って話せる過去ではない。
法外な人体実験が行われていた。病院がなくなった今でも、そんな事実は晒されていない。けれど、本当にあった。故意に隠された人物が、病院を壊滅させた。やはり、大量殺人を実行した人物は病院内にいた。病院関係者でも患者でもない、名簿に載らない人物が、彼なのか。
銀鼠の言っていることすべて嘘だと。そう思いたかった。
「そう。キミのご両親は、ここで働いていたね」
人を助けるために必要なことをしていると、両親は困ったように答えた。子供にわかりやすく説明するのが難しいと、悩んだのだろうと思っていた。
「まさか」
違う。
後ろめたいことをしていたから。
「キミの、ご両親が、僕の両目を抉った」
やけにゆっくりとした口調。言い聞かせるような、いやらしい声。
「そして、キミのご両親を、僕が殺したんだ」
レグホーン事件の犯人を、両親を殺した犯人を見つけ出そうと警軍に入った。ようやく手がかりのような情報が手に入った。少しずつでも犯人に近づけていると思っていた。
ずっと、両親が死んでからずっとだ。
見えない答えを闇の中で探していたのに、それを簡単に銀鼠は照らした。自分を。
あの銀鼠が。人の気持ちなどわかろうともしない、人を殺すことを快楽としている銀鼠が。彼の人柄を思い返すと信憑性はあるけれど、それでも。手の込んだドッキリか。質の悪い悪戯か。信じられるわけがなかった。
「嘘です。そんなわけ、ないじゃないですか」
急激に渇いた喉から出た声は、酷くか細かった。
青磁が時間をかけてようやく否定したのに、それに対しての返答もまた否定だった。
「嘘じゃない」
「嘘です。じゃあどうして警軍にいるんですか。どうして俺の前に現れた」
「警軍の偉い人の指示だよ、どっちも」
「わかりません。そんなの嘘です。先輩が殺した証拠はあるんですか」
首を振る青磁の襟元を、銀鼠は荒々しく掴んで引き寄せる。よろめいた青磁の目を間近で覗き込んだ。その瞳は義眼なのに、苛立ちの色が見えた。それとも痛々しい表情がそう感じさせるのか。
「何が嘘だって? 僕が人体実験されてたこと? おまえの親を殺したこと? 今更証拠が欲しいなんて馬鹿げてるだろ。証拠ってなんだ? 当時の凶器か? 仮にそれを提示したところで何になる。納得なんてしないだろ。何年前の事件だと思ってるんだ、捏造しようとすればいくらでもできる。嘘もクソもない。そんな冗談を僕が言うと思うか? こんな無様な傷を、自分でつけると思うか? 人に見せると思うか? 隠してきたんだよ、ずっと。見えないように、シャツも一番上までボタンをしてさ。だらしない僕にしては不自然だと思わなかった?」
声色は変わらず静かなのに、切羽詰まったような口調になっている。
「そんな、でも」
青磁は息苦しくなり、口を開けて意識的に呼吸をした。
嫌だ。考えたくない。どうすればいいか、わからない。
目尻から涙が頬を伝う。過呼吸になりそうだ。
「どうあがいても殺されてたよ、せーちゃんの大事な人たちは。レグホーン事件の犯人である僕の傍に、一番近くにいた」
両親は、何もやましいことをしていなかった。尊敬できる、まっとうな仕事をしていた。それなのに、よくわからない狂った犯罪者に理不尽で残虐な殺され方をした。病院は何も悪くないのに。両親は何も悪くないのに。
ただ、そう思いたかっただけだったのだ。
両親の本意ではなかったとしても、銀鼠の体を切ったのは事実なのかもしれない。そして銀鼠は両親も含めた病院の人間を殺した。
そうだろう。銀鼠ならそうする。彼が殺してもいいと判断した相手なら、躊躇いなく徹底的に殺すだろう。
数か月一緒に行動して、彼という人物をそう把握している。
「カメラの映像は、警軍の上層部がなかったことにしたんだよ。僕を飼うためにはそんなものあったら困るからね。僕を思い通りにさせる脅しになんてならないけど、僕には警軍にならない理由がなかったから大量殺人をしたなんて言いふらしもしない。それから数年経って、キミが警軍に来てしまった。うちの上司は、わかってて僕らを組ませたんだよ。どうせ僕を飼い飽きたから死ぬなら死ねと接触させたんだ。悪趣味だろ」
銀鼠の笑い声が、酷く遠くに聞こえた。足をつけている地面がぐらりと歪む感覚。
「あのドール。当時の子が僕だと気付いてた。それなのに言わなかったのは気を使ったのか何なのか知らないけど、すごく腹立たしかった。あいつの口からキミに知られるのが嫌だったんだ。少し安心した自分にも腹が立った」
だから問答無用で壊した。苛立たし気だったのもそのせいだったのか。
「自分勝手だね、僕は。今更、しょうもないプライドだ」
銀鼠はずっと、青磁の目から視線を逸らさなかった。青磁を逃がさないように、流暢に喋る口とは裏腹に、落ち着き払っているような瞳だ。
「僕が殺した証拠はないよ」
元から気に食わなかった。嫌いだった。
この人が。本当に。
「それでも、僕が殺した」
「もう……やめてください」
「わかるだろう、キミには」
「やめろ」
「殺せばいい。キミは始めから僕が気に入らなかったんでしょ? なら、いいじゃない。嫌いな人に手を上げるなんて、好きな人を殺したいと思うよりも自然なことだよ」
「黙れ!」
青磁は怒鳴った。
今度は青磁が銀鼠の胸倉を掴んで倒した。シャツの襟を握りしめたまま、腕で首を絞めるように地面へ押し付ける。息を荒くして組み敷いた銀鼠を睨み下した。
心臓が痛い。目の奥が熱い。
銀鼠の瞳がなおもじっと青磁を見る。いつの間にか口元の笑みも消え、何の感情も抱いていないような真顔。こんな無感情な銀鼠を初めて見た。普段の感情の豊かさが抜けて、端正な顔立ちだからか目が作り物だからか、まるでドールのようだった。
「青磁には、僕を殺す権利があるよ」
薄い唇が動く。それもどこか作り物めいていて怖かった。声にも抑揚がなく、何の色も感じないのにずくんと胸に響く重みがある。
「首を絞めるか」
銀鼠はゆっくりと自分の胸を指で示した。
「僕の心臓はちょっとずれてて、ちょうど胸の真ん中あたりにあるんだ。ここを刺せば殺せる」
傷跡をなぞるように刺せば殺せる。彼は言った。
「殺せ」
目の前のこの男が、両親を殺した張本人。ずっとずっと憎かった。警軍に入って、見つけ出して、殺してやろうとずっとずっと思っていた。
それなのに。
「どうして!」
涙の滲んだ声を浴びせ、人形のような彼を見下ろした。
「どうしてあんたなんだ! 殺してやりたいのに!」
見つけて殺したところで、両親が戻ってくるわけでもない。復讐なんてしたところで、きっと気分が晴れるわけでもない。それでも、必ず殺してやると思っていた。両親が死んだのに、あんなに人を殺してたくさんの人生を狂わせたのに、のうのうと生きている犯人が許せなかった。
こいつはいつも笑っていた。何の悪意も躊躇いもなく、人を殺せる。
「わかってて俺の傍にいたのか! なんで……馬鹿にしやがって!」
こいつはいつも笑っていた。何の悪意も躊躇いもなく、人を殺せる。
銀鼠の首に手をかけ、ゆっくりと力を入れる。
「あげく、殺せだと? ふざけんな、ふざけんな!」
涙が目から零れた。彼の頬に落ちる。
「ずっと、このときを」
青磁は唇を噛み、血が滲むのを感じた。痛みを感じない銀鼠でも、首を絞められれば苦しいのだろう。顔が紅潮し、眉根を寄せている。見たことがない、苦痛の表情に。
銀鼠の綺麗な翡翠の瞳が、涙で煌めいていた。抵抗もせず、じっと青磁を見返している。
本当に、殺されようとしているのか。
あぁ。
もう。
ずるいな。
「――くそ!」
青磁は顔を歪めて、それを見られたくなくて銀鼠の胸に額をつけた。彼の心臓の音が聞こえる。生きている。
手を離した。
わずかに咳をして、銀鼠は目尻に溜まった涙を指で拭う。人間離れした彼でも、涙腺があるのか。そんなことを、ぐちゃぐちゃしている頭の隅でぼんやりと思った。
呼吸を整えて、思考が働かないまま口を開く。
「できるわけ、ないじゃないですか」
ぼろぼろと出てくる涙を袖で拭った。泣き顔など見られたくないのに、勝手に流れてくる。
「僕のこと嫌いなのに? 憎んでた仇なのに?」
「うるさい。嫌いです。でも、できません」
嫌いだ。両親を殺した事実も憎い。銀鼠が最悪な屑なのもわかっている。
「滑稽でしたよね、知らずに犯人を捜してたおれなんて。馬鹿みたいでしょ。ああ、もうすごい腹立つ」
「そんな風に思ってないよ」
それでも、銀鼠という人間を知ってしまった。たくさんの悪いところも、少しのいいところも、知ってしまっている。憎しみが増しても情がなくなるわけもない。
彼が壊れたのは、彼のせいではない。憎むべきは彼か。誰か。
憎いと思う気持ちは銀鼠にもあるのではないだろうか。本人はそんな感情も狂って自覚がないのかもしれないけれど、彼の人生を狂わせたのは、レグホーンだ。彼の身体に消えない傷をつけたのは青磁の親だ。それならば親を殺していなくなった今、息子である青磁をも殺してやりたくはならないのだろうか。
青磁は顔を上げた。
「憎い人の子ですよ、俺は。先輩こそ、俺を殺さなくていいんですか?」
笑っていない銀鼠は新鮮だった。いつから、笑うようになったのだろうか。
「憎んでないよ。殺すつもりだったら初めて会ったときに殺してる」
「知っていたんですか? 最初から」
「知ってた。訓練場で会ったとき、書類を見て」
憎まずとも、好ける相手ではないはずだ。
それならどうして。
そう問いかける視線を投げかける。
「僕を、殺すんじゃないかなって思って」
銀鼠は少し迷うように言った。その言葉を理解できなくて、青磁は眉根を寄せる。
「青磁自身は何もしてない。嫌いにならないし、憎くもない。ご両親も、別に憎くない。こんな言い方すると怒るだろうけど、そういうんじゃなくてただ、運が悪かったんだよ」
両親は言った。
「人を助けるために必要なこと」だと。多数を助ける技術のために、何も知らない罪のない子を犠牲にしていいのか。両親は疑問に思っていたはずだ。だからこそ、そう答える前に間があった。自分たち自身に言い聞かせているような、正しいと思い込みたいような。
そんなこと、許されるわけがないのに。
狂っているのは、レグホーンか、哀れな子か。
狂わせたのは。
「青磁を見てたら、悪い人たちじゃなかったんだろうって思った。ただ、僕みたいのに関わっていたから死んだ」
自分の体を切り刻んだ相手を、憎くないだと。同情されて、それでも改造をやめなかった相手を運が悪かったと片づけるのか。自分が悪いと。
「青磁が僕を殺したいほど憎んでることがわかった。死ぬ時がきたんだと、そう思ったんだ。それが目的で、上司は僕らを組ませたんだし」
そんな言い方、まるで。
「死にたいんですか?」
「死にたいなんて、僕がどうなりたいかなんて興味がないよ。でも、前から言ってるじゃない。殺されるなら」
青磁がいい。
銀鼠は薄く微笑んだ。
「でもごめん。もっと早く言えばよかったのに。なんでだろう、言えなかった」
自分を傷つけ殺した人間の息子に、正直になど言いにくいに決まっている。そんなまともな感覚が身についている自覚がないのだろう。不思議そうにしている銀鼠を見下ろし、この人を憎むのは違うのではないかと思った。
以前、「元々の自分と今の自分は違う」と言っていたことを思い出した。あのときは何を言い出すのかと訳がわからなかったが、あれはこういうことか。レグホーンで研究対象として売られる前と後。もし、銀鼠の親が子を売るなどと考えない正常な思考の持ち主であったら、彼はどんな人間になっていたのだろう。変わらないかもしれない。けれど、人間らしい生活を奪われた彼を責めるのは、あまりに酷だ。壊れたくて壊れたんじゃない。
「どうして、言う気になったんですか」
青磁は静かに問いながら、ようやく銀鼠の上から退いた。銀鼠は上体を起こし、「んん」と唸った。
「青磁と一緒に行動するようになって」
そこで言葉が途切れた。自分でもよくわかっていないのだろう。俯いた頬に髪がふわりと垂れる。
「この子には、言わなくちゃいけないと思った。いや、そんな綺麗なもんじゃなくて。うん、楽になりたかったのかも」
銀鼠は納得したように、一つゆっくりと頷いた。
「今までの生き方に後悔はしてない。これから変わるつもりもない。それが正しいか間違っているかで判断するなら、間違っているんだと思う。だったら、淘汰されるべきは僕だ」
「どうして」
そんなに無邪気な笑顔を向けられるのだろうか。
言いたいことも考えたいことも、たくさんあるのに、その笑顔がすべて呑み込んだ。
「それに、手がかりもほいほい出てきて、潮時だなって。誤魔化そうとすればいくらでもできるけど、なんでだろうね。そうするのは違うなと思った。僕、隠し事とか苦手だし、裏でこそこそするの嫌いだから」
銀鼠の様子がおかしいと感じたのは、気のせいではなかったのか。
「だから、殺してほしかったんだ。青磁に」
銀鼠はにっこりと微笑み、青磁の眉間を指でつついた。しわを伸ばすように擦る。
その手をどかしながら、青磁はそっと息を吐いた。
「先輩は、俺がそんなに薄情に見えますか」
しばらく黙って青磁を見つめていたが、眉尻を下げて困ったような顔をする。それでも彼の口元は微笑みを崩さない。
「薄情だとは、思わないかな」
「そうです。俺は先輩と違うんです。いくら嫌いでも、世話になった人を急に殺そうなどと思えません。先輩は俺を殺せるみたいですけど」
「根に持ってるなぁ」
「ていうか」
青磁は今度こそ深く息を吐いて、肩の力を抜いた。銀鼠のシャツを引き寄せ、ボタンを留める。
「いつまでも肉体美をひけらかさないでください。みっともない」
「……せーちゃんは貧相なの?」
「筋肉がつきにくいだけです。触んな」
「ふふ」
本当の笑顔を垣間見た気がした。いつも笑っているのに、いつもの笑顔が作り物だとは思っていないのに。漠然とそんなことを思った。それでも、彼の気持ちなど到底理解はできないのだろうけれど、ほんの少しの本心が出たのではないか。
それを見て切なくなりはしても、やはり憎しみは出て来やしなかった。青磁にとってこの人は嫌いな先輩であることが前提で、殺してしまいたいほどの感情が湧いてこない。青磁もやはりそれなりに狂っているのかもしれない。
「とりあえずじゃあ、コンビは解散ってところかな?」
「却下します」
「へ」
いいさ。狂ってたとしてもそれで。
青磁はふんと鼻を鳴らし、銀鼠のきょとんとした顔を見返した。
「俺は、先輩の死に目に会いたいです。倒れたあなたにこう言うんですよ、ざまあみろ」
「あー、うん?」
銀鼠は納得したような、していないような曖昧な返事をして首を傾げた。そしていつものように笑う。
「随分と歪んでるね」
「先輩の悪いところが、伝染したのかもしれませんね」
「僕のせいなの?」
「そうです。みんな先輩のせいです」
「そっか、ありがとう」
いつもなら笑い混じりに謝ってくるのに。彼は礼を言った。
なんでこの人は、こんなタイミングで人間臭さを出すのか。
「すごく腹立つ」
「えーなんでよー」