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正義の屑  作者: 道野芥
4/10

罠と手がかり

   4


 警軍に入り、銀鼠と出会ってから数か月が経とうとしている。初仕事の後味の悪さもようやく薄れてきたものの、どうにも任される仕事が似たようなものばかりだ。銀鼠の言っていたとおり、上層部が誰もやりたがらないようなものを押し付けてきているのかもしれない。あわよくば死んでくれれば。きっと警軍のお偉いさんはそう期待を込めてのことなのだろうと銀鼠は他人事のように笑っていたのを覚えている。

 その銀鼠の声が、遠くに聞こえた。呼ばれたような気がした。まるで耳に水が入ってしまったような、膜に覆われた声だった。

 重たい瞼を僅かに上げると、霞む視界に銀鼠がいた。表情までは見えないが、たぶんいつものとおり、笑っているだろう。

「よかった、無事だね」

 そんな銀鼠の声を聴いて安心してしまうくらいには毒されている。

 銀鼠のすぐそばに、見覚えのある女が立っていた。以前、自殺を試みていた。

 なぜ今更この人が?

 あれ?

 いや、違う。

 だんだんと意識がはっきりしてきた。


   ***


「僕を死なせたいのはわかるけど、せーちゃんが危ないじゃんね」

「自分の身くらいは、自分でどうにかします」

 銀鼠は己の実力を過信しているわけではない。実際彼が死にそうになった場面を今のところ一度も見ていない。面倒くさがってしかめ面をするか、ふやけた笑顔か、基本的にはその二種類しか表情がない。

 射撃訓練場で二人、どちらかというと青磁の訓練なのだがどうにもやる気が出ない。

「悔しいという域を通り越して、なんでしょう。諦めになってます」

 銃の扱いが不得手だとは思っていなかったのだが、それこそ過信であった。青磁はため息を吐いて練習用の銃を置いた。二十五メートル先の的に当てるのでさえ難儀する。学校で成績が良かろうと、それは井の中の蛙ということか。

「そう? 全然当たらないわけじゃないし、それでよくない?」

「先輩がど真ん中に当てまくる人じゃなければ、その言葉ももっと素直に受け入れられたかもしれないです」

 しかも、彼の前にある的は青磁のものより小さいものだ。銃弾すべてその真ん中に収まっているので、小さかろうが大きかろうが関係ないのだが。

「んや、たかが経験の差だよ。僕は警軍に入りたての頃からずっと使ってるからね」

 銀鼠は微笑みを浮かべながら青磁の隣に座った。励ましているのではなく、本気でそう思っているのだろう。彼はそういう男だ。

「先輩も、最初はこんなんでしたか?」

「どうだったかな。覚えてない」

「あー、最初からそれなりだったんでしょうね」

 銀鼠の戦闘センスはそこらの警軍よりもはるかにずば抜けている。そういう人種はおそらく、どんな武器もそこそこ使いこなせるのだろう。まったく、腹立たしい。

「……元々、なのかなぁ」

「はい?」

 珍しく、銀鼠の声が聞き取れなかった。独り言を言うような人じゃないので、首を傾げて聞き返すと彼もまた首を捻っていた。

「いやさ、元々の僕と今の僕は違うから。元々はこんなに屑じゃなかったかも」

 意味が分からない。

「なんですか、それ。一回死んで生き返ったとでも?」

「お、いいね。じゃあそういうことにしておこう」

「意味がわかりません」

「前世はすっごく善人だったかも。そしたらこんな物騒なものに触れる機会もないよ。武器なんて扱えなかったよね、きっと」

「だとしても、今の先輩はその真逆ですから」

「警軍としては、こっちのほうがいいでしょ」

「んん、難しいところですね」

 ふと、いったい何の話をしているのだろうかと我に返る。意味のない議論に付き合う義務もないが、彼は真剣に楽しそうで、それをわざわざ遮る必要もない。

「じゃあ来世があるとしたら良いとこどりして、善人で強い人になればいいんだね」

「そんな世迷言、これっぽちも信じてないでしょう」

「いや、このハイテクな時代だよ。なんでもありな世の中なんだから、来世というものを人工的に作れるかも」

「それでも、善人になるとしたらそれはもう先輩じゃなく、別個体です」

「あぁそうか。たしかに」

「世のために先輩は今世で滅んでください」

「んふふ、それがいい」

 銀鼠は軽快に笑った。後輩からこんなにぼろくそ言われて楽しめる能天気さは少し羨ましい。

 ふと人の入ってくる音がした。視線をそちらへ向けると、桜が青磁を見て手を振りながら歩み寄ってきた。

「お疲れ様です」

 彼女が声を出すだけで場が華やぐようだ。

「何か用なの?」

 銀鼠は挨拶もなしにそう聞くと、桜は困ったように眉尻を下げた。そんな表情でもかわいらしい。

「残念ですが、ネズミさんではありません」

「じゃあせーちゃんに?」

 桜は頷き、青磁に封筒を手渡した。

「はい。お手紙です。差出人不明なんですけれど」

「手紙、ですか」

「警軍本部の、せーちゃん宛? 変なの」

 封筒だ。たしかに差出人の名が何もない。中に書いてあるのだろうか。

「手紙を貰うような心当たりが思いつかないんですけど」

 青磁はそう呟きながら手で封を切った。折りたたまれた真っ白な紙が一枚だけ入っており、開くと一行だけ印字されている。

『よろしければ、お一人で来ていただけますか。明日の夜、あのビルで待っています』

 当たり前のように横から覗き込んでいる銀鼠が、口端を歪ませた。

「これって、ラブレターじゃない?」

「はあ?」

「わざわざ警軍に届けるラブレターがありますか」

 桜は気を使ってなのか、内容を見ないように顔を逸らしていたが、会話には加わってきた。

「おそらく仕事で関わった方からでしょう」

「あのビルって」

「あぁ、カナリヤじゃない?」

 銀鼠が思いついた名を、青磁も思い浮かべていたところだ。廃ビルの屋上で、自殺をしようとしていた女。厳密にはまだ警軍にはなっていなかったが、仕事関係でビルへ赴いたのはその件だけだ。

「カナリヤさんですか。あの方はうちの上層部が大事にしているご令嬢ですよ。とはいっても、大事なのは彼女の父親の出す金だけですけれど」

「そうそう、だから殺すなって言われてたんだ。何その顔」

「あ、いえ。そういえばそんなことを言っていたなと思い出したのと、今更ですがそんな大切なご令嬢を先輩に任せてたのかと思って、驚いています」

「できれば違う人を派遣したかったんですけれど、あのときすぐ向かえたのがネズミさんだけだったんです」

 桜は「最低限の決まりは守る人ですよ、この人は」と付け足した。銀鼠がフォローされるのを初めて聞いた。しかし褒めるのは一瞬で終わり、本題に戻る。

「彼女からの呼び出しとは。なんでしょうね」

「一人でってところも変だよ。わざわざ強調するってことは」

「告白ですかね」

「告白だね」

「……二人して、からかってますね」

 青磁は顔をしかめて、にこやかに話を進める二人を見て嘆息した。桜は銀鼠のことを蔑んでいると言っていたが、こうして会話を聞いているととてもそんな風には見えない。

「うふふ、ごめんなさい。後日談、聞かせてくださいね」

 彼女はそう言って、あっさりと話を切り上げて去って行った。女性というものはなぜあんなにいい香りがするのだろう。いなくなってからもしばらくは香りが残っているような気がする。

 桜の後姿がなくなってもぼんやりとそちらを見ていた青磁に、銀鼠が「だめだよ」と言った。何のことかと振り返ると、彼は足を組んでその足に肘を置いている。頬杖をつきながら青磁を覗き込んだ。

「桜はやめときなさい」

「何の話ですか」

「鼻の下伸ばしてるから」

 にやにや言われて、青磁は思わず手で口元を覆った。

「馬鹿なこと言わないでください。そういうんじゃないですから」

「そんなことより、それ、行くつもり?」

 銀鼠はすぐにからかうのをやめて、話を切り替えた。「それ」と手紙を指す。

「……どう思いますか」

 正直、なぜ呼び出されるのかがわからない。一人で、と記載されているということは、おそらく銀鼠はついてくるなと言っているのだろう。あの屋上での銀鼠の態度と行動を思い返せば、会いたくない気持ちはわからなくもないが。

「まぁ、罠だろうね」

 さっきは告白だとか言っていたのに。

 青磁も同意なので、そう思いながら頷く。

「明らかにおかしいです」

「隠す気もないんでしょ。世間知らずのお嬢様だし、命令すれば誰でも言うことを聞くと思い込んでる」

「でも、罠なんて。一体どうしたいんでしょう」

「さぁ? 引っかかってみようか」

「え」

「行かなくても、どうせ強硬手段に出るだろうし。僕、こういうコソコソしたやり方嫌いなんだよね」

「呼び出されているのは、私なんですけどね」

 つまり、万が一彼女がこちらに危害を加えるつもりなら、危険が及ぶのは青磁ということだ。それに警軍が大事にしているとなると、こちらから手を出すこともよろしくないのだろう。

「一応、上に報告しますか?」

「それこそ面倒だよ」

 銀鼠は嫌そうに顔をしかめた。

「コソコソするのは嫌いなんじゃないんですか?」

「コソコソじゃない。ただ、むやみに言わなくていいよってこと」

「そんな子供みたいな屁理屈」

 本当に罠なのかもわからないことを、いちいち報告しなくていい。銀鼠はそう言って他人事のように笑った。

「もしかしたら、本当に告白かもしれないよ」

 この人は、面倒なことと楽しいことの区別がはっきりとしている。この件は楽しいことだと判断したのだろう。

 銀鼠の面白がっている笑みを呆れながら眺めて、反論することを諦めることにした。


   ***


 そう。彼女から送られてきた手紙を読み、その指示通り青磁が一人で廃ビルへ来たのだ。以前は屋上に直行して、そして今日もそうしたのだが、ここは屋上ではなく室内だ。やけに殺風景ではあるが綺麗なところを見ると、あのビルからどこかに移動したようだった。

 屋上で。

 そうか、屋上には誰もいなかった。そう訝しんだ直後に、後ろから。

「一応、お礼を言っておこうかしら」

 頭の奥に鈍痛がして、青磁の思考が途切れた。女の声が鼓膜に直接当たっているような不快感がある。

「うん? どうしてお礼なのかな?」

 銀鼠は当たり前のように会話をしているが、なぜ彼がここにいるのだろう。

 その疑問も、次の言葉でなんとなく把握できた。

「だって、罠に引っ掛かってくれたんだもの」

 カナリヤは、にっこりと微笑んだ。

 やはりこの呼び出しは罠だった。銀鼠もこの場にいるとなると、おそらく彼女の狙いは銀鼠なのだろう。ならばなぜ青磁だけが呼ばれたのか。考えるまでもない。餌だ。銀鼠を確実に捕獲するための人質。

 で、あるだろうが。実際は青磁のためではなく、ただの好奇心だろうと青磁は思っている。結果的にはカナリヤの目論見通りの展開になっているのだろうけれど。

 銀鼠の手首には、頑丈そうな手錠が嵌められている。二つの輪を繋げている鎖はほんの十五センチほどだろう。さらに、腕が背に回っているため、両手は完全に封じられたといっていい。銀鼠は軽く手首を動かしているが、どうあがいても外せなさそうだ。足は自由かというとそうではなく、銀鼠と青磁の右足が繋がれている。この鎖もそれほど長くはなく、並んで歩くのは困難だろう。そもそも青磁は動けないのだから逃げるのは不可能なのだけれど。

 声を出すことも動くこともできないが、なんとか彼のことは視界に入れるようにしよう。何をやらかすかわからない。何も手出しはできないけれど、見届けないと。

 銀鼠は余裕たっぷりの笑みで応えた。

「あはは、じゃあ、どういたしまして。わざわざ引っ掛かってあげたよ」

「ふふ、意地っ張りな子」

「そうかな?」

 不意に、銀鼠は目を細めた。傍らに横たわっている青磁を横目で一瞥してから、カナリヤを見上げる。翠緑の瞳に、冷たい色が滲んでいた。

「面倒なことするよね。わざわざせーちゃんをダシにしなくても、直接僕を呼べばいいのに。せーちゃんに手ェ出した罪は重いよ?」

 その目に一瞬怯むが、カナリヤは唇をゆるめたまま鼻で笑った。

「本当はどうでもいいくせに、よく言うわ」

「あは、バレた?」

 あぁですよね。ぬか喜びなんてしませんよ。そういう人だって知っていますから。

 青磁は心でそう呟いた。そんなことを考えている時点で多少喜んでいたということを認めたくなかった。

「貴方にとって、他人はどこまでも他人でしょ」

 知っているような口振りに、銀鼠は顔をしかめる。その表情に反して、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「少しは調べたのよ、貴方たちのこと」

 カナリヤは少女のように無邪気な笑顔を見せる。

「そこの青磁さんは、幼い時に親御さんを亡くされたんでしょう? あの有名な、レグホーン事件の被害者家族ですってね。それで犯人を捜すために警軍に入られたとか」

 そんな個人情報を、警軍の上層部が漏らすはずがない。どこでどうやって入手したのだろう。いやむしろ、こんなもの案外金と権力でどうにでもなるのかもしれない。

「大切な人を失うって、悲しいことよね。しかも、犯人がわからないなんてその憤りのぶつけようもないものね。かわいそうに」

「僕さぁ」

 銀鼠はカナリヤの言葉を遮るように口を開いた。

「かわいそうって言葉、嫌いなんだよね。何様?」

 哀れな挑発だとでも受け取ったのだろう。カナリヤは驚きも怯えもせず銀鼠をあざ笑う。

「あら、貴方こそ立場を弁えたら? 貴方はあたしやその子とは違う。奪う側でしょう」

 銀鼠はふんと鼻で笑う。

「僕は意味のない殺しはしないよ。今はね」

 悪人だから殺していい。意味のある殺しはしてもいい。彼のそういう認識が根本的に間違っているのだが、銀鼠にそれがわかるはずもない。常識だとか倫理だとか、そこらのネジが緩むどころかどこかに紛失しているのだから。

「あたしは貴方を許さない」

「なんでそんなに恨まれてるのかな?」

「それ本気で言ってる?」

 カナリヤの口元から笑みが消えた。蔑むような視線を銀鼠に落とす。冷めた顔を傾げると、ゆるく波打つ栗色の髪がふんわりと頬にかかる。髪の隙間から見える瞳には、どうしようもない怒りが宿っていた。

「あたしを突き落としたうえ、あんたは彼を殺したじゃない!」

 彼というのは、おそらくカナリヤを愛していて殺したいと嘆いていた男のことだろう。書類上、世間的にはあの暴動に巻き込まれたよう処理したのだが、どこからの情報なのか、彼女には本当のことがバレている。

 銀鼠はそれに驚くこともなく、ただ一言呟いた。

「あぁ、そんなこと」

 カナリヤは腕を振り上げた。手に持っていた杖のようなもので銀鼠の頬を打つ。硬い音がして、銀鼠は衝撃で床に倒れこむ。口の中が切れたようだ。不自由な手と腹筋を使って上体を起こし、血に混じった唾を吐き出す。

 そういえば、彼の血を見るのは初めてかもしれないな。

「そんなことですって? 人を追い詰めて殺して、そんなことの一言で済ますの? 最低だわ、狂ってる」

 蔑むような視線で見下ろすが、銀鼠はそれを見ようともせずただ俯いている。僅かに肩が震えていた。

 青磁ははっきりしない視界で先輩を眺めて、内心でため息を吐いた。

 銀鼠が己の言動を後悔するわけがない。最低だの狂っているだの、そんなもの彼にとっては当たり前だ。

 おそらく、改めて言われて可笑しくなったのだろう。笑っている。

 ただ、それは彼女には通じていない。彼女の目には、しおらしく見えているのだろう。勝ち誇ったような顔に、青磁は心の底から同情をした。

 この人はあなたが思っているよりもずっと屑なんですよ。

「僕はてっきり、あの男はストーカーなんだと思ってた」

 銀鼠は不意に顔を上げ、そんなことを言う。けろっとした表情に、彼女は一瞬狼狽した。

「あいつは本当のことを言っていたけど、隠していたこともあったはず。まあそれでも、あんたに付きまとってるだけの異常者かと」

 隠していたこと?

 青磁はぼんやりとしている頭を必死に働かせた。

 あの男は確かに常軌を逸している話をした。それが真実で、加えて隠し事をしているなど、どこでわかったのだろう。

 同じ話を同じように聞いていたはずなのに、なぜ銀鼠は見抜けたのだろう。

 考えてみたところで、そんな疑問と己の不甲斐なさしか湧いてこない。

「……何を話したのかわからないけれど、ストーカーなのは正しいわ」

 カナリヤは銀鼠を冷めた目で見下ろしたまま、静かに言った。首を傾げる銀鼠にそれ以上の情報を話すつもりはないのだろう。

「安心して。ただ殺すなんてつまらないことはしない」

 彼女はそう言って、後ろに控えさせていたドールに合図をした。

 あれ。カナリヤのドールは壊れたとあの男が言っていた。それとはまた個体が違うのだろうか。

 男型の、やけに幼さの残る容姿をしている。背丈はカナリヤと同じ程度だが、見目年齢は十代後半だろう。暗い茶色の髪は癖がなく、動くたびにさらりと揺れる。髪と同じ色の瞳は優し気にカナリヤを見ていた。そして銀鼠に移る。

 ゴリュッ、と嫌な音がした。

「せんぱっ」

 声を振り絞ると、銀鼠と目が合った。

 銀鼠の腕が潰されている。骨が砕けた音だ。

 なぜ笑っていられる。

 細身のデザインであるのに、どうやら力に特化した性質のドールらしい。柔らかい表情をしているくせに肉も骨も握り潰せるとは、ギャップにも程がある。

「あー右使えなくなったな」

 ドールの手が離され、だらりとした自らの腕を見下ろした。皮膚も破れ、血まみれの腕から骨が覗いている。しかし銀鼠は他人事のように、ほんの少しだけ困ったように眉尻を下げた。

「くっ……どうしてっ」

 カナリヤは、銀鼠よりも苦しそうな顔をして呻いた。それを晴らすように、銀鼠をごみのように蹴った。腹にヒールを何度も叩き込む。

 それには銀鼠もさすがに息を詰めた。咳を繰り返して、嗚咽を漏らす。口端から涎が垂れた。

 彼のそんな表情も、初めて見た。

 しかし、腕を蹴られても踏まれても、反応は鈍い。片腕が使い物にならなくなった今、必要ではなくなった手錠がますます邪魔臭い。踏まれた動きに合わせて、もう片方の腕も動かさなくてはならない。どうしても床を舐めるような態勢になってしまう。

 銀鼠は寝転んだ状態のまま、カナリヤを見た。血と涎にまみれた口を拭うこともできないまま、構わず問う。

「なんでそんなにイライラしてるの?」

「どうして平気そうな顔してるのよ! 腕が潰されたのよ!」

「あぁなに? もっと痛がれってこと? 注文が多いなぁ」

 銀鼠は唇を尖らせて、文句を垂れた。眉間にしわの一つも寄らないところを見ると、どうやら本当に痛くないらしい。やせ我慢をしているようには見えない。冷ややかな顔でカナリヤを眺めている。怒りもしていないのか、口元には気持ちの悪い笑みを浮かべていた。

「痛みなんて、どうでもいいんだよ。なんだったらもう片方の腕もばきばきにする?」

 銀鼠の笑みがふと消えた。それでも怒っている様子もなく、ただ淡々と言葉を吐き出していく。

「あーあ、楽しそうだから捕まってみたのにさ。つまらないよ、あんた。くだらない。僕が泣き叫べば満足なの? 泣いて許しを請いて、それで殺せれば満たされるの? そんなくだらないことですっきりできる人生なんて、たかが知れてる。僕はね、嫌いな奴もそうでない奴も何人何十人殺してきたけど、何も変わらないよ。体に空いた穴は満たされない。空っぽだ。他人の生死なんて、僕自身には何の関係もないんだもの。それこそ、自分が死ぬくらいじゃないと、何にもならないんだきっと。ねえ、言ってることわかる? 誰かに殺してもらえたら、それは僕の幸福なんだよ。あんたは僕に幸福をもたらす覚悟はあるんだろうね? 僕はこの後輩を始め、あらゆる人から恨まれてるんだ。好かれるような奴じゃないって、あんただってわかるだろ? 僕を殺したらあんただけじゃない、たくさんの人が幸せになるかもね。あはは、僕も死ねばすっきりできるかもしれないし、誰も損しない。いい話じゃないか」

 口を挟む隙も与えず、銀鼠は一気に捲し立てた。表情は相変わらず柔らかく、口調も落ち着いているのに。なぜだろう、なんだか彼が苛立っているように感じた。

「……どうしてそんな顔をしてるの?」

 銀鼠は静かに問いかけた。

 カナリヤは青褪めた顔で目の前の男を見下ろしていた。唇は震えていて、言葉を探すように息を漏らす。しかし何を言えばいいのかわからないのだろう。何も言わない。

 このときになって初めて、銀鼠が自分とは違う生き物なのかもしれないと気が付いたのだろう。

 そんな彼女の視線を受け止めながら、銀鼠が代わりに声を紡ぐ。

「できないよ、あんたには殺せないし、自分で死ぬこともできない。だって僕とは違う。ちゃんと人間だろ。殺せと言われて躊躇える、いい人間だ」

 僅かに目が逸らされる。それでも銀鼠はカナリヤを見つめ続けた。窮地に追い詰められた人間は、はたしてどんな反応をするのだろうか。ただそれを見るがために居心地が悪そうな彼女を観察しているようだ。

「とことん人間だね、あんたは。ふふ、いいよ。あんたみたいのは嫌いじゃない。いいこと教えてあげるよ」

 銀鼠はやけに優しい口調で言う。

「あんたが大事にしてたあの男は死んじゃいない」

「――は」

 大事にしている?

 青磁はますます混乱した。あの男はストーカーなのではなかったのか。カナリヤの口からたしかにそう断言されたはずだ。いや、男を殺したから銀鼠を恨んでいるとも言った。そして銀鼠は男が死んでいないと言う。銀鼠が殺して、それを青磁も目の前で見ていたのに。

 もう、理解が追いつかない。

「そこにいるだろう?」

 銀鼠はそう言って、ドールを指さした。ドールはゆっくりと銀鼠の指を見つめる。その顔は無表情だったが、しばらくすると不意に微笑みを浮かべた。

「よく、わかりましたね」

「あんたの所有しているドールはすべて、あの男が整備していたんだろう? 細工するのなんて容易だよね」

 銀鼠はカナリヤに話しかけるが、彼女も意味が分からないとゆるく首を振っているだけだ。代わりにドールが口を開く。

「私の本体が死んだら、このドールへオート転送するようにしました。わかりやすく言うと、私の脳をこのドールへ移植したんです」

 ドールが笑みを浮かべると、ますます幼さが滲む。見た目はどう見てもあの男と違う。それもそうだ。完全なドールなのだから、人間ですらない。それでも、言葉使いやニュアンスはあの男と同じだ。

「しかしこの記憶の移植とは凄まじいですよ。自分自身でも忘れていた思い出が鮮明に浮かぶんです。本当の本当に忘れてしまったものはさすがに覚えてはいませんけれど」

「そんなのどうでもいいよ」

「本当ですか?」

 銀鼠の興味なさげな言葉に、男はいやらしい笑みで聞き返した。その表情で、銀鼠は何かあると察したのだろう。視線で男に先を促す。

「そうですね。たとえば先ほど話に出たレグホーン」

 青磁はぴくりと肩を揺らした。

「覚えていますか? 以前、私は人を診ていたと言ったでしょう。レグホーンの医者だったんです。いやあ、あの事件は本当に肝を冷やしました。あの日働いていた仲間には申し訳ないし悲しいけれど、休みでよかったと安堵したものです」

 一瞬、呼吸ができなくなった。

 手がかりが。

 青磁は声を出そうと口を動かしてみるが、吐息しか漏れ出ない。もどかしい。

 レグホーン病院で起きたあの惨劇。あの日病院にいた人間が殺され、ドールも破壊された。しかし当日、病院にいなかった医師や看護師、研究員など職員は一切が無事だった。もちろん、警軍が生きている関係者全員に事情聴取をしたが、それでも何の情報も得られなかったのだ。

 この男はその内の一人。殺された仲間や患者の遺体を確認したと言う。

「人の手で殺されたのは間違いない。傷口を見ればわかるもんです。なのに犯人が見つからない。さて、不思議ですよね」

「何が」

 銀鼠は一言返したその声は酷く冷え切っていた。視線だけ彼に向けると、やけに苦しそうな表情を浮かべていた。

 なぜ彼がそんな顔をする。

 青磁はいつも余裕ぶっている先輩の異変に気付いたものの、その理由がわからなかった。

 そんな銀鼠を見て微笑みながら男は続ける。

「監視カメラがあったはずなのに、なぜ犯人を特定できないんでしょう? ドールだっていた。院内はあんなに広いんだ。騒ぎに気付いた誰かが通報できたはず」

 そう言い終えた瞬間、男の首に銀鼠の指が食い込んだ。バチリと火花が散り、血のように赤い液体が指と首を伝う。銀鼠の両手首を繋いでいた鎖が引きちぎれていた。片腕が使い物にならないのに、強引にちぎったのだろう。手首から血が流れている。

「何が言いたい」

 長ったらしいと感じたのか、銀鼠は苛立たし気に促す。

 この男の言う通り、手がかりとなる引き出しはいくつかあるのに、そのすべての中身が空っぽなのだ。そう、答えが入っていないことがこの事件の謎なのだ。犯人は複数いて同時進行で中身を盗ったと考えるのが妥当だということになっている。まず誰にも怪しまれず院内へ侵入し、監視カメラや監視ドールの対処、そして殺害。それを個人が行うというのはほぼ不可能なのだ。

 痛みを感じないドールの首を絞めても意味がないが、彼は放そうとしなかった。ドールもまた、気にすることなく話を進める。

「じゃあ端的に言いましょう。私はその監視カメラの内容を知っています。記憶の移送によって思い出しました」

「なぜ」

 ようやく言葉が絞り出た。

 銀鼠が青磁のほうへ視線を落とした。見下ろしてくるその瞳が何を言いたいのか、何も伝わってこない。その代わり、ドールの首に食い込んだ指がゆっくりと引き抜かれた。

「いえ、今はやめておきましょう。また機会があればお話しします」

「この子が知りたがってる」

「そんな殊勝なこと言うんですね、意外です」

 ドールはからかう風ではなく、感心するように口をすぼめた。しかし彼より驚いたのは青磁だった。あの銀鼠が青磁に気を使っている。何か企んでいるのだろうか。

「でも時間切れです。これ以上愛しの彼女を放置はできません」

 彼は言いながら銀鼠と青磁の枷を外した。ようやく解放された手足は、枷に擦れて赤くなっている。

 カナリヤはずっと押し黙っていたが、皆の視線を浴びて困惑したように目を逸らす。きっと、何が何だかわかっていないのだろう。自分の所有物であったドールが優しい手つきで彼女の頬を撫でるが、信用できないのかそっと避けた。その仕草さえも愛おしいのだろう。ドールはにっこりと微笑んだ。

 自由になった銀鼠は折られた腕など気にする様子もなく、へたり込んでいるカナリヤの傍へしゃがみこんだ。耳元へ何かを囁く。彼女は怯えたように目を見開いて、銀鼠を見た。

「待って」

 真正面から銀鼠との視線が合って、切羽詰まったような声を上げた。迷うように視線を泳がす彼女に、銀鼠は余裕を取り戻したのか微笑みを浮かべる。

「どうしてそんな顔するの? 必要としていた男が、ドールになってずっとあんたの傍にいるんだよ。これ以上ない幸せじゃないか」

「――」

 何かを言いかける彼女の口を、銀鼠は無事なほうの手で塞ぐ。

「死んでも一緒にいるといい」

 口から離したその手を横たわっている青磁の体へ寄越し、ぐいっと立ち上がらせた。腕一本ぼろぼろで、体中蹴られていたのに。それでも男一人を軽々と持ち上げる力があるのか。

 青磁は考えたいことも聞きたいこともたくさんあるのに、思考の鈍りに苛立ちを感じた。確実な手がかりがこんな目の前にいるのに。

 いや、だめだ。

 朦朧としていた意識を叩き起こし、足に力を入れた。銀鼠の負担を少しでも減らせるように、肩を借りながらも自分で歩く。

「すみません、ご迷惑、を」

 まともに呂律が回らない口で謝ると、一瞬息を止めた気配がした。その後、彼は小さく笑う。

「せーちゃんに迷惑なんてかけられたことないよ」

 いつもより近い距離から銀鼠の声が聞こえる。近すぎて、顔を見ることもできないけれど、落ち着いたこの声色に安心してしまう。

「早く帰って、治療しましょう」

 まずは状況の立て直しだ。

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