癒しと初仕事
3
ドールなどという人間に限りなく近い機械が開発されて何年もの時を経て、街のそこここに歩いているのも当然になった今の時代。それでも大事な情報は紙媒体だったりする。関係者以外の侵入を絶対に許さない場所に限られるだろうが。
青磁は膨大な数のファイルたちを目でなぞりながら、ゆっくりと歩を進める。見上げるほどの高さから足元までぎっしりと詰められたファイルの中から目的のものを探すが、いくら何往復しても見つけることができなかった。こんなにたくさんの捜査資料があるのに、必ずしもここにあるとは限らないのか。
一人眉根を寄せ、青磁はファイルから離れて今時珍しい大きめのパソコンデスクの前に座った。この箱は外部との接続はできないが、犯罪者のリストや、警軍に所属している人物データが閲覧できる。
(銀鼠……)
思わず犯罪者検索にかけるところだった。苦笑して警軍所属人物で検索する。
「は?」
銀鼠の名前と顔写真は載っているが、経歴などの情報は何一つ書かれていない。そんな馬鹿な。
「試しに、桜と入力してみてください」
不意に後ろから声をかけられた。振り向くと、先日銀鼠の居場所を丁寧に教えてくれた女性だった。
「お久しぶりです」
彼女はにっこりと笑い歩み寄ると、青磁の横から手を伸ばして自分で「桜」と検索をかけた。長い髪が肩から落ち、ふわりと優しい匂いがした。
ドキドキと胸が躍るのを隠すように、青磁は画面を凝視する。そうか、彼女の名が桜というのか。画面の写真よりも表情豊かな桜が隣で微笑んでいる。
「普通は、こういう風に略歴とか、当たり障りのない個人情報が記載されています」
住所などは記載されていないが、警軍に入るまでの経歴や入ってから携わった事件などが簡単に書かれている。
「どうして銀鼠先輩は」
桜は隣の椅子に座り、上品な仕草で首を横に少しだけ傾ける。
「彼と会って、お話した印象はどうでしたか?」
「……なんといえば」
悪態しか思いつかず、言葉が出てこない。
それを察したのか、はたまたそれが答えだと判断したのか、桜は追及しなかった。
「彼は特殊なんですよ」
「特殊?」
「彼の私生活、想像できますか?」
青磁は、その質問に眉根を寄せた。銀鼠も生きているのだから人と同じような生活をしているはずなのだが、たしかに彼が人並みの生活をしているイメージがどうにも湧かない。どこに住んでいて、あいた時間などはどう過ごしているのだろう。極端な話、彼が人並みに食事をしている姿すら想像できない。そこらにいる野鼠が主食だと言われても驚きはしない。おかしい、一応は一緒に酒を呷ったはずなのに。
「なぜ警軍にいられるのかも、彼はあけすけなようでほとんどが謎なんですよ。ここにも情報がないということは、上層部からもマル秘扱いなんでしょうね」
「桜さんは、ねずみさんと親しげに呼んでいらっしゃいましたよね?」
「親しげ、というつもりはありません。うふふ、私にとっては侮蔑の意を込めています」
笑顔には似つかわしくない単語をさらりと言う。表情と口調だけ聞くと花のように可憐なのに。
「彼、悪い意味で人間味がないんですよね。鼠で十分。というと、鼠に失礼ですかね」
「結構言いますね」
桜は声を上げて笑った。内緒よ、というように細い人差し指を立てて唇へ当てる。いたずらっぽい仕草がこどものようで微笑ましい。
「あの人は上層部から好かれているわけでもないですから庇われているのではなく、公にするとまずい何かを持っているんでしょうね」
つまり、警軍にとって不利益な何かを銀鼠が持っていて、それを隠しているということだろうか。
銀鼠は軍学校の教師を殺害してその流れで警軍に入った。どうやらそれはこの桜にも知られていない情報だ。そのことを隠すためか。いや、どうだろう。それならば、その部分だけをぼかせばいいことだ。しかし銀鼠の経歴は何一つとして記載されていない。出生地も何も。
「本人に聞いてもへらへらはぐらかすばかりで。もしかしたらあなたには話すかもしれませんね」
「え、なんで」
「初めてなんですよ、後輩を持つの。今回、あなたが選ばれたのも何か理由があるんじゃないかしら」
桜はにこやかに言ってから、何かを思い出したように「あ」と声を上げた。手に持っていたファイルを青磁に差し出した。
「これ、探してたんじゃないですか?」
「これは」
「あなたのご両親が亡くなった事件の概要です。この間あなたにお会いしたとき、どこかで見たことがあった気がしたんですよ。それで気になって探してみたんです」
「知ってたんですか? えーと、私と両親を」
「いえ。当時のあなたの顔写真を、資料で見たことがあったんです」
桜はファイルを示し、中を見るよう促した。ぱらぱらとめくってみるが、中身は大したものではなかった。当時の新聞や、簡単な概要。ページ数が多いのは、ただ単に被害者の数が多いのと、話題となった事件だからだ。
「これだけなんですか?」
思わず問いかけると、彼女は困ったように微笑んだ。その柔らかな表情を、青磁は縋るように見返す。
「私は、この事件を解決したくて、情報を求めて警軍になったんです。それなのに、こんなものしか」
これでは世間に流れた情報と変わらない。捜査情報など公表されていないことがあるだろうと思って探しに来たのに。
「知っての通り、その事件も謎に包まれています。まるで、意図的に隠されているような気がしませんか?」
「隠す? 誰が」
「それはわかりません。しかし、未解決事件の中でも特に、簡単かつ不可解な事件です。そう勘繰りたくもなるでしょう」
両親がいた病院は誰もが耳にしたことのあるような、トップレベルの存在だった。そこで起こった大量殺人。世間では殺人であるのかどうかでさえはっきりとは明言されていない。真相が広まったら困るどこからかの圧力で隠されているといっても、不思議はないのかもしれない。しかしあれだけ大規模な事件だ。そのまま謎の一言で片づけられるものでもない。死んだ人がたくさんいるのなら、青磁のような被害者家族がそれ以上にいるということだ。
「犯人が、いるはずなんです」
憶測ばかりが飛び交うが、青磁が欲しいのは事実だ。
言ってしまえば、ただの大量死。犯人の手がかりはまったくない。しかし確実に殺されている。事件から何年も経った今、くまなく調べたところで証拠が見つかるとも思えないが、それでも。
「もし、犯人がわかったらどうするんですか?」
桜のふとした真顔に、青磁は本音を引きずり出された。
「殺しますよ」
ついて出た言葉の危うさに自分で戸惑う。
「いけませんね、もう警軍になるというのにこんなことを言っては」
「ふふ、感想を言っても?」
「どうぞ」
桜はふわふわと笑い、席を立つ。
「青磁さんは優しいですね」
「なんですかそれ」
今の会話の、何をどう受け取ったら優しいという感想が出てくるのだろう。何かの暗喩なのだろうかと勘繰るが、考えてもよくわからない。
「どんなに相手がどうしようもない犯罪者でも、殺していい道理はありません」
「そうですね、その通りです」
「たとえばネズミさんのような人間として何も良いところのない愚者であろうと」
「愚者」
あまりの言いように口元がゆるんだ。それに合わせて桜も微笑む。
「死んでしまえと思うのは自由です。殺したいと思うのも、自由です。けれど、それを実行してはいけないんですよ。それをしてしまったら、ネズミさん以下の存在になってしまいます」
「それは嫌ですね」
「でしょう? 人間の世界には犯罪者を裁く制度あります。その制度が人の罪を決めるんです。勝手に決めつけて勝手に手を出した人もまた、罪人です」
「綺麗事です」
「そうです。けれど、その綺麗事を肯定しなければいけない立場なんですよ、私たちは」
「桜さんは」
初めて名前を呼んだ。彼女は何も思わないだろうに、青磁は勝手に頬を熱くさせた。じっと見つめられているその視線から逃れるように俯く。
「桜さんは、本当にそう思っていますか? どんな人間でも殺すのは間違っていると」
「思っています。私たちはレッドに指定されている犯罪者を捕獲する際、最悪生死は問わないと言われていますが、そんなことを警軍が正式に定めているなんておかしいと思います。罪人は生かして罰を受けさせるべきです。すぐに殺しちゃうなんて、もったいないと思いませんか?」
そう問われて、青磁に首を傾げた。もったいないとは。
意味がわからず言葉を詰まらせていると、桜が続けて言った。
「苦しんでから死ねってことです」
そんなにこやかに話すことではない。
「だから青磁さんは優しいなって」
「えーと。やっぱりなぜこの話の流れでそうなるのがよくわかりません」
「犯人を見つけたら殺す。苦しめる罰も与えずにすぐ殺してしまうなんて、うふふ、良い人です」
人を殺したいと言っている相手に良い人とは。矛盾している桜を見返すと、彼女はやはり楽しげに微笑んでいる。とてもとてもかわいらしいのだが、どこか考え方が常人ではない気がした。かと言って何が普通で常識かなど、青磁にだってわからない。
***
「銀鼠先輩。改めて今日からよろしくお願いします」
青磁が律儀にお辞儀をすると、その後頭部を銀鼠が撫でた。あぁ、こんな感じだよな。
飲み会の後から会うこともなかったが、それがついさっきのことのような気になる。つまり、苛立ちが込み上げてきた。
頭を上げながら、先輩の手を払いのける。無礼だと怒るような相手ではない。拒否を加減して、顔色を窺わずとも彼の表情はわかる。
ほら、笑ってる。
「久しぶりだね。うんうん、軍服似合ってるね」
「世辞は結構です。今日の仕事は?」
鏡で自分の恰好を見たが、似合ってはいない。まだ着慣れていないというのもあるのだろうが、見事に着られているというのが自身の感想だった。
銀鼠の着崩し方は好まないが、着こなしてはいる。どんなに性格が悪かろうと仕事にやる気がなかろうと、それなりに警軍なのだ、銀鼠は。
「うん、せーちゃんは初日からちょっと大変かも。今日は暴動を止めようと思います」
「レッドですか」
銀鼠はのんびりとした仕草で首からさがったロザリオをいじりながら、にっこりと頷いた。なんだろう、笑顔が嬉しそうな気がする。
「僕みたいな落ちこぼれに回ってくるのは大きく分けて二種類あるんだ」
「はあ?」
人差し指と中指を立てて眼前に突き出してくる先輩に、青磁は反射的に顔をしかめる。それに構わず銀鼠はその指で青磁の頬をつついた。もちろんすぐにはたく。この人の過剰なスキンシップはどうにかならないだろうか。
「一つは、この間みたいなしょうもないもの。もう一つは今回みたいな、命の保障がないもの」
自殺志願者を止めることが、しょうもないこととは思わない。しかし今そこを議論したところであれこれ屁理屈を言い始めて鬱陶しいだけだ。
青磁は開きかけた口を噤み、そしてもう一度開く。言おうとした言葉と、言う言葉は変えた。
「そんなに危険なものなのに、以前の仕事と比べて気持ち悪いくらい楽しそうですね」
吐き捨てるように言う青磁に、銀鼠は目を細める。ロザリオから手を離すと、金属の擦れる音がした。神など信じてもいないだろうに。
「単純で楽だからね、こういうの。相手がレッドなら手加減も必要ないし。生かすように攻撃するのって疲れるじゃない?」
「同意しかねます。逆に殺されるかもしれないですよ」
「あはは」
青磁の言葉に、銀鼠が声を上げて笑い出した。ひーひー言いながら「せーちゃんさあ」と青磁を見る。笑みに細められた目が寒気のするほど光っていた。おそらく笑いすぎて涙が出たのだろう。
「それ、誰に向かって言ってんの?」
あー、腹が立つ。
「落ちこぼれの銀鼠先輩様ですけど」
「ふふふ、そうだね。主席の優秀な後輩くん」
「本当に殺されればいいのに」
「嫌だよ、僕決めたんだ」
「何をですか?」
「殺されるならせーちゃんって」
冗談か本気かわからないことを言い残して、銀鼠は早足で青磁を置いて外へ出た。追及されるのを避けたかったのだろうか。青磁は眉間にしわを寄せながら追いかける。
「見てよせーちゃん。雨降りそう」
「そうですね」
見上げると確かに、重たい雲が空を覆っている。空気もわずかに湿っていて、今にも雨粒が落ちてきそうだ。雨が降る前の、独特な湿った匂いがする。
青磁が空から銀鼠へ視線を移すと、彼はまだ憂鬱そうに空を睨んでいた。
「一気に行きたくなくなってきた」
ため息混じりに呟く先輩の腕を引っ張る。
「行きたいかどうかなんて関係ないですよ。ほら、行きますよ」
気分屋にも程がある。
現場に着いた途端、雨がぽつりと降ってきた。しかし銀鼠は眼前の喧騒に目を奪われているようで、気にする素振りもない。あんなに嫌がっていたのに、現金なものだ。
賑やかな大通りで派手に暴れ回っている顔ぶれを見ると、レッドとドールが多い。どこぞの派閥争いだろうか。
「縄張りだとかなんとか、そういうの勝手に決めてるくせに主張だけはするんだよね、こういう輩って」
騒ぎだしてしばらく経っているのか、一般人はすでに安全な場所まで避難しているようだ。銃声や怒号、血ばかりがこの空間を支配している。
これが現場。今からこの場を収めなくてはいけないのか。そんなこと、本当にできるのか。
「先輩、応援とか」
「来ないよ。これくらいで」
背中を冷汗が流れているのがわかる。顔から血の気が引いている。
訓練生同士の実技ではない。本物の殺し合い。
「こ」
「大丈夫」
銀鼠の言葉のおかげで、怖いなどと弱音を零さずに済んだ。彼は横にいる青磁を見て頭を撫でた。
「せーちゃんはここにいる奴らの誰よりも強いよ」
何の気もなしに言っているのだろうか。それとも、青磁の心境を察して励ましているのか。後者であればそれはそれで腹が立つし、そんな細やかな気配りができる人とも思えない。
「僕は除いてね」
ムカつく。
しかし、彼の言葉で気分が楽になったことは事実だ。それでも感謝の気持ちを伝えるのは憚れる。内心で「どうも」とだけ思っておくだけに留めておいた。
「あれ」
「んー?」
「あの男、以前見たことがあります」
視界を横へずらすと、建物の影に隠れるように立っている男が見えた。
銀鼠も青磁の視線を追うように奥へ目を向ける。
「どこで?」
「えーと、たしか自殺をしようとしていた女性を眺めていたんですよ」
「あぁ、カナリヤ」
こんなところで何をしているのだろうか。あの女性のときもいたとなると、こういう騒ぎを野次馬したいだけという可能性も否めない。
青磁が眉根を寄せている間、銀鼠は考えるように唇を甘噛みしていた。そしてぱっと口を開ける。
「……ちょっと、話を聞いてみようか。生け捕りにしてね」
「は?」
「僕はそれ以外を処理する」
銀鼠は指をぱきりと鳴らしたかと思うと、走り出した。こういうときは本当に行動が早い。嫌なことにはうだうだ言って鈍行のくせに。
よっぽど荒事が好きなのだな。
「やっぱり軽蔑しますよ、先輩」
見境なくなぎ倒している銀鼠を眺め、深いため息を吐いた。背に気配を感じて、青磁も武器を手にする。真後ろからの攻撃を阻止しようと思ったのだが、一足先に遠方からの銃弾が敵の眉間に撃ち込まれた。青磁が防がずとも攻撃が青磁に届くことはなかった。もう一度息を吐き出す。
まともにこちらを見ずとも、的確に撃ち抜く銀鼠の腕は仕方がない、認めよう。そんな神業、並大抵の努力で身につくものとは思えない。人よりも優れた動体視力と才能、そして努力を重ねないと到底不可能だ。実際、青磁にはそんなことができる日が来るかどうかすら見当もつかない。だけれど、だからといって尊敬できるかと言えば首を捻ることになる。
「先輩、俺が攻撃を防げないとでも?」
声を張り上げて抗議すると、彼は右手に人間の首根っこを掴んだまま青磁を見た。彼の足元や周辺は血だらけで人間も倒れているのに、顔にも服にも返り血一滴浴びていない。
「違うよ。言ったじゃん、せーちゃんに任せたやつ以外は全部僕が処理するって」
「律儀なんだか馬鹿なんだか」
顔をしかめて呟くと、遠いのに聞こえたのか銀鼠は笑う。
「馬鹿なんだよ」
「地獄耳」
「わかった、じゃあまあ助ける感じにならないようにするよ」
青磁の悪態に、彼は楽し気に笑う。仕事なのに、人を殴り飛ばしているのに、銀鼠の表情だけを見ているとまるで遊んでいるみたいだ。緊張感のない、ただ楽しいゲームをしているような。彼にとってはそうなのだろう。
まだ胸はドキドキと激しく脈打っているし、緊張で武器を持つ手に汗が滲む。
生け捕りにしろと言われたあの男を捕獲するには、この喧騒の中を突っ切らなければいけない。
でも大丈夫。
銀鼠がいるから、大丈夫だ。
***
結果を言うと、あまり大丈夫でもなかった。
乱痴気騒ぎは収束して、後始末は銀鼠が呼びつけた警軍たちへ丸投げして、終わろうとしている。銀鼠は服と髪が多少乱れてはいるけれど、けがも汚れも一切ない。そして暴れられたからか、満足げに笑っている。
大丈夫でないのは、青磁だった。男の捕獲に手間取ることはなかったが、それまでの道が険しかった。
今、青磁は首筋を手で抑えなければいけない。でなければ血が垂れる。かすり傷はたくさんあるが、一番酷いのはその傷だった。もう少しずれていたら頸動脈だったと思うと寒気がする。
「助けたほうがよかった?」
「いえ」
「初仕事でそれくらいなら上出来だよ」
「本っ当にムカつきますね。暴れた後で綺麗な恰好してる人にそういうこと言われたって嫌味にしか聞こえませんよ」
「怒ると出血が酷くなるよ」
「誰が怒らせてると思ってるんですか」
噛みつくように言うと、銀鼠は笑いながら謝る。
「ごめん、痛いなら先に帰っていいよ」
「冗談やめてください。こんなもんどうってことないです」
銀鼠に縛られた男は、やけに大人しくあぐらをかいている。騒ぎに関与していたわけではなく、ただ傍観をしていたこの男は薄汚れたような服を着ている。しかし髪には気を使っているようで、かっちりとした短髪のところを見ると貧乏ゆえの恰好ではないのかもしれない。おそらく現場仕事のようなものに携わっているのだろう。
同行をお願いしておいて何だが、警軍に話しかけられても縛られても何も抵抗してこないのは不思議だ。
「先輩、何も縛らなくても。抵抗してないんですし」
「こうしたほうがこれを悪者に見せられる。そのままだとパッと見、無抵抗の人間をカツアゲしてるみたいでしょ」
「驚きました。先輩でもそういう人の目を気にするんですね。方向性は間違ってますけど」
「いつどこで見られてるかわからないからね。あとで怒られたくないもの、上司に」
「あぁそっち」
青磁はため息を吐いて、男の前に立膝をついた。間近から彼の目を覗き込むと、彼は怯えもない視線を青磁に合わせる。
「偶然ですね。あなたたち、カナリヤを助けた人たちですよね」
男は開口一番、そう言った。やはり、あのときの。
「違うよ。僕はちゃんと自殺を促した」
「いいえ、ちゃんと助けてたじゃないですか」
男は口端を上げて、銀鼠を見た。しかし彼は苦い顔をするだけで返事をする気がないようで、何かを言う気配がない。何を考えているのか、ぼんやりと男の傍らでしゃがんだまま頬杖をついている。おそらく、「助けた」という柔い単語に嫌悪しているのではないかと、青磁は予想した。銀鼠の嫌いそうな言葉ではある。代わりに青磁が男に聞く。
「あなたはなぜこんなところにいるんですか?」
「野次馬です」
「感心しませんね。その好奇心で危険な目に合うかもしれませんよ」
「好奇心と言えば、そうですね。さっきまで暴れていたドール、俺が整備したんですよ」
青磁は眉間にしわを寄せた。
「整備士」
「そうです。とはいっても、ちょっと前までは趣味みたいなもので、それまでは生きた人間を診ていました」
医者が機械を診る整備士に転身したということか。言葉で言うのは簡単だが、そう簡単なことでもないとは思うが。
「自分が診たドールの動きを確認したかったんです」
「あなたが、暴れるようプログラムしたと?」
「ここで頷いたらマズいですよね」
あはは、と笑い混じりに男は言う。頷かなくとも説明されたことが事実ならそれは立派な犯罪だ。法律的には、ドールの悪用は禁じられている。
「それでも、悪用する人はいる」
青磁は苦々しく呟いた。便利なものができると、意図的に間違った使い方をする輩が必ず出てくる。
「そりゃあね。人間なんておかしい奴ばっかりだもの」
閉口していた銀鼠が、青磁の独り言に答えた。そのセリフを銀鼠が言うとなんとも滑稽だ。自分のことを指しているとしか思えない。
「ま、そんなことよりカナリヤについて聞こうか」
そう言って銀鼠は青磁にまた話をするよう促した。仕方なく青磁はまた口を開く。
「あなたは彼女とどういうご関係なんですか?」
「うーん、一言で言い表せないですね。恋人という言葉はあまりに稚拙だ」
つまりは好いた者同士ということだろうか。いや、しかし。
「彼女の自殺を止めようとしなかったのはなぜですか? あのとき、あなたは下で眺めていただけでしょう」
青磁がそう言うと、「あ、見てたのばれてましたか」と男は笑った。
「なぜ止めなければならないんですか?」
「は?」
青磁が眉根を寄せると、男も困ったように首を傾げた。
「カナリヤはあの時、死ぬつもりだったんですよ。それがなんでか、知りたいですか? 彼女は絶望していたんです。彼女が大切にしていたドールが壊れてしまいましてね。たかがそれだけと思いますか? 彼女にとってはよほどのことなんですよ。それこそ死んでしまいたいくらいに。しかし、さっさと飛び降りなかったところを見ると、直前で怖気づいていたんでしょうね。そういうところも愛おしいわけですが。彼女が絶望し、この世を去りたいと思うのなら、それを見守ることが私の役目です」
聞きたいことがたくさんできた。しかし何をどう問えばいいかわからず、青磁は銀鼠を見た。その視線を受けた銀鼠はつまらなそうにしつつ頷いた。カナリヤを相手していたときのような、面倒くさそうな顔をしている。
「あんたはあの女に死んでほしかったの?」
男の思考などに興味がないのだろう。今の話の異常さを追究しようとはしない。
「あの女を愛していたのに」
その言葉にも、銀鼠は苦い顔をした。
「そう、愛している。だから死んでほしいんじゃないか。彼女が死んだら何もかも俺の物になるんだから」
「だからあんたは、ビルの下で見ていたんだね。でも、死んでほしいなら自分で殺せばいいじゃない?」
「それがね、難しいんだよ。彼女は生きていても美しいものだから」
「死んでも美しいんだろ?」
「そりゃあそうさ。でも、愛する人の死は一度きりしかないんだよ? 大事に大事に、どうやって、いつ殺そうか考えていたらあれさ。まあ自ら死のうとするのなら、それはそれもまた美しいかと思って」
「僕に言わせれば、飛び降り自殺は美しくない」
銀鼠は男の言葉を遮って言う。あくびをしながらのんびりとした動きで立ち上がった。つられて青磁も立つ。
「叩きつけられて骨がばきばきの死にぞこないを回収するより、綺麗な状態のまま殺すのが美しいよ」
「普通はそうだろうね。でも私は折れた骨を元通りにできる」
こんなにも異常な思考の持ち主なのに、逮捕することも監視することもできない。そんな権限は警軍にない。罪を犯した奴でないと手を出せないのだ。
「あのですね。殺すのに美しいも何もないし、普通なんて言葉あなたがたに一番合わないですよ」
「あっはは、正論」
銀鼠はつまらなそうな顔を一変させて声を上げて笑う。
「私、今の会話の何一つ共感できないんですけど。おかしいってのはあなたたちのことを言うんですね」
「そうだね。そう感じるのが、普通だ。普通なんて言葉も大嫌いだけど」
言いながら腰のホルスターへ手を伸ばす。
青磁がハッと気付いたときには、男の心臓が血塗られていた。
銀鼠へ視線を移したときにはもう銃をしまっていた。こうもあっさり。
「なんで、先輩。なんで彼を殺したんですか」
突然のことに、青磁は銀鼠をぼんやりと見つめた。困惑して声がか細くなる。
彼は青磁を見返して、鼻から息を吐いた。
「こいつは今殺しておいたほうが平和だ。後で追う手間が省ける」
息絶えた男の目を覗き込み、やや考えるような素振りを見せた。頬を撫で、首に手をかける。うなじの毛を指先でなぞっていて、何がしたいのかさっぱりだ。死体にセクハラをする趣味でもあるのだろうか。
「それでも、予備軍だったとしても、今は何もしていないんですよ。態度も協力的でした」
「じゃあせーちゃんは、あいつが今後犯罪を起こさないと思える? あの女を殺すのを止められる? 殺して犯罪者になったとき、彼を確実に捕まえられると言える?」
屑の先輩にしては、痛いところを突いてくる。
「……それを言うなら、先輩も殺さなきゃいけなくなりますけど」
「うん、僕は殺されるべきだと思う。殺せるんならね」
にっこりと笑うその顔は本気だった。死体からようやく手を離したときには、男の身元証明を勝手に拝借していた。
「そうですね、殺せるものなら殺してやりますよ」
そう言うと、銀鼠はますます顔を輝かせた。
「せーちゃんになら殺されてもいいよ」
「それ、さっきも言ってましたけど、本気でそう思ってるんですか?」
「思ってるよ」
考える素振りもなく、すぐに答えた。
肉の塊となった男の写真を撮ってから、銀鼠は短く機械操作をした後さっさと路地を抜け出した。青磁は男に合掌してから、その背中を追いかける。視界が開けて、明るくなった気がした。空を見上げるが、晴れてきたということもなく曇っている。雨はどうやら大丈夫そうだ。
晴れたのかと思ったのは、銀鼠の顔がやけに明るかったからかもしれない。ニコニコしてこっちを見てくる。
「思いっきり抵抗するけどね」
「抵抗されたら不可能です」
「そんなことないよ」
「見え透いた嘘ほど腹立つことありませんよ」
「いつも怒ってるじゃん」
「ええ、おかげさまで」