死の価値観
6
両親の働いていた病院は、凄惨な事件の調査が終わってから数年、誰も入ることもなくすっかり廃屋となっている。謎の多い事件だったため、興味本位で記事にしようとする記者たちは多く、事件の捜査が終わった後もしばらくはたくさんの人が出入りしていたようだ。しかし警軍も記者も、犯人の手がかりを何も見つけることができないまま時間だけが過ぎて行った。ほとんどの患者と病院関係者がいなくなって経営も立ち行かなくなった。程なくして病院は閉鎖され、段々と人の気配もまばらになりそのまま廃れていった。今では立ち入るには警軍の許可が必要となっている。
「正直に言うと」
車を降り、青磁は歩きながらぽつりと言った。隣にいる銀鼠には目を向けていないが、なんとなく視線を感じた。
「行きたい気持ちと行きたくない気持ちがあります」
新しい犯人の手がかりなど、今はもうとっくにない。それでも、両親が働いていた場所だ。死んだ場所は見ておきたい。見なければいけない気がする。ずっとそう思っていたのに、行動には移せなかった。
こわかった。
十分に理解しているはずなのに、両親が死んだという事実から目を背けたかった。犯人を見つけ出すという決意のすぐ裏側に、そんな逃げの気持ちがくっついている。
「両親が生きているときもその後も、行ったことがないんです」
知りたいと思っているのに、矛盾しているでしょうか。そう問う視線を銀鼠に向けた。
銀鼠のことは屑で大嫌いだ。それなのにこんなときだけ頼るように縋る自分が嫌だった。けれど無責任に明るい返事を求めている。他人からの「そんなものだ」という言葉を言い訳にしたかった。
無意識に足取りが重くなっていた青磁に合わせて、銀鼠はゆったりと歩きながらいつものふにゃふにゃした顔をしている。
「真実が良いものとは限らないからね、怖いと思うのは自然なことだよ」
ゆるい口元から漏れ出した言葉は、銀鼠の性格と表情に似つかわしくないものだった。
「先輩、なぜ病院に行こうなんて言い出したんですか?」
「……」
銀鼠は一寸口を噤み、やや考えるように目を伏せた。いつも単純明快な彼にとってはそんな反応もどこかおかしく感じる。
「僕さ、せーちゃんに興味があるんだよね」
「は?」
「好きなんだよ」
不意ににっこりと笑う顔はいつもと変わらない。おかしいと感じたのは気のせいだったのだろうか。質問の答えにはなっていないことを言う彼の顔色を窺ってみるが、よくわからない。
「好きな子は大事にするタイプなんだ」
「そうですか。私は嫌いですけど」
「あはは、そうやってはっきり言うところもわかりやすくて好きだよ」
はぐらかされたのか。彼の考えていることはやはり微塵も読み取れない。まさか本気で青磁に興味があるとは思えない。
訝しむ青磁に、銀鼠は少し困ったように微笑んだ。
「あと」
「?」
「せーちゃんが犯人を殺すところを見たいのかも」
何を言い出すのか。
好きだとか殺すところを見たいだとか、もう彼が何を言っても青磁には何も理解はできないだろう。
「いかれてますね」
「うん、ごめん」
どんなに遅く歩いたところで、雑木林を抜ければすぐだ。色褪せた黄色いテープが無造作に張られている奥が、レグホーン病院だ。廃墟と化した建物を前に、なんとなく寒気がした。
「先輩」
「あの男だね」
門の前に、ドールが立っていた。青磁たちを見てにこりと笑いかけるその顔は見覚えがある。カナリヤを愛した男。殺した男。
銀鼠が首を絞めた痕は綺麗になっていた。犯罪など何もしていないような、爽やかな表情をしている。
「やあ、待ったかいがありました。ここならいずれ来ると思いまして」
「なんでこのタイミングなんだよ。空気読めよ」
銀鼠はぶつぶつと訳の分からない文句を言いながらも、青磁へ視線を送った。話をしたかったのだろう、と促す。
突然の登場で戸惑いつつ、青磁は口を開いた。
「あの、」
しかし言葉が出てこない。何を聞けばいいのか、頭が働かない。
そんな青磁の動揺を汲み取ったのか、男は柔らかい微笑みを浮かべてわずかに首を傾けた。作り物の顔なのに表情が豊かで、それでも冷めた瞳なのが暗さを感じる。
「この間は、話を中断させてしまいましたね。えーと、レグホーンの監視カメラの話でしたっけ。気にしてらしたのに、途中ですみませんでした」
「そ、そうです。そのカメラの内容をなぜあなたは知っているんですか? 警軍にもそんな情報は記録されていなかった。データは破壊されていたのでは?」
「恥ずかしながら、個人的にデータを抽出していたんです。そもそも、病院内のカメラなんて玄関口と廊下くらいにしかありませんけれどね」
「あんたの趣味は犯罪なんだよなー」
銀鼠が独り言のように呟く。興味がなさそうな声色と不機嫌そうな眉間のしわがアンバランスで、何を思っているのか青磁にはわからなかった。
「では、あなたは犯人の映像を見ていると?」
緊張で、口の中が渇いていた。声が震えて、指先が冷たい。
玄関と廊下だけでも、十分だ。姿が映る確率は高い。
「そうですね」
「誰だ」
「すみません、それは」
男は眉尻を下げて、ゆっくりと首を横に振った。胸倉を掴み上げて「誰だ」と繰り返すも、返ってくるのは無言だった。
「なぜ言えない」
「言えないのではなく、誰かという答えはわからないのです」
「は?」
「当時の映像しか知らないので、犯人が知人ならまだしも見覚えのない子を誰かと言われてもわかりませんよ」
「……子供だと?」
「そう。十代半ば程の男でした」
「あんた、どうしてそれを警軍に提供しなかった」
銀鼠は静かな口調でそう言いながら、青磁の手を男から剥がした。
「ただの趣味で逮捕されるのは嫌ですし」
「犯人を逮捕したいとは思わないのか。あんたの仲間が殺され、病院もなくなったのに」
「職場にはそんなに執着がなかったので。というか、あなたがそういうことを言うの、なんだか不思議ですね」
落ち着いている銀鼠の態度につられて、青磁も落ち着いてきた。この男の言う通り、まともなことを言っている彼に違和感がある。まるで、青磁を気遣っているような言動だ。彼に限って、そんなことなどありえない。
「どうせ情報を提供したところでもみ消されるだけです。実際、あの子がカメラを壊したとは思えません。人やドールを殺している子をカメラ越しに見ましたけど、そこまで気の回るような雰囲気ではなかった。ただ純粋に、目の前の動くものを破壊していただけ。つまり重要な証拠を、犯人でない誰かが隠しているということです」
当時その病院にいた者全員が虐殺されたと言われているが、逃れた人間もいる。犯人が複数いて出入口が塞がれた、というわけではなかった。犯人は十代の子供ただ一人。事件が起こったのが深夜だったため、避難が遅れほとんどの人間が死んだが、それでも病院から逃げられた人物。
「もしかして、そいつが」
「違う」
青磁の思考を見透かしたのか、銀鼠がすぐさま否定をした。
「何人かは病院の外で犯人に見つかり殺されてるけれど、それからも逃れた奴が警軍に通報したんだ。犯人ならばそんなことしないだろう、わざわざ」
じゃあ誰が。
その答えはもう、わかっているはずだった。
「私の口から言える情報はここまでです」
男は銀鼠をじっと見てから、ゆっくりと首を振った。
「本当に、言いたいことはもうないのか?」
念を押すように銀鼠が言う。
「ありません」
「そう、じゃあ」
銀鼠は呟くように言って男の両目に指を挿した。
「先輩!」
青磁の制止を聞かず、上に向けていた手のひらをくるりと回す。ドールの目に刺さっていた指が皮膚と鉄を裂いた。火花が散り、折り曲げた指を引き抜くと赤い液が糸を引いて肉塊が落ちる。ショートする音は機械じみているが、視覚的にはとても生々しく人間らしい。
「腹立つんだよなぁ」
「前もそうでしたけど、この男に当たりが強くないですか?」
壊れてしまったのか、ドールは口元に笑みを浮かべたまま倒れて動かなくなった。それを冷めた目で見下ろしている銀鼠が、舌打ちをして眉根を寄せた。
「なんでそんなに怒ってるんですか。何も壊さなくても」
「デートの邪魔されたらそりゃあ怒るでしょ」
「はあ?」
それで「タイミングが悪い」と愚痴ったのか。まさか。
「それ本心ですか?」
本気でも冗談でも気持ち悪い。
「惑うことだけ言って、結局わかったことはこいつの変態性と、犯人が当時十代だったことだけ。重要な情報がない。何を」
銀鼠はそこで口を噤んだ。続きを待ってみたが、深いため息を吐いただけで何も言わなかった。
「なんだか、やっぱりおかしいですよ先輩」
「変なこと言うね。僕がおかしいのなんて、いつものことじゃん」
「……否定はできませんね」
「気を取り直して、行こうか」
テンションを切り替えるように、銀鼠はにっこりと笑みを浮かべた。
テープをくぐり、開いたままの錆び付いた門を通り過ぎる。
「おばけとか出そうだね」
「そんなの信じてないくせに何をはしゃいでるんですか」
笑いながら銀鼠は先を歩いていく。憶することもなく扉を開けて屋内へ入っていく彼につられるように青磁も続いた。行くことを悩んでいた青磁を気遣って先陣切っているのか、とポジティブなことを一瞬思うが、すぐに否定する。そんな男ではないことくらい、嫌というほど思い知らされている。
「死んだ人がたくさんいたんだから、おばけがいてもおかしくないじゃない?」
ほら、こんな無遠慮なことを言いのける男なのだ。
割れた窓から日の光と微かな風が流れ込んでくるからかあまり埃臭さは感じないし、それなりに明るかった。劣化した椅子や台、扉すらなくなっている部屋もある。
銀鼠は階段を見つけ、迷わず上がっていく。広い建物だ。はぐれたら面倒なので仕方なくついていく。
「どう?」
「どうとは?」
「来てみた感想は」
階段の途中で立ち止まり、銀鼠は青磁に問う。普段と同じ口調で、どうせ彼は青磁のことを気にかけているフリをしているだけだ。心配をされていても、それはそれで気色悪いが。
青磁も銀鼠の数段下で足を止め、手すりに溜まった埃を見つめた。
「なんてことのない、ただの病院です」
強がっても繕っても仕方がない。
「なんというか、当たり前ですけど両親がここにいた証拠なんて今はもう何もないんです。こうして見たところで、私にはここでの思い出はないんです」
ここに来るまでは、あんなに躊躇をしていたのに。ここで死んだ両親や大勢の人たちを偲ぶには、あまりにも年月が経ちすぎた。血にまみれていたかもしれない床も壁も、劣化し蔦が這い、そんな面影すらなくなっている。
「すいません。わざわざ提案して付き合ってくださったのに」
「どうして謝るの? ここに来たからそう思えるようになったんだと考えれば、意味があったってことじゃん。それに、あのドールのくだらない話も聞けたし、完全に無駄なわけじゃない」
「そうですね」
喉に引っかかっていた小さな小骨がなくなったような気分だった。ここに来られなかったことが、自分の中で思いの外重荷のようになっていたのかもしれない。
「これで犯人を見つけられれば最高なんだね」
銀鼠は他人事のように笑った。もちろん、彼にとっては他人事なのだが。
「見つけて殺すところが見られれば、先輩にとって最高ですか?」
「そうだね」
「人が人を殺す場面なんて、見ても楽しくもなんともないでしょう? 先輩なら自分で殺すほうが楽しめるのでは?」
自分で、なんて物騒な話をしているのだろうと感じている。青磁は銀鼠のペースに呑まれている自覚をしながらなんとか平静だけは保っていた。
「綺麗なものが汚れると興奮する、みたいな」
「なるほど変態ですね」
「救いようがないよね」
「そもそも屑を救う人なんていないですよ」
「冷たいなぁ」
銀鼠は唇を尖らせながらも楽しそうだった。こんなに自分がけなされているのによくもまあ笑っていられるものだ。こちらは悪ふざけや冗談ではなく本気で罵っているのに。
「とりあえず、もうちょっと歩いてみようか」
「崩れたりしないですかね」
「崩れたら僕らがおばけになるだけだよ」
くすくす笑っているが、まったく笑えない冗談だ。三階へ上がる。
「銀鼠先輩は、死ぬのが怖くはないのですか?」
青磁は、不意に尋ねた。彼の視線は銀鼠の腕に落ちた。複雑に折れていた骨は、くっつきかけているのだろうか。気にする素振りもなくふらふら揺らしている。
青磁のほうは頭を殴られ、薬品を嗅がされた程度で大したことない。それもそうだ。カナリヤの目当ては最初から最後まで銀鼠だった。青磁はカナリヤを馬鹿にはしていなかったのだから当然といえばそうだろう。
「せーちゃんは? 死ぬのって怖い?」
銀鼠は廊下を歩きながら聞き返す。
質問を返されて寸の間視線を横に流して考える。すぐに口を開いた。
「――怖いですよ」
「どうして怖いって感じるの?」
「は?」
「どうして死ぬのが怖いの?」
まずい。
銀鼠は、相変わらず笑顔だった。しかし、青磁がいつか感じた恐怖が再び湧き起こる。張り付いた笑顔。口元も目も、確かに笑っているはずなのだ。それなのに、どうして青磁は目の前の男に恐怖を抱いてしまうのだろう。表面ではない、内なる彼の本性を感じ取っているのだろうか。
彼はストッパーが外れるとこのどす黒い感情が駄々洩れる。そのストッパーを知らずに外してしまったようだ。
青磁の怖気に気付いていないのか、わかっていて黙殺しているのか、銀鼠はますます笑みを深めて続けた。
「あの世がどんなとこかわからないから? 地獄に行くかもしれないから? この世に未練があるから? この世にいる人々に忘れられるのが怖いから? それとも、エッチなデータが周囲に知られちゃうかもしれないからとか? ……否。答えは否だ。どれも不正解。じゃあ、何が怖いんだろう? 正解はね、」
相槌を打つ隙すら青磁に与えず、銀鼠は一気に喋った。最後は、一度言葉を切る。目は爛々と輝いていた。それからまるで内緒話でもするように、声を潜めた。
「痛いのが、怖いから」
ようやく青磁の返事を待つように口を噤み、青磁の目を覗いた。
責めるような言葉、目。それに追い立てられるように、青磁は一言呟いた。
「痛み、ですか」
銀鼠はふっと目の輝きを薄めた。興奮が抑制したようだ。それでもやはりどこかジャンキーのようで。
銀鼠は廊下の真ん中で立ち止まっていたが、不意に脇の通路へ入っていった。悪戯の色を滲ませた瞳が青磁へ一瞬だけ向けられる。すぐに視線は歩いている方向へと移った。
「死が恐怖とされるのは、死ぬ方法に関係している」
「方法?」
手洗い場のような場所を抜け、開け放されているその奥へ進んでいく。そこはフィクションで見たことのあるところだった。とは言っても部屋の真ん中に人一人寝転がれるくらいの台と、無影灯があるだけだ。それだけでも手術室だということは素人の青磁にもわかった。
「そ。死ぬには、幾つもの方法がある。けど、苦しまずに死ぬことができる方法は、限られるでしょ?」
銀鼠は、顔を上げて天井を見た。その遠い目は天井と空を通り越して、天国でも見るかのようだ。どうせ彼は信じていないのに、どうしてそう思ったのだろう。やけに遠くを眺めているように感じたのだ。
「つまり苦しみ、痛みが怖いから、死ぬのも怖い」
上を見たまま言った。空いているほうの手が、けがしているほうの腕を撫でる。
「これは僕個人の見解でしかない。不正解が正解かもしれない」
そこで、彼は顔を青磁に戻した。銀鼠の柔らかそうな髪が彼の挙動に合わせてふわりと揺れる。
「僕は死を怖いものだと思ったことはない」
「それは、苦しみや痛みを恐怖の対象としていないということですか?」
青磁の問いに、銀鼠は何の躊躇いもなく頷いた。
「うん、僕は痛みを感じない。骨が折られたところ、見てたでしょ」
そう言って彼は自分の腕を今度はつついた。腕が潰されたのも、痛くなかったというのか。だから骨が粉々になっても、悲鳴の一つもあげなかったのか。
「だからかな、死ぬのは怖くないよ」
なんてことない、と彼は笑う。まるで、晴れてよかったと喜ぶように、普通に笑う。
「他人に傷をつけることも、怖くない。僕、せーちゃんを殺さなきゃいけないってなったらすぐに殺せるし、何も感じないよ」
死ぬことも殺すことも厭わない。おそらくそれが彼の強さなのだ。何も恐れないから躊躇もない。
「俺のこと、好きだとか興味があるだとか言ってたのに?」
我ながら、気色悪いことを言ってしまった。しかし、銀鼠のその冷たさと矛盾した言葉をなぜ言ったのか気になった。
「好きだよ。でもそんなの関係ない」
「普通は、好きな人を殺すなんてできないんですよ」
いや、正確に言うと、好き嫌い関係なく人を殺めることはできない。
殺したくなるほど、殺されたいほどの愛があることは事実だ。納得も理解もできないけれど、そういう思考回路を持つ人種もいる。しかし、銀鼠にそこまでの愛があるとは思えない。彼の場合そうではなく、好きという感情自体が人とはズレているのだろう。
「普通じゃないことなんて、せーちゃんもわかりきってるでしょ」
「本当にあなたは不愉快ですよね」
反吐が出る。
青磁は顔をしかめて、それ以上追及するのをやめた。この言い合いはどうせ平行線で、青磁の納得する言葉を彼は発してくれない。
「レグホーン事件。証拠を意図的に隠していたのは警軍でしょう?」
埃っぽい空気に息苦しさを感じながら、銀鼠を見据えた。彼もまっすぐ見返してくる。
「おそらくね。あの男の言うことを信じるなら、そう考えるのが妥当だ。カメラのデータなんて、壊れていようが何だろうが警軍なら解析できるし」
「どうしてですか? 先輩は何か知ってるんですか?」
感情的になってしまう物言いに、青磁は自らため息を吐いた。落ち着こう。事件があった当時、銀鼠はまだ警軍ではなかったはずだ。知っているわけがない。
「なぜ、事件を解決させなければいけない警軍が隠蔽したんでしょうか。犯人がわかっているということですよね」
「わかった上で隠しているのなら、その犯人は世間に知られたくない人物だということだろうね」
「たとえば?」
自分の問題なのに、思わず銀鼠の意見を求めてしまった。事件には関係なく、興味もないだろうに病院まで付いてきて、今も不躾な問いに「うーん」と唸って考えている不自然さを抱きながらも。
「レグホーンはとても優秀で良い評判しかなかった。そんな綺麗なこと、本当にあり得るのかな?」
「どういうことですか?」
「ドールを使った人工移植が一般化されていないときから、積極的に取り入れていた。その小難しい技術を最初から成功させるなんて、神の御業のようだよね」
彼の言わんとしていることがわからず、青磁は首を傾げて先を促す。
「人の命を救うことは、言うほど簡単じゃない。医療で助ける確率をほんの少し上げるためには、多大な労力が必要だろう? それなのに、レグホーンには輝かしい成績しか見受けられない。悪い噂の一つもなかった。まあだからこそ、ここまで大きく有名な病院になったんだ」
銀鼠は舞台俳優のように、大袈裟に両手を広げた。
「たとえばの話だよ」
そう一言加えてから、彼は続けて言う。
「強い光があるところほど、強い影もできるもんだよ。栄光の裏には、努力が積み重なってるんだ」
「努力なら影じゃない。悪いことじゃないです」
なんとなく、銀鼠が何を言いたいのかわかった気がする。それはとても不快なことだ。だから彼は先に「たとえば」と牽制した。
「そうだね。医療や薬の発達には、どうあがいても犠牲ができる。その犠牲があるからこそ、大勢の人が救われるんだ。それは仕方ない」
「その犠牲というのが、先輩の言う影ですか? その影に関わっていた人が犯人だと?」
「警軍は、その確立されたレグホーンというブランドを汚さないため、不都合のある事実を隠した。綺麗なものは綺麗な幻想のまま、なくしたほうがいい。そのほうが遺された患者やその家族、働いていた医師や看護師も悲しむだけで済むのだから、丸く事が収まる」
「悪いことをしていたことが前提なんですね」
言葉の端に刺々しさを持たせた青磁の口調に気付いたのか、銀鼠は一度口を閉じて間を持たせてから「まあ」と肩を竦めた。
「それっぽく言ってみただけで、別にこれが真実だとは思わないけどね。レグホーンのためにわざわざ警軍が隠すとは思えないし。そんな義理もない」
そう言って笑う。
「憶測ばっかりじゃつまらないね。頭を使うのは嫌いだな」
飽きてきたのだろうか。青磁はそう思いながら、先輩に何も言わずただ頷いた。もしもの話で言い合いをして腹を立ててもどうにもならない。エネルギーの無駄遣いだ。
「せっかくだし、普段話せないようなことでも話す?」
こんな廃墟のど真ん中で。
「内緒話ですか?」
「そうそう。かわいい言い方するね」
んふふと悪戯っぽく笑う銀鼠は人差し指を立てて口元へ当てた。
「あのドールも思い出話してたし、僕も少し、昔話をしようか」
彼はそう言って、不意に青磁へ視線を向けた。綺麗な翡翠がまっすぐに。薄暗い部屋の中で、彼の瞳は輝いて見えた。
「ちょっと待ってください」
今にも話し出しそうな銀鼠を制止して、青磁は息を呑んだ。瞳の綺麗さと真剣さに、血の気が引く。
ふざけていたと思えば突然こんな表情をする。本当に、彼はよくわからない。何が引き金になったのか。
「それは、俺なんかに話してもいいことですか?」
おそらくその昔話というのは、他の誰にも話したことのない銀鼠の過去だ。レグホーン事件と同じく、警軍の上層部がひた隠しにしている公にできない秘密。
そんな重大なことを、まだまだ新人の青磁ごときが耳にしていいのだろうか。受け止められるだろうか。
「震えてる」
銀鼠はくすりと笑い、「そんな顔しないで」と呟いた。
「ただの内緒話だよ」
重い。聞きたい。恐ろしい。聞きたくない。そんな気持ちが沸き上がり勝手に手が、体が震える。知りたいのに、知るのが怖い。知ってしまったら何かが崩れてしまいそうだった。彼と自分の間に、崩れるものなど元々ないのに。