銀鼠という男
2
訓練場を誰も使用していないからか、広い訓練場のど真ん中に寝転がっている一人の男がいた。男は両腕を後頭部で組み、日光を遮っているのか、ホッチキスで留められた数枚の紙が顔に乗っかっている。死んだ人間にかける白い布のように見えるが、本人はまったく気にしていないのか、気持ちよさそうな寝息が聞こえる。
青磁は顰めた眉を無理やり戻し、前屈みになって彼に声を降らせた。
「先輩」
「――……んん?」
青磁が顔を隠す紙を退けると、男は目を開けた。やはり眩しそうに何度か瞬かせると、端整な顔が歪められる。
「何してんですか」
「へぁ、うん。なにって」
まだ寝起きで頭が働かないのか、間抜けた声を発した。
銀鼠は上体を起こし、ほんの少しだけたじろいだ様子で、それでも柔らかく笑って、挨拶代わりに右手を上げた。
「昼寝」
「ここでですか?」
「そうだよ。なんか、広くて気持ちいいから」
なぜ彼はこんなにもあっけらかんと答えるのだろうか。
「ちょっと休憩してただけだよ。そんなコワイ顔しないの」
悪気がないのか、やけに無邪気な顔をする。
出された手に資料を返した。表紙には何も記されていなくて、何の資料なのかはわからない。
「どう? せーちゃんも一緒に寝る? あったかくて気持ちいいよ」
「遠慮します」
即答すると、苦笑が返ってきた。
「せーちゃんは軍学校を首席で卒業、ということは、煤は着たことないんだね」
「はい」
「首席かぁ。僕には縁のないものだったな。こないだまで煤だった僕と首席を一緒にするなんて、上層部は何考えてんだろうね」
煤というのは、警軍内での専門用語のようなものだ。銀鼠が着ている白の軍服ではない、黒の軍服をそういう。白は黒に比べて圧倒的に数が少ない。優秀な者のみが着ることを許され、レッドリストに載る凶悪犯を追うことを義務とされる。青磁は、首席で卒業したため、その特権として煤の道が省かれる。まだ袖を通してはいないが、先輩と同じ白い軍服。
「本当に、厄介だな」
独り言のように小さな声で悪態を吐いてから、彼は青磁から受け取った資料を無造作に放った。足元の土を均すようにつま先で地を撫でる。
「んじゃ、せーちゃんがどのくらいの実力か見たいから、いっちょやりますか?」
「実践訓練、ですか?」
「いやいや、訓練じゃなくて。せーちゃんは本気でこないと」
白い歯を覗かせて、からからと笑う彼の表情はあくまで柔らかく、まるで世間話でもするような軽い口調だった。
「本気で」
「僕のハンデは、そうだなー……右手しか使わないとか、どうかな」
彼はそう言うと、左手をポケットに突っ込み、右手に拳銃を持った。
「あの、お言葉ですが」
「ん?」
「ハンデは必要ないと思います」
「というと?」
そう訊く銀鼠の瞳には、悪戯っぽい色が滲んでいた。青磁の答えをわかっていて、わざと尋ねているようだった。
青磁は嫌悪を滲ませた視線で、その目を見据えた。
「こちらに本気を出せというのなら、先輩も本気でないと公平ではありません」
「違うでしょ」
銀鼠はそう言って、声を上げて笑う。青磁が眉根を寄せると、彼は笑いながら続けた。
「僕が落ちこぼれだから、そんなハンデは必要ない。そう言いたいんでしょ、顔に書いてあるよ」
「それもあります」
「はは、正直!」
彼は気分を害す様子もなく、ただ口元に笑みを浮かべて何度か頷いた。彼が笑う度に、目の下にある逆三角形の赤い刺青が皮膚を動く。血が滲んでいるようで気味が悪い。
「僕は勉強が大嫌いだったんだよ」
明るく話す彼の目に悲観の気配はない。
その目が、青磁の目をじっと覗きこんだ。深い翠緑の色。やはり彼の瞳は綺麗だ。
「考えるのが苦手、頭を使うのが嫌いなんだ。バカなのは自覚してる。そんな先パイの下で、内心気に食わないんでしょ? だったら、今殺せばいい」
「……は?」
さらりと言う彼の言葉に、首を傾げた。聞き取れなかったわけでも、意味がわからなかったわけでもない。何を言っているのか、理解ができなかったからだ。
訝しげに銀鼠を見ると、彼はくすりと笑った。
「僕一人死んだところで、むしろ喜ぶ人がいるくらいだ。優秀な後輩に殺されるなら、僕も本望だよ」
嘘だ。
青磁は漠然と直感した。彼は、嘘吐きだ。本当に殺される気など更々ないだろう。
関われば関わるほど、大嫌いな人種かもしれないと思い知る。
「さ、始めようか?」
銀鼠のその言葉を引き金に、青磁は背中から七十センチほどの棒を出した。一振りするとしなやかにしなる。
「ウィップか。ぞくぞくするね」
向けられた敵意に臆することなく、銀鼠は暢気な声を上げて笑う。その言動がいちいち癇に障る。
青磁は目を細めて、彼との間合いを計る。鞭を持つ手に力を入れた。
殺せるとは思わない。殺そうとも思わない。ただ、そんな物騒なことを軽率に言いのける銀鼠を心底軽蔑した。命を軽んじているとしか思えない。
「本気でいきますよ?」
「もちろん」
銀鼠が悠長に頭を俯かせたその刹那、青磁が動いた。
銀鼠は目だけを青磁に向け、素早い動きで右手を上げる。足は動いていない。目の前に一発、拳銃から放たれる。青磁はそれを目視しようとはしなかった。ただ銀鼠の右腕を観察し、筋肉の動きに合わせて鞭を横に唸らせた。
銀鼠へ走る速度はゆるめずに銃弾を鞭でかわす。
「うげ、銃弾叩き落とした」
青磁が自分の胸に突っ込んできているというのに、銀鼠はそれでも笑っていた。眼前に迫る死には興味がないとでもいうように。はたまた、死を恐怖とする感覚がないかのように、笑っている。心の底から、楽しそうに。
青磁が銀鼠の心臓を突けると確信した、それと同時に、銀鼠の姿が視界から消えた。
瞬時に鞭を引っ込める。そこに、真上に跳んでいた銀鼠が着地する。
「いーい動きするなあ」
声が、ふわっと浮いた。そう錯覚したのは、銀鼠が青磁の眼前に迫ったから。まるで瞬間移動でもしたかのような素早さだ。それでもなんとか視界に捉えていた青磁は、鞭を銀鼠に突き出していく。彼はやはり楽しげに、それを避けていく。拳銃を使う気がもうないのか、右手もポケットに入れている。
それに気を取られた瞬間。
銀鼠は上体を下ろし、体を回転させる。右足が蹴り込まれ、青磁の手から鞭が零れ落ちた。
手の痛みによろけたが、なんとか踏みとどまった青磁は、鞭が地面に落ちたのを視界に入れながらも、目を向けることはしなかった。そんな暇などないからだ。
まっすぐ銀鼠を睨み、間合いを詰める。武道に自信がないわけではない。
銀鼠の左頬に、拳がヒットした。しかし上体が僅かに傾ぐだけで、よろけることすらなかった。銀鼠は衝撃で顔を横に向かせたまま、目だけ青磁に投げかけた。乱れた髪の間から覗くその瞳は、ぞくんと寒気がするほど美しかった。まるでビードロのような輝きを放っている。唇の端に滲む血に構わず、目をゆっくり細めた。
昨日も見た、この表情。色っぽい目の色と、歯列から覗くいやらしい舌。遊女が男を誘うような、艶やかで鋭い視線に心臓が騒ぐ。
「なるほど。肉弾戦もイケるか。パワーも申し分ないけど、スピードのほうがあるね。それに、」
銀鼠は相変わらず両手をポケットに突っ込んだまま、冷静に分析を口にしている。その間、休まず攻撃を繰り返しているのに、一発しか当たっていない。もしかしなくとも、先ほどの一発はわざとなのだろうか。
しかし、壁に追い込んだ。逃げ道はない。
銀鼠は壁に背をつけてもなお、余裕の表情だ。
それが癇に障る青磁は、眉間と拳に力を込めて、彼の笑顔に拳を叩き込んだ。つもりだった。
「敵を追い込む術も知ってる」
彼は、僅かに頭をずらしただけだった。必要最低限の動きで、青磁の渾身の一撃をあっさりと避けた。そして、笑った。
「ま、所詮マニュアル通りだけど」
その瞬間、表情も声も態度も柔らかい銀鼠に対して、恐怖が湧いた。なぜ急にそれが脳を支配したのか、自分でもわからなかった。けれど、ただ全身が、彼の存在に震えた。視界がぐるんと歪む。
「……ね? 寝転がるのも意外にいいでしょ?」
青磁が気付いたときには、仰向けに倒れていて、口に拳銃が突っ込まれていた。腹に銀鼠が座っている。
(いつの間に?)
暑くもないのに、じっとりと、背中に汗が滲む。
銀鼠はいつの間に両手をポケットから出した?
いつの間に、拳銃が青磁の口に入れられた?
いつの間に、青磁は倒れた?
いつの間に、銀鼠は青磁の上に座った?
舌に押し付けられた銃口に青磁が呆然としていると、上にいる銀鼠は軽快に笑った。
「うん。これなら仕事も全然問題ないよ」
今、銀鼠に倒されたばかりだというのに、矛盾したことを言う。なぜその矛盾が生まれるかはわかっている。ただ、銀鼠が強すぎるということだ。
「先輩は、本当に落ちこぼれだったのですか?」
銃が抜かれ、青磁は掠れた声で、思わず問う。
信じられない。こんなにも圧倒的な強さを持っているのに、なぜ「落ちこぼれ」などと言われているのだろうか。
「うーん、そもそもなんで落ちこぼれって言われてるか知ってる?」
銀鼠は青磁の問いに答える代わりに、逆に尋ねてきた。
「いえ……」
銀鼠は、青磁を見下ろしていた。ねっとりとした笑みが、顔に張り付いている。その顔に見下ろされるのが嫌で横を向くと、土の匂いを感じた。
「せーちゃんさ、軍学校の実践訓練も成績がよかったんだよね。首席だし」
「まあ」
青磁は、土に頬を擦りつけて頷いた。すると、青磁の腹に座っている銀鼠は笑って「さすが」と言った。
最初の実践訓練は、入学式の後。それは訓練というよりサバイバルレースだった。武器は、峰のみのナイフ、ペイント弾など、重傷を負うことのないものを使用することがルール。あとは、ひたすら仲間たちを倒していくだけ。仲間とはいっても、まだ行動を共になどしてもいないただの他人だ。友情も何もない。これの動きを見てクラスが分けられるので、試験でもある。生き残ればいいという簡単なものでもなく、これで認められなければ下手をすれば入学したにも関わらず学校を辞めさせられる過酷な授業だ。一応は入学を許可されている生徒にとって、それは屈辱でしかない。
「急所に当たったら終わり。自分の急所がわからなくても終わり。初めての訓練、きっと興奮しただろうね」
「必死だったのであまり覚えていません」
「僕は、その訓練っていうのを一度もやったことがなかった」
「はい?」
記憶の糸を辿っているのか、やや上を見上げて青磁の腹から腰を浮かせた。ゆっくり続ける。
「なんとなく知ってるかもしれないけど、まともな入学も卒業もしてないしね」
「一応、在籍はしていたんですよね?」
「書類上? 経歴上はそうだと思う。座学を受けてみたりはしたよ、生徒として。形だけでもそういうことをしないと警軍側として都合が悪かったんだろうね」
「よく、わかりません」
銀鼠が警軍になれた理由。それが特殊だったことはわかるが、大事な根本がぼやけてはっきりとしない。
青磁が眉根を寄せていると、彼は言葉を選んでいるのか、言おうか悩んでいるのか、ほんの少し逡巡した。そして「そうか、最初は」と口の中で呟いた。
「殺したんだ、教師を」
青磁は銀鼠に見下ろされながら、上体を起こした。彼の言葉を脳が理解しようとはしてくれず、数秒硬直してしまった。
「厳密には、教師と警軍どもだけどね。手当たり次第だったから」
教師が殺されるなど、そんなことありえるのか。教師は警軍に所属している。経験豊富で腕の立つ者でないとなれない。そんな手練れたちを、銀鼠は殺せた。
「どうしてそうなったんですか? なぜあなたはそうして、警軍に?」
「なんで殺したかはまぁ、」
すぐには続かなかった。
青磁の視線をまっすぐに見返してくるくせに語らない瞳が、うっすらと細められる。意味深なようにも見えるし、何も考えていないようにも見えた。
「こんな風に言うと嫌がるだろうけど、大した理由はないんだ。軍は僕を危険だと判断したが、始末するより利用したほうがいいと監視下に置いた。僕たちの上司はイカレてるよね。そんなことするより僕を殺せばよかったのに」
人を殺したのに逮捕もされずに逮捕する側としてのうのうと働いているのも変な話だ。彼自身が言っているように、殺せとは言わないがどうにかならなかったのだろうか。
青磁は黙って彼の話を聞いた。
「だから僕は一応学校をうろつきはしたけど、訓練を受けさせてもらえなかった。加減がわからなくて殺しちゃうからね」
ようやく、銀鼠がどれほどの人材なのか理解した。なぜ彼が「落ちこぼれ」と言われていたか。彼の言葉どおり、筆記は苦手。それに加え、実践訓練はしなかった。勉強も何もできないと認識されていたのだ。何しろ、たった一人の子どもが教師を殺した光景は他の訓練生が見ることはなかっただろうから。教師たちが公言するとも思えない。
教師をも恐れを抱くほどの身体能力、実践能力。
「殺す、必要が?」
「必要かどうかじゃない。気に入らないとか、その程度だよ」
なんだこいつは。
人の命をなんだと思っているのだろう。
この軽さは嫌悪感しか抱かない。しかし、これからは銀鼠に従わなければいけないのだと思うと、気が重くなる。
「先輩は、気に入らないと殺すんですか」
銀鼠の目を覗き込むと、彼は片眉を上げて唇を尖らせた。「ふむ」と鼻息混じりに呟く。
「嫌でしょ」
答えなかった。頷きたい気持ちを理性で抑え込んだが、彼はお見通しのようで軽やかに笑った。
「今は飼われてるただの従順な犬のつもりだよ。飼い主の首元を噛みつくこともできるけど、僕は今のままで不自由してないし」
若気の至りで人殺しなんて考えられない。この人は本当に赤い血が流れているのだろうか。人間のように造られたドールなのではないのか。
「殺人を犯しておいて、何を」
へらへらと。平然と。
聞こえないように呟いた言葉をあざとく拾う。
「大丈夫だよ、せーちゃんは殺さない。怖がらなくていい」
「怖がってはいません」
軽蔑しているだけ。
そう続けたら彼はどういう反応をするのだろう。怒らせたくはなかった。
「こんなのが先輩なんて嫌だよね、本当に。同情するよ」
銀鼠は拳銃を黒い革製のヒップホルスターに収める。ホルスターは左右にあり、今使わなかった左側にも拳銃が装備されている。大きさが違い、左のほうが本命だろう。
「もしかして、左利きですか?」
「ん? うん、そうだよ。両利きってカッコいいから、練習してるんだけどさ。なかなか難しいよね」
「今、右手を使ったのは、ハンデですか」
「うーん、そこまで深く考えてなかった。拳銃も使うか悩んだけど、それじゃあせーちゃんの力がわからないかと思って。冷静に対処できたから合格」
「合格、ですか」
「うん。いやー、やっぱりせーちゃん強いよね。ちょっと危なかったかな」
また彼は平気で嘘を吐く。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのだろう。いっそのこと、すべてが嘘だったらこちらの気も多少は楽になるのに。
「んじゃ、せーちゃんの歓迎会を開こう」
「歓迎会?」
「そ。今日は僕が何でも奢ってあげよう」
「いえ、そのお気持ちだけ頂きます」
「そんな固いこと言わずにさ。先パイらしいことさせてよ。親睦を深めようって言ったじゃん?」
強引に青磁の腕を取り、引きずった。握られたその感触はたしかに人間の手だった。
銀鼠はきっと、仕事をしたくないだけかもしれない。そう思ったが、やはり先輩の言葉を無視するわけにもいかなかった。
「何か嫌いなものはある? アルコールは?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ美味しいお酒がある店知ってるから、そこ行こう」
***
不意に銀鼠の足が止まる。雑貨店のショーウィンドウを覗き込んでいる男を見ているようだ。知り合いだろうかと、青磁もそちらへ目を向けた。ストレートの綺麗な黒髪に細身の、物腰柔らかそうな男だ。
「どなたですか?」
「うん、レッドだよ」
グレーのロングコートを着た男に駆け寄るもう一人の男へと顔を向けた。後から来た男も顔こそ見えなかったが、あの赤毛は目立つ。青磁の胸がざわりと波立つ。
「リストで見たことがあります」
レッドとは犯罪者のことだ。一般公開されている犯罪者リストの中に、あの男たちの組み合わせを見たことがある。彼らは二人で行動しており、両者とも犯罪者だ。
「捕まえましょう」
「やめとこう」
「は?」
青磁の言葉に首を振る先輩を、まじまじと見る。なにを言っているのだろう。厳密にいえば、青磁はまだ警軍ではない。だからといって犯罪者を目の前にして放置しておくことはできない。
「私が足手まといになるからですか?」
理由としてはそこだろうかと、青磁は真顔で銀鼠を見た。
その顔に唇を尖らせ、銀鼠は鼻から空気を吐き出した。面倒くさそうだ。もしかして考えたくはないが、そちらが理由なのだろうか。
訝しむように睨んでいると、彼はやれやれと肩を竦めた。
「わかったよ。声をかけるだけね」
「それでは」
意味がない。むしろ警戒させてしまうだけでは。
そう言いかけたが、すべて言い終える前にさっさと男たちに歩み寄っていった。
銀鼠が声をかける前に、犯罪者二人はこちらを振り向いた。気配を察したのだろうか。
黒髪の男は優し気な、とても犯罪を犯した者には見えない雰囲気を醸し出していた。平凡すぎて、街に紛れていてはきっと見つけることが難しい。しかしその顔はやはりリストに載っていた男を同じだった。
「あ、銀鼠さん」
「どうもー」
黒髪のほうの男と同じように、青磁も銀鼠の横で目を見開いた。
何を馴れ馴れしく。
まるで友人に会ったような気軽さに、驚きと戸惑いを隠せない。
青磁のそんな疑問を知る由もなく、銀鼠はさらに続けて彼に話をする。
「あいかわらず二人仲良しだね」
「ただ一緒にいるだけですよ」
「一緒だと始末しやすいからちょうどいいけどね」
そこで赤毛の男が顔を険しくした。その瞳にどきりとする。恐ろしいほど透明感のある、金色の瞳がじっと銀鼠へと向けられている。それは好奇ではなく完全な敵意だった。
黒髪の男も数秒銀鼠の目を覗きこんでから、やけにはっきりとした口調で言った。
「そんな気ないでしょう、今は」
「ん? どうしてそう思うのかな?」
「だって、今捕まえる気があるなら、私なんかとっくに拘束されてますから」
「買い被りすぎだよ」
銀鼠はにこにこと笑っている。
黒髪の男は警戒しているようではあるが、素直に銀鼠の話に付き合っている。控えめに青磁へ目を向けた。
「えっと、そちらは」
「彼はせーちゃん。今僕と一緒に行動してるんだ」
「せーちゃん?」
戸惑いの色を浮かべる男に、青磁は丁寧に頭を下げた。
「青磁と申します」
「青磁さん、ですか。なるほど、だからせーちゃん」
しかめた顔のままゆっくりと頭をもたげる。
「レッドリストに載っていますね?」
「不本意ながら」
やはり、間違いない。
青磁が睨むと、男はばつが悪そうに顔を歪ませた。そんな彼に、銀鼠はおかしげに笑う。
「そう警戒しなくていいよ。今日はせーちゃんもオフだから」
「いいかげんにしてください、先輩!」
青磁は隣にいる銀鼠に怒鳴り、右手を腰にやる。しかし武器を掴む前に、銀鼠の手が止める。
「まあまあ」
「目の前にレッドがいるんですよ? 何をのんきに」
「落ち着きなさい」
銀鼠は、興奮する青磁を宥めながら、怯えた表情の黒髪の男を見た。「微塵も怯えてないくせに」と口の中で転がすのを、青磁は隣で聞いて首を捻る。
「……みんなして、なんでそう殺気立つのかね」
やれやれと呟いたかと思うと、銀鼠の左手が動いた。
「鬱陶しい」
どすの利いた、地を這うような低い声。それに伴う凄まじい殺気。
青磁はその気配に鳥肌が立ち、足が竦んでしまった。首に手をかけられたかのような圧迫感が全身を覆う。ぎこちなく、目だけを隣に向ける。
銀鼠は袖に隠し持っていたナイフを黒髪の男の首元へやっていた。ナイフを突き付けられている男はたじろくでもなく避けるでもなく、ただ困ったような顔をしている。
銀鼠の腰にも金髪の男の拳が寸前で止まっていた。
「今日は何もしないって」
この緊張感漂う空気に、場違いな明るい口調。
「だったらこのナイフはなんだ?」
赤髪の男はふんと鼻を鳴らし、拳をもう一度振り上げ、銀鼠に突き出した。銀鼠はそれを寸前で避け、一度二人のレッドと距離を取る。青磁の腕を引っ張った。後輩を自分の背中へ追いやり、手を出すなと目で言う。
青磁はふと、自分の勘違いに気付いた。
先ほどに殺気、赤髪の男のものだと思ったが、それはありえない。彼は感情を持つドールだと言われている。いくらドールにはない感情があるとしても、殺気まで出せるほどの造りではないだろう。ということはつまり、あの殺気は自分の隣にいる銀鼠のものだったのだ。
「君が先に手を出したんじゃん。だから仕方なく」
「敵意剥き出しのガキを連れてよく言う」
「攻撃的なのはお互い様でしょ」
ため息交じりの銀鼠の言葉に、穏やかな男が同調した。
「そうですよ、もう。行きましょう、誰かさんが喧嘩っ早いから周りが騒がしくなってきました」
赤髪を宥め、腕を引いた。やけにまっすぐな視線が青磁に向けられた。奥底まで覗かれているような、気持ちの悪くなるような視線だった。
「今日のところは行きます。捕まえてみますか?」
「……」
挑戦的ともいえるその言葉に、何も返せなかった。なんだろう。殺気じみた敵意など微塵も感じられないのに。なぜ彼を怖がっているのだろう。
「ふふ、ありがとうございます」
黒髪の男は薄く微笑み、今度は銀鼠を見た。
「では、また会わないことを祈ります」
「僕は会いたいよ」
「ちっ、気色悪い」
赤髪の男は大きく舌打ちをして、しかし素直に黒髪の男と共に背を向けた。
「よかったね、素直に引いてくれて」
銀鼠は笑いながら、青磁の肩をぽんぽんと叩いた。
***
銀鼠に案内された店は、なんとなくイメージしていたものとは違い綺麗で物静かな雰囲気を醸し出していた。こう言っては失礼だが、もっと雑多で小汚いところへ連れて行かれると思っていた。青磁は心の中で謝る。
常連なのだろうか、銀鼠と店員は慣れた流れで一番奥まった個室へと向かう。
「酒はなんでも大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、酒と料理を適当に」
「かしこまりました」
個室の前でそんなやりとりをして店員をさっさとさがらせる。
「銀鼠先輩。どうして捕まえようとしなかったんですか?」
青磁は銀鼠が座ったと同時に抗議の声を上げた。先輩は苦笑混じりに言う。
「せーちゃん。レッドとは何だろう?」
「は?」
何をわかりきったことを。
「レッドは罪を犯した者を指します。犯罪の大小は問わず、犯罪者の危険度によってブラックとレッドに分けられ、レッドはブラックよりも要注意の犯罪者です」
優等生の答えに、銀鼠は頷いた。そのあとで、浅く息を吐きながら頬杖をつく。
「あのねせーちゃん。たしかに犯罪者は捕まえなくちゃいけない。けど、時と場所をわきまえるのも大事だよ。あそこには一般人がたくさんいた。巻き込んじゃうでしょ」
「では、巻き込まないようしばらく監視し、安全なところで捕獲すればよかったのでは?」
「仕事中ならまだしも、今日はもうオフだし」
「それならば応援を呼べばいいじゃないですか」
「面倒くさい」
それらしい御託を色々と並べたが、結局はその一言がすべてなのではないだろうか。もう追求するのも馬鹿らしい。
「……勤務中もそんな感じですか?」
青磁は顔をしかめて、銀鼠を訝しむような視線を投げかけた。そんな冷めた目を、銀鼠は意にも介さないようで、へらへらと笑みを浮かべている。
「いやぁさすがに。仕事だったら殺そうとするよ、ちゃんと」
殺すのではなく、逮捕をするのが仕事なのだが。確かにレッドは危険なため、最悪の場合殺害しても構わない。だがしかし、あくまで最悪の場合は、だ。罪人だからといって故意に殺してはいけない。そもそも、レッドと称される輩はそう一筋縄で殺されてはくれない。
「それに、あの二人は強いよ。せーちゃんにはまだ荷が重過ぎる」
「黒髪は、そんなに強い男とは感じませんでしたが」
その物言いに、銀鼠は嘆息して「右手」と言った。
青磁が首を傾げると、もう一度同じ言葉を繰り返して、今度は己の右手を青磁に向ける。
「彼の右手、見えてなかったの? あれはきっとバックサイドホルスターを使ってるんだね。あるいは、ズボンのウエストに直接挿しているか。まあ彼はあんまり銃を使いたがらないから、その可能性もなくはない。彼の右手は銃をすぐ抜けるように構えてた」
そう説明されて、青磁は途端恥ずかしくなった。
まったく気が付かなかった。
いくら学校で優秀だったからといって、やはり実践慣れには時間がかかる。本物の殺し合いが、どういうものか。青磁にはまだわかっていないのだ。
「彼は撃つ気がない。でも、いつでも撃てるんだよ。だから、銃を抜かせたらマズい。腕はいいよ」
「先輩よりも、ですか?」
「あれ? それって、ちょっとは僕を褒めてくれてる? 嬉しいね」
銀鼠は笑い礼を言ってから、黒髪の男の技術をさらりと認めた。
「彼は外さないよ」
そう断言したということは、戦闘しているところに遭遇したのだろうか。それとも、直接交戦したのか。どちらにしろ、あの男たちは捕まることなくのんきに歩いていた。ということは、二人は警軍から逃げ延びているということだ。
「せーちゃんが自分で言ったじゃない。レッドは犯罪者の危険度が高い。彼ら二人ともレッドなんだよ。見つけたからと言ってほいほい捕まえようとはできない。侮ったらダメだ」
廊下から声がして、障子が開く。店員が酒と料理を持ってきた。色鮮やかなサラダに刺身の盛り合わせ、ローストビーフ。そして酒はビールだ。食べ物が洒落てはいるものの、バーなど格式ばっていないからか、やはり最初の一杯はお決まりなのだろう。
「せーちゃんはさ、なんで警軍に入ったの?」
乾杯もそこそこに、銀鼠は話を変えた。なるほど、歓迎会のような質問だ。しかし、
「こういう場にはそぐわない話になってしまいますが」
「話したくないなら構わないよ」
「そういうわけでは」
青磁は首を横に振って、話していいか逡巡した。話したくないわけではないのだが、あまり楽しいものでもない。しかしじっと見つめてくる先輩の視線に促され、やがて口を開いた。
「私の両親は、殺されたんですよ。その犯人を捕まえてやりたくて警軍に入りました。元々、人を助ける仕事をしたいと思っていたし、きっかけに過ぎませんけれど」
単純な殺人事件のはずなのに、犯人はいまだ捕まっていない。どんな人物なのかも謎となっていて、完全に迷宮入りとなった。けれどそんなことで、はいそうですかと納得できるわけがない。他人が諦めるのなら、自分で探し出せばいい。そう思い至るにはそう長い時間を要さなかった。けれど、個人で調べるのにはやはり限度がある。両親が死んでから青磁はあらゆるツールを使って事件を調べてはいるが、真相に近づける決定的な何かは見つけられなかった。それもそうだ。その道のプロである警軍が見つけられなかったものを、たかが一個人がどうにかできるわけもない。
そもそも、あの事件には謎が多い。
両親が働いていたレグホーン病院。いつも通り働きに出かけた二人は、そのまま帰ってこなかった。
事件があった日、患者も医者も研究者も関係なく、病院にいた人という人はすべて殺されていた。しかし、その日その場にいなかった他の医師などは一切が無事だった。病院に恨みを持った人物ではないかという線は正しいのだろうが、それならば患者を殺す理由も、欠勤していた関係者を殺さなかった理由もわからない。
その日、病院にいた何者かが突発的にテロでも起こしたのだろうという仮説もあるのだが、名簿を確認したところ病院にいた全員が残らず死んでいた。自殺をしたと見られる人物も発見されなかった。皆、明らかな致命傷を二か所以上につけられているのだ。自殺であればそれほどの深い傷を複数つけることは不可能だ。その前に力尽きる。
病院を襲撃した理由はわからないが、犯人が逃げたのは確実なのだ。それなのに、何の手がかりもない。監視カメラも巡回していたドールも、すべて破壊されていた。犯人と病院の関連性を見つけられていない。
そして青磁は、ようやく警軍に入ることができる。これで少しは犯人に近づけるのではないだろうか。
「……あは、面白いね」
青磁の端的な理由を聞いた第一声が、笑い声だった。青磁はその反応に眉根を寄せる。
「先輩?」
「ははっ、ありきたりで、つまらない理由で警軍になったんだねえ、せーちゃん」
銀鼠は心の底から可笑しそうに笑った。目尻に溜まった涙を親指で拭う。
「銀鼠先輩、本気で言っているのですか?」
「ふふ、どうして怒ってるの? 笑って何が悪いの? そんな些細なことで、自分の人生を棒に振ったんだ?」
かっとなった。
銀鼠は青磁に殴られても笑うことをやめなかった。初めて会ったとき、屋上でも彼はわざと青磁に殴られている。それはきっと、彼自身も怒らせることを言っていると自覚しているからだろう。それでも言うのをやめないのが、青磁には理解できない。ただただ腹立たしい。
両親が死んで、空っぽになった。それを満たすには自分から動くしかなかった。突然孤独に放り出されて、悲しみも苦しさも抑え込むのにどれだけの年数を必要としたか。もう、笑い方も忘れるくらい必死に生きてきた。それを、へらへらと。何の苦労もしていないような馬鹿みたいな笑顔で「つまらない」だと。
「家族を失う悲しさを、あなたは知らないんだ」
怒りを抑えて絞り出すように言うと、銀鼠は笑うのをやめ、「そうかもね」と素直に首肯する。
「僕の両親は生きてるから。そりゃもう元気にね」
一瞬、銀鼠の瞳が冷たく光った。
「いっそ死んでくれていれば、せーちゃんの気持ちがちょっとはわかったのかな」
「……そんなこと、冗談でも言ってはいけません」
「冗談じゃないよ。あーいや、それがまた腹立つんだろうね、ごめんね」
二人とも、一杯目の酒が空になる。店員を呼び出し、個々で好きな酒を頼む。正直、青磁はもう帰りたかったが、銀鼠の真意を掴みたかった。何を考えて、こうした発言に至るのか。とてつもなく腹は立つが。青磁がいくら怒ろうが喚こうが、銀鼠とは一年一緒にいなくてはならないのだ。彼という人物を知って、対処していかなくてはいけない。
青磁は座り直し、荒げていた息を整えるように深呼吸をした。自分が怒ったところで彼は動じない。殴られても平然としている。振り回されてはだめだ。
「先輩は、終始そんな感じなのですか?」
「そんなって?」
「今のところ、人を怒らせるような言動しかしていませんよ。それを狙ってるんですか?」
「好き好んで怒らせたいわけじゃないけどね。そうか、僕はやっぱり失礼なやつなんだねえ」
「つまり、わざとなのではなくて自然体だと?」
「そうだね。思ったことをそのまま言っちゃうのがダメなんだろうな、とは思う」
悪意はないのか。それはそれでたちの悪い。呆れる。一体彼はどんな生き方をしてきたのだろう。
「先輩は友人というものはいるんですか?」
「いると思えないから、そういう質問するんでしょ。せーちゃんも失礼だなぁ」
「いるんですか?」
同じ言葉でもう一度訊くと、
「いないけど、あはは」
銀鼠は軽快に笑う。気分を害した様子はない。
「元々作れないだろうけど、欲しいとも思わないからね。そういうの、煩わしい」
「腹が立ったことは? あるんですか?」
「ふふ、なんだか僕のことばっかりだね」
おかしそうに言うが、彼は素直に答える。
「んー、どうだろう。人を怒ったことはないかも」
自分が怒らないから、何を言って何をすると他人が怒るのかが瞬時に判断できないのだろうか。いや、怒られてはいるだろうからそこから覚えていけるものだろう。学習能力がないのか。子ども時代に学んでいくようなことを、彼はまったく理解していない。
だからこそ、殺人をやってのけることができたのか。
「パートナーなんて、僕には付かないと思ってた。実際今回が初めてだし。これでもね、対人能力に問題があることは自覚してるんだよ」
二杯目の果実酒を仰ぎ、銀鼠は笑み交じりに言う。箸を使わず、指先でサラダを摘まんで食べた。口端にソースが付いて、それをその指で拭う。
「直せばいいのでは?」
青磁は冷たく返してから、ローストビーフを小皿に移す。食べやすいように、箸で器用に巻いてから口に運んだ。綺麗に食べるもんだね、と銀鼠が呟く。
「直るもんなら、とっくに直ってると思わない?」
「思います」
正直に青磁が言うと、先輩がけたけたと笑う。彼は本当にいつも笑っている気がする。
「せーちゃんのその感じ、すごく気楽だ。案外うまくやれるかもな」
「あまり、嬉しくないですけど」
「控えめそうなのに、そうでもないね。言うべきことは言えるタイプか」
いたずらっぽく言う先輩に、青磁はふんと鼻を鳴らした。
「控えめになろうとしましたよ。しましたけど、先輩があまりにも無礼なので」
「僕のせい?」
「そうです」
「ふふ、そっか。ごめんね」
彼は青磁の暴言にも、変わらず笑顔で対応した。嫌味も直接的な暴言も、彼にかかればただの戯言と取られるのだろうか。そう思えるくらい、彼は眉の一つも顰めない。
「友人もいないとなると。銀鼠先輩は、今まで女性とお付き合いしたこともないんですか?」
「ないね。それこそ面倒だよ」
「まあそうでしょうね。でも」
もったいない。
ほろ酔いの頭で青磁は思った。
端正な顔立ちをしている銀鼠は、黙っていれば魅力的だ。ふわふわと癖のある銀色の猫っ毛に長い睫毛。奥二重の目は涼しげで、口元には基本的に微笑みが刻まれている。このくそみたいな性格を知らないままでいることができるのなら、よく笑う彼に惚れる女はたくさんいるのではないだろうか。
「でも?」
「いえ」
褒めるのも癪だから、青磁はただ首を振った。
「そういうせーちゃんは、童貞でしょ」
「ぶっ」
酒が鼻に入った。咳き込んだら一気にアルコールが回った気がする。顔が熱くなるのを感じながら、青磁は口元を荒く拭った。
「何を言い出すんですか」
「いやぁ、そんな感じするなって。いいじゃん? せっかくの恋バナだよ?」
「恋の話なんてまったくしてませんけど。童貞関係ないんですけど」
「首席だからね、そういうことに現を抜かすこともできないだろうなって思っただけだよ。他意はない」
銀鼠は嘘のような本当のようなことを言いながら楽しそうに酒を呷る。まったく酔った様子はない。アルコールに強いのだろうか。
「反応が初々しくてかわいいね。フレッシュだなぁ」
「先輩はさぞかし穢れてるんでしょうね」
「あはは、違いない」
青磁は笑う先輩を睨んでから、深くため息を吐いた。
「たしかに、俺は経験がないですよ。勉強と訓練で、それどころじゃなかった」
「せーちゃん、普段の一人称は俺なんだね」
そんなことはどうだっていい。
「でもそれは言い訳で、ただ単にモテないだけですよ」
「そう? モテそうなのに」
言われて、また先輩は睨みつける。彼は本当に不思議そうな顔をしていた。
「あなたみたいな、外見が綺麗な人に言われると余計腹が立ちます」
口が滑った。つい褒めてしまった。
青磁は、自分が見目よろしくないことを自覚している。それに加えて勉強と訓練に打ち込んできたから異性を寄せ付けない雰囲気も作り出していた。興味がないというと嘘になるが、正直煩わしいという銀鼠の気持ちも少しわかる。
「見た目なんて、どうだっていいと思うけどなぁ。勉強も運動もできて、性格も良さそうなんだから。あぁ、足りないと言えば」
銀鼠は刺身の盛り合わせに乗っていた飾りの花を弄っていた指を青磁に向けた。
「笑顔」
「えがお」
不意を突かれて、思わず復唱する。銀鼠は微笑んで頷いた。
「せーちゃんが笑ってるところ、まだ一度も見てない」
「笑う場面なんてありました?」
「うーん、怒らせる場面ならいっぱいあった」
あはは、と声を上げて笑う。
笑いたくなくて笑っていないわけではない。この男のせいで笑えないのだ。
「先輩はよく笑いますね」
「んーふふ、そうかもね。警軍に入ってからかな、よく笑うようになったの」
銀鼠は酒のなくなったコップを舐めながら、伏し目がちに青磁を見た。上目遣いも様になる。
「殺すのが楽しいんだ」
「あぁ、イカれてますね」
「実はそうなんだ、ははは」
なんとなく、銀鼠という男をわかってきた気がする。
どうしようもない屑だ。